ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさ
むかしむかしあるところに、”物理学者”のゆうれいがいました。
研究中のフリョノジコで、彼は亡くなってしまったのです。物理学者のゆうれいは生前とても有名なガクシャさんでしたが、残念ながら彼の研究は日の目を見ることなく、泣く泣くガッカイから姿を消しました。それから彼は、何とか研究をものにしたいと思い、ゆうれいとしてこの世に止まることになったのです。
ところがどうでしょう。自分の研究結果のシリョウをまとめているうちに、彼は恐ろしいことに気がつきました。
「もしゆうれいがこの世に存在するとなれば、私の物理学研究は根底からくつがえされる!」
彼の研究は、”ナビエ-ストークスホウテイシキノカイノソンザイトナメラカサ”でした。名前からしてあんまり長すぎて、頭が痛くなるような研究です。それに物理学者の彼は長年、「ゆうれいは”いない”派」でした。彼が生きている間、ゆうれいなんて見たことも聞いたこともなかったからです。そんなものがいるのなら、早く出てきてトモダチになって欲しいと思っていたくらいでした。だからまさか自分が、存在も証明できないはずのゆうれいになってしまうとは、夢にも思っていませんでした。
「マイク、どうしたんだい? ゆうれいみたいな顔して」
「ミケ」
彼が浮かない顔をして頭を抱えていると、研究仲間のミケが心配そうに話しかけてきました。
「ミケ。どうやら僕は、ここにはいない方がいいみたいなんだ」
「一体どうしたんだ? 君らしくもない」
「さようなら。研究、頑張って完成させてくれよ。僕もハロウィーンにはまた顔を出すから」
「マイク!」
自分がこの世にいては、完成するはずの研究も完成しない。
仲間の引き止める声も振り切って、彼はシツイのうちにトボトボと研究所を出て行きました。
それから物理学者のゆうれいは、フラフラと宙をただよいながら、自宅にたどり着きました。
「ただいま」
「おかえりなさい。あらあなた、どうしたの? ゆうれいみたいな顔をして」
「ちょっとフリョノジコでね」
「あらまあ」
「そんなことより、今日はもう疲れた。休ませてくれ……」
彼は奥さんにカバンを預け、晩ご飯も食べずお風呂にも入らず、バタンとソファに寝転がりました。まさか自分の未練だったはずの研究に、自分でトドメを刺すことになってしまうとは。物理学者のゆうれいは、さっきよりも透明に薄くなっていく自分の体をながめ、深いため息をもらしました。彼の奥さんはフランスパンにバターを塗りたくりながら、心配そうに夫の顔色を伺いました。
「あなた、大丈夫? パン食べる?」
「メリッサ、ありがとう……」
彼は奥さんに精一杯の笑顔を浮かべ、汗をふきながらフランスパンの切れはしを受け取ろうとしました。ところがどうしたことでしょう。そこで彼は恐ろしいことに気がつきました。
「もし僕がゆうれいになった後もパンを食べ続ければ、ウチの家計はヒノクルマになる!」
彼の研究所でのオキュウリョウは決して高くはありませんでしたが、それでも妻と一人娘のリリアンと、何とかやりくりして三人で仲睦まじく暮らしていました。ですが、彼は今やゆうれいです。働き手を失って、これからどうやって毎日のご飯を用意すればいいのでしょう。もしここで彼がいつものようにパンを食べ続けてしまっては、いずれお金も底をついてしまいます。
「あなたどうしたの? 食べないの?」
奥さんにそう尋ねられ、彼は思わず目をそらしました。
「僕は、いいよ」
「でも食べなきゃ。あんなにパンが好きだったのに……元気出ないわよ?」
「お腹空いてないんだ!」
「マイク! 待って!」
自分がこの世にいては、妻や娘に食べさせる分も用意できない。
奥さんの引き止める声も振り切って、彼はシツイのうちにトボトボと自宅を出て行きました。
