リンドウの物語
学校からの帰り際に、私が見つけたのは青い花だった。
通学路の曲がり角にある、広い空き地の草原。こんなところに目を留めることなんて滅多にないけれど、家の鍵のストラップをくるくると回して遊んでいたら、こんな場所に飛んでいってしまったのだ。
それで、鍵を探していたらこの花を見つけたというわけだ。
なんていう花だったっけ。昔、図鑑で見た気がした。
百合のような形をしていて、奥の方だけ黄色い。
青くて小さいけれど、他の花とは違う不思議な雰囲気を漂わせていた。
「ねえ」
突然背後から声がして、私は振り返った。
「これ、探してるんでしょう?」
立っていたのは、八歳くらいの女の子だった。青色の花を模した髪留めで茶色の前髪を留めている、幼げな顔立ちの可愛らしい子だ。小さな手に私の鍵を乗せて差し出している。
「あ、うん。ありがとう」
しゃがみこんでいた私は立ち上がると、鍵を受け取った。
「その花を見てたの?」
女の子は私の後ろにある青い花を指して首を傾げた。
私は頷いた。
「うん。綺麗な花だったから、つい」
「そうなんだ。その花、可愛いでしょ」
女の子が嬉しそうに言った。花の側にしゃがんで、花を撫でる。しばらくそうしていたが、やがて、ふと口を開いた。
「昔ね、ここにおばあさんが住んでいてね、その時に植えたの。でも、十年前に息子さんと住むからって引っ越して行っちゃったの」
女の子が寂しげだったので、私も隣にしゃがみこんだ。
「草が高く伸びちゃうと、生きていられないんだよ。
今あるのは、これが最後なの」
女の子はため息を吐いた。長い睫毛が揺れる。女の子は泣きそうな顔で私を見つめた。
「どうしたらいいのかな?」
私は考えた。
除草剤なんて撒いたらこの花も枯れてしまうだろう。他の丈高く伸びた草を刈ろうにも、今は刃物は何も持っていなかった。
それに、今すぐなんとかしないとこの花が萎れて、この女の子が泣いてしまうような気がした。
考えに考えた挙句、私は言った。
「とにかく、草を抜こうか。この辺りの草だけでいいから。そうしたらお日様が当たるようになって、お花も元気になるよ」
女の子は不安げに私の言葉に耳を傾けていた。そして、うん、と小さく頷いた。
私と女の子は、手分けして草を抜いた。丈は高いし、茎には虫も付いていた。しかも、根っこが張っていてなかなか抜けない。
それでも、女の子は文句一つ言わなかった。相当必死なんだろう。
手元が見えなくなった頃、私はようやく、今が夜だということに気がついた。
「どうしよう。もう帰らなきゃいけないのに」
草はまだもう少し抜かないといけない。このままでは真昼の日差ししか当たらない。
悩んだけれど、私は結局草を抜く作業を始めた。
家に帰れないと、もう何時か分からない。今は九月の半ばだから、日が沈むのはだいたい五時半くらいだ。
今は月明かりでやっと手元が見えている。そろそろ七時くらいじゃないだろうか。
「お姉ちゃん、ごめんね」
ふいに女の子が言った。見ると、眠そうに目をこすっている。
「もう私、帰らなきゃ」
そうだよね、と私は反省した。この子を帰らせてあげればよかった。
「お姉ちゃんも、帰っていいよ。もうお日様は当たるから」
もう少し作業をしていたかったけれど、仕方なく頷いた。時間が時間だから、もう家に帰らないと。
「わかった。じゃあね」
「うん。ばいばい」
女の子は私に手を振ると、くるっと背を向けた。私もカバンを持って草原から出る。
振り返ると、女の子はもういなかった。けれど、不思議な青い粉のような光があの花のところに見えた気がした。
*
翌朝、こっぴどく叱られて気落ちしたまま、また私はあの草原を通りかかった。
足を止めると、友達も止まる。
「どうしたの?」
私はあの花が気になって仕方なかった。不思議な青い花。
