第1話 最強とはヤツのこと
天下無双。
赤い愛馬に跨り縦横無尽に敵を斬り倒す戟。赤兎が駆け抜けるたびに蹄の音が鳴り響き天地が揺れる。彼こそがまさに三国志最強の武将。
関羽、張飛、張遼、甘寧、三国の物語に名将と称えられし武将は多かれど、「最強」の名はただ一人のために存在する。
その名は呂布。字を奉先と言う。
赤兎馬を駆り敵を討つ鬼神の如きその姿は「人中の呂布、馬中の赤兎」と恐れられし最強の名に相応しい。
三国志においては、幷州刺史の丁原に仕えたが、その後丁原を殺害し、董卓の元に仕えるようになった。しかし董卓との仲が険悪になると王允と結託し董卓を殺害した。
後漢最強の勇将に違いないが、彼は裏切りに満ちた生涯を送った。その後、自分を庇護してくれた劉備さえも裏切り、袁術と結託して下邳で劉備を討つ。しかし曹操の攻撃に遭い、捕えられた果てに最期を迎える。
三学で呂布は伝説の名である。三学の秩序を乱す者がいれば、人類最強の存在が赤い馬を率いて現れる。いかなる玉璽代理人も刃向かうことのできない存在だ。蹄の音が鳴り響けば罪を犯した者は震えおののく。そして必死に祈るのみ。
どうかその紫の目が自分を捉えないことを―――。
× × ×
イェリエル乃愛は屋上にいた。本来、屋上は立ち入り禁止だ。しかし屋上の鍵を開けることくらい、イェリエルにとっては簡単だった。イェリエルはしょっちゅうここで寝転び、気ままに時間を過ごしていた。
「ニャオーン」
彼女の胸には三毛猫が抱かれていた。まるで母親に抱かれているように猫はすやすや眠っていた。
猫と少女。見るものに癒しと安らぎを与えるような光景だ。
「ヤバい」
問題は、本人は全くそうではないということだ。
「ヤバい。ヤバい。ヤバい。とても、ものすごく、幸せだけど! 本当に本当にヤバいわ!」
背中から冷汗がだらだらと流れた。お腹の上で寝ている猫に、まるで全身が反応するようにぶるぶると震えた。イェリエルは猫が嫌いなわけではない。いや、むしろ好きだ。猫の写真や映像を見るだけで自然と幸せになるくらいだ。
ただ、深刻な問題があったのだ。
「なんで私猫アレルギーなのかしら?」
猫に触れるだけで全身に鳥肌が立つ。今の状況は地獄同然だ。それでも彼女は全く身動きがとれなかった。
「…」
お腹の上で寝ている猫はとても幸せそうだ。そんな猫を無理に起こすようなことはしたくない。
「どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう?」
進退両難だ。イェリエルは簡孫糜トリオに追われた時よりもさらにパニックに陥った。猫が足で顔を撫でた。
―――ニャア。
猫の姿を見るとイェリエルの心も穏やかになった。あらゆる心配事が吹っ飛んでしまうようだ。
「ううう」
それでも体は発狂寸前だ。
「幸せなのに地獄だわ!」
イェリエルはこの天国の拷問から抜け出せずに、心の中で悲鳴をあげた。
「おい、イェリエル、月夜。さっさと下りてこい言うたやんけ。何やっとるんや?」
その時、救いの手が現れた。キラキラ光るハゲ頭の長身男が、屋上の扉を開けて入ってきた。扉が開く音に驚いた猫が急に起き上がりイェリエルから離れた。
「あ、ああ……」
体は助かったと安堵した。ところが心は天国から地上へと墜落した。猫を見ていたイェリエルは落ち込んでがっくりとうな垂れた。
「どうしたんや?」
「……何でもないわ。グスン」
イェリエルは膝を抱えて涙を流した。怪訝そうにイェリエルを見ていたテカチュウが周りを見渡した。
「あん? なんで俺だけなんや?」
「うん?」
イェリエルは力なく顔を上げた。
「お前呼んで来いって月夜に言うたんやけど。来てへんのか?」
「ううん、さっきから私しか……」
「……チッ」
どこからか舌打ちが聞こえてきた。
「「……」」
イェリエルとテカチュウは音が聞こえたほうをそっと振り向いた。屋上の出入口近くの物陰に、一人の女が隠れていた。月夜だ。
「テカチュウ、邪魔よ。どいて」
月夜はカメラを手に持っていた。カメラのレンズはさっきからイェルエルをとらえている。
「あの、月夜?」
「はい。何か? イェリエルさん」
「いつからそこに?」
「イェリエルさんが猫相手に身動きとれずに苦しんでいる時からです」
「……」
「グッジョブ、子猫ちゃん。苦しんでるイェリエルさんラブリー!」
月夜は親指を立てた。イェリエルは何も言えず、ただぶるぶると震えている。
「おい、こら! 俺はイェリエル呼んでこい言うたんや。誰が写真撮れ言うた? ふざけとんのか!」
テカチュウが顔をしかめながら月夜に近寄った。
「自分だけ見ようやなんて卑怯なマネはやめるんやで。そういうのは全部共有財産ってやつや。ほれ、はよ俺のカードに転送せえや」
「断る。イェリエルさんのラブリーな姿は私だけのものよ」
「何やて? お前なあ、良いもんは皆で一緒に見なさいって仰った昔の聖賢のお言葉を知らんのけ?」
「イェリエルさんには適用されないわ」
テカチュウと月夜が口喧嘩を始めた。その様子を見ていたイェリエルはさらに激しく震えた。そして間もなくーー。
「ニヤオオオオオオオン!!」
猫のように鳴きながら爆発した。
ピッ。ピッ。
カメラからデータが次々削除される。月夜はカメラから写真が消されていくのを見ながら「あ、ああ、あああ」と絶望的な声を出した。
「カンニング?」
データ削除を完了したイェリエルは、テカチュウから興味深い話を聞いた。
「そうらしいわ。あのドラゴンとかいうやつおったやろ? とにかく、そいつが編み出したカンニングの方法があちこちで広まってるみたいやで。何やらえらいすごい方法みたいなんや。俺らも手に入れられへんかの?」
イェリエルはしばし考え込んだ。
「……わかった。やってみる」
「ホンマか?」
イェリエルは頷いた。所属制限解除アプリも手に入れたのだ。カンニングアプリくらいずっと簡単に手に入るだろう。
「そんなものが出回ってるのね?」
イェリエルは前に会った生徒会長を思い浮かべた。もし、彼がこの事実を知ればどう行動するだろうか?
「じゃあ、この話は後にしてそろそろ行きましょ。ほら、カメラ」
イェリエルは月夜にカメラを返し出口に向かった。月夜はひょっとしてと思いながら期待を込めてカメラを確認した。
【-NO DATA-】
「あ、ああ、あああ」
月夜はその場にヘナヘナとへたり込んだ。
「あ、ああ。私の愛の思い出が」
聞こえない。イェリエルは月夜を無視して屋上の扉を開いた。屋上を下りる前に、ふと猫が逃げた方向を見た。そこにはもう猫の姿はない。
「ふう」
失意からか、自ずと深いため息がこぼれた。