それから物理学者のゆうれいは、フワフワと宙を漂いながら、やがてキョウドウボチの十字架の前にまでたどり着きました。あたりはうす暗く、誰のヒトカゲも見えません。真っ黒なコウモリが、家に帰ろうと彼の耳元をかすめて飛んで行きました。物理学者のゆうれいは、家にいた時よりもさらに影が薄くなっている自分に気がつきました。自分のゴセンゾサマが眠る石碑の前で、彼はぼんやりと立ちすくみました。
「僕はもう、この世にはいない方がいいのかもしれない……」
「やあ」
「あなたは……?」
物理学者のゆうれいが泣きそうな顔をしていると、土の中から突然はんとうめいの見知らぬおじいさんが生えてきました。おじいさんの体は向こう側が透けて見えて、その顔は何となく彼に似ていました。彼は目を丸くしておどろきました。
「どちら様ですか? そんなゆうれいみたいな顔をして」
「それはこっちのセリフじゃ。お前さんこそ、こんなところで何をしとるんじゃ」
「僕は……」
そこで彼ははんとうめいのおじいさんにこれまでのケイイを話し始めました。自分がもともと物理学者で、ゆうれいになってしまったこと。このままでは長年続けて来た研究がダメになってしまうかもしれないこと。自分のせいで、家族が食べるご飯を用意できないかもしれないこと……。
「……だから僕はもう、この世にいない方がいいんです。どこにいたって、迷惑をかけてしまうもの」
「ふむ」
「ゆうれいはゆうれいらしく、大人しく土の下に還ります……」
「ちょっと待った。お前さん、それは誰に言われたんじゃね?」
「え?」
地面に頭から突っ込もうとしていた彼は、おじいさんの言葉に動きを止めました。おじいさんは物理学者のゆうれいに似ているその目で、彼をじっと見つめました。
「研究がダメになるかもしれん。家族のフタンになるかもしれん。こうかもしれん、ああかもしれん。じゃがそれは、お前さんが勝手にそう思っとるだけかもしれないじゃろ?」
「でも……」
「ゆうれいがいるとはっきり分かれば、それこそ研究は今までのがひっくり返るくらい進歩をとげるかもしれん。それに一緒にご飯を食べてあげれば、少なくともその娘が父親を探して寂しがることはなくなるかもしれん」
「…………」
「そりゃいつまでも、この世にしがみつくのもどうかと思うがの。お前さんの場合は土の中にもぐる前にまず物理学者として、それに父親としてやるべきことがあるかもしれん。これはゆうれいとして、センパイからのアドバイスじゃ」
それにこれ以上土の中に来られたら、狭くてかなわんからの。
おじいさんはそう言って、眠そうに土の中に戻って行きました。物理学者のゆうれいはおじいさんを追うかしばらく迷いましたが、やがてキビスを返し来た道を戻り始めました。
「ただいま」
「マイク! 探したのよ!」
「パパ!」
彼が家に帰ると、玄関先で奥さんと娘のリリアン、それに心配して様子を見に来ていたミケが出迎えてくれました。
「あなた、せっかく作ったんだから。食べられないんだったら、せめて一緒に座って話しましょう?」
「メリッサ……」
「フリョノジコがなんだい。カガクノハッテンニギセイハツキモノじゃないか。それに、君のそのふわふわした動きを見ていると、流体力学の数式にこれまでにない新たな閃きが生まれそうなんだよ」
「ミケ……」
「パパ!」
リリアンははんとうめいの体を突き抜け、彼の体の中でピョンピョン飛びはねました。彼は娘を抱きしめようとして……自分の透けた手のひらに気づき、少し悲しげにそれを見つめました。どんどん透明に薄くなっていく体は、今にも消え去ってしまいそうでした。それは仕方ありません。彼は物理学者であり、父親であり、何よりゆうれいなのですから。いつかは土の中に還る日が来るでしょう。
「じゃあな、マイク。明日もちゃんと来いよ」
「ああ。ありがとう」
「さ、ご飯にしましょう?」
「そうだね」
でもその日は今日、じゃないかもしれない。
彼は顔を上げ、それから家族の待つリビングへと向かいましたとさ。おしまい。