「ごめん、ちょっと先に行ってて」
言って、私は草をかき分けてあの花のある、そこだけ草の無くなった場所に向かった。
「来てくれたの?」
そこには、昨日の女の子がいた。……いや、昨日の女の子ではないのかもしれない。
女の子は、昨日は私の胸くらいの身長だったのに、今は私の首の辺りまである。心なしか、顔立ちも少し大人びて見えた。
「お日様が当たるようになったの。お姉ちゃんのおかげだよ」
無邪気に笑って言う。間違いない。この子は昨日の女の子だ。不思議なこともあるものだ。
「そっか、よかった。また、今日も帰りに来るからね」
叱られたことはもう頭になかった。
「うん、ありがとう!」
私は急いで草原から出た。昨日と同じように振り返ってみる。そこにはやっぱり、女の子の姿はなかった。
それから数日の間、私は女の子と一緒に毎日草を抜いた。花は見違えるほど元気になり、私は満足だった。けれど、不思議なことに女の子も日に日に大きくなっていた。
放課後、部活が終わり、今日も私はあの花のもとに向かった。
珍しいことにいつもの女の子はまだいないようだった。
私は荷物を降ろすとまた草を抜き始めた。朝日を当てるために、もう少し抜かないといけない。
土を踏む音が聞こえて、私はああ来たんだなと振り返った。
予想通り、そこには女の子が立っていた。もう私と同じくらいの身長になって、綺麗な花のようになった美人な子。
しかし、今の女の子には驚くほど元気がなかった。サラサラだった髪もパサパサしているし、顔にも疲れきった表情を浮かべている。
「今までありがとう、お姉さん。でももう時間なの」
女の子はそう言い残すと、ぱっと消えた。
私はしばらく呆然としていた。青い花を見つめる。
青い花は、昨日とはうって変わって元気が無く、端が茶色く変色していた。
「時間……もしかして、花の寿命……?」
私ははっとした。女の子が言っていたのは、日が当たるとかそんな話じゃない。
この花が、枯れる。
そういうことなんじゃないか?
私は立ち上がった。どうすればいいのだろう。
思いつき限り、この花を枯らさない方法を考えた。けれど、そんなものはなかった。花は命あるものだ。枯れてしまうものだ。
私はもう萎れた花を見ることができなくて、草原を出た。
*
翌日は土曜日だった。部活の後、私は結局草原に向かって走っていた。
見ると、花はすっかり枯れてしまっていた。
「あー……」
私は肩を落とした。
「最後の花だったのに。あの子の……」
「お姉さん」
声が聞こえた。あの子の。
顔を上げると、女の子が立っていた。輝くような姿で、目一杯微笑んで。
「おばあちゃんに会えるかな」
その瞬間、青い粉が私を取り巻いた。
古い記憶が混ざり合って蘇る。
幼い頃図鑑で見た青い花。名は、リンドウだった。
園芸用植物で、日射量が足りないとすぐに枯れてしまう儚い花。
そしてそれを育てるおばあさんの姿。
リンドウの中から立ち上がった粉が、光を纏いながら一人の女の子の形を作っていく……。
「……そうだね、会えると思うよ」
「うん。ありがとう。それじゃあ」
私はその女の子に微笑んだ。
「さようなら、リンドウ」
女の子は笑った。
気が付くと、そこには私しかいなかった。青い花は枯れていて、葉までも萎れている。
けれど、私は満足だった。
あの子は、ここに住んでいたおばあさんが植えたリンドウだったのだ。そして、亡くなったその人のもとへと行った。それだけだ。
私はゆっくりと、リンドウのあった草原を後にした。
その後しばらくして、あの草原には家が建った。
綺麗に刈られ、立派な一軒家になり、今は三人の親子が住んでいる。
それでもいいか。
だって、あの親子はここで新しいリンドウの種を拾って育てているそうだから。