第1話 バーチャル三国志
私立三緑高等学校――まったく、ここは、ふざけた学校だった。
双葉イェリエル乃愛は、猫耳ニット帽を目深にかぶりながら、学校の敷地内にある文房具店の上ではためいている旗を見ながら思う。
旗の形状は半透明、空にかかった雲が透けて見える。
これは本当の旗ではない。「玉璽」と呼ばれるこの学校の中核技術を使って作ったホログラムだ。
半透明の旗の真ん中には「蜀」という達筆な漢字が刺繍されていた。
三国志の魏・蜀・呉の「蜀」だ。
三国志とは、西暦200年頃、中国で三国に分かれて群雄割拠していた時代の歴史書。はるか昔の話だけれど、この学校では、現在進行形の話になっている。
「……あそこはいつから蜀の領土になったの?」
この学校で「旗」は、ここがどの領域に属するかを知らせるために使われる。あの旗は、文房具店が蜀の領域内にあることを知らせるものだ。
「イェリエル」
「イェリエルさん」
イェリエルに二人が近づいてくる。
一人は背丈が190cm以上はありそうな長身の男。イェリエルは彼の「頭の特徴」からテカチュウと呼んでいた。
もう一人は、テカチュウの胸くらいの身長のショートカットの少女。全体的にスリムで華奢な体つきをしており、名前は月夜という。
「おっと、もう蜀が共用エリアを占領したみたいやな。どうすっぺ?」
ここは元は「共用エリア」で、私立三緑高等学校の生徒なら誰もが使えるところだった。そこが蜀のテリトリーになったのだ。
「他の人たちの様子はどう?」
イェリエルが尋ねると、月夜は黙って首を傾げ横の方向を指した。その先には困っている生徒たちの姿が見えた。
「ここは俺たち在野の庭やのに。蜀の野郎どもめ、好き勝手やりよって。叩き潰したろか!」
「いいね、殺しましょっ」
テカチュウと月夜は平然と怖いことを言ってのける。
「ちょっと待って」
イェリエルは胸元から手のひらサイズのカードを取り出した。
「突然名牌カードなんか取り出してどうするつもりや?」
名牌カード。この学校の学生証だ。
それはまるでトレーディングカードゲームで使うカードのような形だ。裏にはこの学校の紋章、表にはイェリエルの姿がカリカチュアで描かれている。まるでゲームのように、ステータスの項目まである。
カードの表の所属欄にはこう記されている。
【所属 : 在野】
―――蜀ではない。
「まあ、だめもとでやってみましょう」
イェリエルは店に近づくと、前に設置されている端末にカードを通してみた。
「CAUTION。所属が違います」
無機質な機械音が響く。イェリエルの帽子についている猫耳がぴくりと動いた。猫耳の飾りはまるで生きているように反応した。
【この施設を引き続き利用すると追加料金が徴収されます。在野は原価の2倍です。使用しますか?〔YES / NO〕】
イェリエルは端末に表示された「NO」を押した。
「またのご来店お待ちしております」
「来るか!」
端末に八つ当たりしても仕方ない。
イェリエルは透明のガラス越しに店の中を見た。昨日とは店の主人が違う。昨日まではイェリエルの知人がこの店を運営していた。だが、今の店の主人は初めて見る生徒だ。
主人の腕に巻かれた腕章に刻まれた漢字は、店の上でなびいている旗のものと同じ。緑―――「蜀」の生徒だ。
「ブルーマーブルゲームでもあるまいし。二倍ってことは千銭のものを買うのに二千銭出すってことじゃん」
三学で使用する貨幣単位は「銭」だ。三国志の時代、使用されていた通貨の単位が「五銖銭」だったため、それが由来となっている。
ただし、実物の紙幣ではなく、名牌カードを通じて取引する電子マネーだ。校内で使うことが許されるお金は唯一これだけだ。
この「銭」を稼ぐ手段は限られている。だから同じものを買うのに二倍の値段を出すような馬鹿なまねをすると、生活費が苦しくなる。イェリエルは諦めて端末から離れた。他の所属の生徒たち、特に特定地域に属さない「在野」の生徒たちは困った様子で店を見ていた。蜀の腕章をつけた生徒らが、そんな在野の者たちを嘲笑いながら店の中に入っていった。
「何だ何だ? よそ者がなぜここでうろついている?」
「さっさと入って買えよ。もう時間がないぞ?」
「それともお前らのエリアにさっさと失せることだな。アハハハ」
「くそっ。蜀のやつらめ。共用エリアに手を出すとは…」
「強欲な魏ですら共用エリアには手を出さないというのに! 金に眼がくらんだ悪鬼どもめ!」
「やってられないぜ。うちのエリアに戻るぞ。チッ!」
生徒らは振り向きもせずにその場を離れていく。帰っていった生徒たちは皆「魏」や「呉」の腕章をつけていた。彼らとは違って数人の生徒は、どうすればいいのかわからず右往左往していた。
魏でも、蜀でも、呉でもない生徒たち。まさしくイェリエルのような「在野」所属の者たちだ。しかし、在野の者たちは、自分の所属がある魏や呉とは状況が違った。
「イェリエル、どうすんねん? 他の共用エリアは遠すぎるで。歩いて三十分はかかるべ」
テカチュウは怒りに震えながら歯ぎしりした。
「せやからって金を二倍も出すのもアホらしい。卑怯なやつらめ、在野に対する嫌がらせとかしか思えへん。皆ぶっ飛ばしてしまおか? やられっぱなしでええんか?」
「興奮するのはいいけど……」
イェリエルは他の在野の生徒に目を向けた。
「騒ぎを起こせば他の子たちに迷惑がかかるわ。<ござ一派>が騒動を起こしたら全部在野の責任になるのよ」
「それがどうしたんや? あいつらもやられっぱなしは嫌に決まっとる。俺らが代わりにやったるいうてんのに、むしろ感謝してほしいくらいやで―――イタタ、何で殴るねん!?」
月夜は拳でテカチュウの頭を殴った。月夜はよく見ないとわからないくらい、小さく眉をしかめた。
「イェリエルさんにそんな口きくなよ。殺すよ」
「な、なんやて? おい、この小娘。イェリエルだけが年上か? 俺も年上や。年上を敬わんかい!」
「……はあ。じゃあ、ハゲ様」
「おい、ハゲとは何や、ハゲとは!?」
テカチュウと月夜が火花を散らしながら睨み合った。
「やめて二人とも」
イェリエルはこめかみを押さえながらため息をついた。
「今はおとなしくして。私たちが騒いだら蜀のやつらがここぞとばかりに叩きのめしにくるはずよ? いつも私たちを潰したがってたんだから」
「そうや。ハイエナみたいな連中やまったく。あいつら見るたびにはらわたが煮えくり返るんじゃ」
テカチュウは鼻息を荒くしながら怒り狂った。
「在野」と呼ばれる生徒が置かれた位置は微妙だ。
この学校の生徒は、ある基準によって大きく三つの所属に分かれる。在野はそのうちどこにも属さない者たちだった。
つまり、学校側からすると彼らは中途半端な「問題児」なのだ。
「どうせ私たちは、魏蜀呉の落ちこぼれや問題を起こした生徒の寄せ集めなのよ。仮に何か起こったとしても教師は痛くも痒くもないでしょう。……私たちの味方は一人もいないんだから。一方的に相手のペースにのまれるだけよ。慎重にならないと」
イェリエルは帽子を深くかぶって店のほうを振り返った。
蜀の旗が憎らしくあちこちに翻った。
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