「トワコさんはもういない」
~~~新堂新~~~
ギィを見送った直後の下り電車に、トワコさんは乗っていた。
俺たちは乗降口を挟んで、束の間向き合った。
「……」
1週間も経ってないのになんだかひさしぶりのような気がして、俺はまじまじとトワコさんを見た。
トレードマークのセーラー服姿ではない。赤いマフラーも巻いていない。学生鞄だって持っていない。
出かけた時の格好とも微妙に違っていた。空をそのまま映したような色のワンピースに白いミュール。肩には大きなトートバッグをかけている。
発車ベルの音に後押しされるようにして、彼女はホームに降りた。
俺たちは頭ひとつぶん身長が違うので、彼女は下から俺を見上げるようにしてきた。
黒々と深みのある双眸。上向きにカールしたまつ毛。
いつもより綺麗に見えるのは俺のひいき目だろうか。ほんのり薄化粧のせいだろうか。鼻先をくすぐる香水の香りのせいだろうか。
いや違う。
俺は気づいた。
俺はいままでなんだかんだあっても、トワコさんのことをそういう対象として見ていなかった。
IFと創造主の関係であり、子供と親の関係であり、生徒と先生の関係であった。
そこにはいつだって何がしかの付加価値がくっついていた。
一切合切すべてをとっぱらい、至近距離から男女の関係で見つめてみると、なんというかもう、このコは……。
すごく……可愛い。
ごくりと唾を呑んだ。
「………………っ」
異性として意識してしまって、頬が急速に熱くなった。
ホームを行き交う男どもがこちらを見ている。
お母さんに手を引かれた少年ですらこちらを見ている。
女の子たちは羨望の眼差しをおくっている。
彼女の美しさ――たとえば長い黒髪の艶やかさに、スレンダーなボディラインに、繊細で優美な顔の造りに。
俺なんかでいいんだろうか。心の底からそう思う。
こんな地味な俺が、彼女の前に立つ資格があるんだろうかって、気おくれする。
「あ、あのね……?」
トワコさんが先に口を開いた。
「う、うん……」
「その……」
トワコさんはもじもじと切り出しにくそうにしていた。
「な、なんでしょう」
促してみると、
「……元気してた?」
後ろ手に手を組み、ちろりと上目遣いに聞いてきた。
「ごらんの通りで」
「……じゃあ、やっぱりあんまり食べてないんじゃない? 顔色悪いし」
「あ……いや違うんだ。ごらんの通り元気だよって言いたかったんだ。たしかにここのとこ夏バテ気味で、見た目具合悪そうに見えるかもしれないけど、まったく全然大丈夫。いたって元気なもんでさ――」
「………………わたしがいなくても?」
ぼそりとつぶやいたトワコさんの、ちょっと恨めしげな言い方に膝が震えた。
思わず緩みそうになった口元を手で押さえた。
なにこれ……可愛いっ。
いつのもトワコさんと違う。
すごく女の子っぽい、計算し尽くされた所作だ。
なんというかあざとい。あざといけど可愛い。
「い、い、いやっ、そうじゃなくてっ」
慌てて否定しようとした俺の唇に、トワコさんはぴとりと指をあてた。
「いいの……別にわたしは……新が幸せなら……」
くるりと寂しげに背を見せる。
肩越しに俺を見る。
儚げな視線を寄こす。
「わたしのことは気にしないで、誰か他の人を見つけて? わたしは遠くから新の幸せを願ってるから……」
かはあっ……。
とてつもないいじましさに、吐血しそうになった。
後ろにちょっとよろめいた。
「――っ」
トワコさんが、はっとしたような表情になった。
「新! 大丈夫⁉」
別にそれほどピンチだったわけではないが、ぐいと手を掴んで俺を引き戻してくれた。
「あ、ありがとう……」
至近距離で、ほとんどくっつような体勢になった。
頭一つ分背の低いトワコさんは、俺の顔を見上げ、不意に「あ」みたいな表情になった。
例えるなら、台詞が飛んだ役者みたいな表情だった。
「ちょ……ちょっと待っててね……っ」
トワコさんは慌てて俺から身を離すと、後ろを向いてしゃがみこんで、トートバッグの中を漁り出した。
やがて目当てのメモ帳を見つけると、パラパラとめくり出した。
「えっと……こ、こういう時はどうするんだっけ……」
ぶつぶつとつぶやきながらページを繰る。
「体と体が急に触れ合った時……えっと……顔を赤らめて口元を抑える……。もしくはいきなり睨みつけて頬を叩く……」
「トワコさん……?」
「どう使い分けるのかも書いておいてよっ。ああもう……っ、これだけじゃよくわかんないじゃない……っ。せっかくここまでいい感じだったのに……っ」
「……ね、ねえ、トワコさん?」
「ちぇ……仕方ないわね。絶好のタイミングを逃した感じだし……あ、これにしようかしら。えっと……ハンカチを落として拾ってもらう。受け渡す時に指と指が触れ合って『きゃっ』と顔を赤らめる。これね、これがいいわ」
「トワコさんってば」
ぽんぽんと肩を叩くと、トワコさんはうるさげに肩を揺すった。
「なによ。ちょっと待っててよ新。いまいいのを探してるところなんだから」
「それさ、たぶん俺の目の前でやっちゃダメなやつじゃない?」
「………………え?」
振り向いたトワコさんは、再び「あ」って顔になった。
どこからか声が聞こえた。
声のほうに目を向けると、ホームの柱の陰から女の子の一団がこちらを見ていた。
「しまった! バレた⁉ せっかくいい雰囲気だったのに! もうちょっとで完オチだったのに!」
「ぐぬぬぬぬ……! せっかくここまできておきながら……! ええい! 最後は白兵戦っす! こうなりゃガンガン切り込むっす! 敵はもう陥落寸前っすよ⁉」
奏に桃華に小鳥に真理。
クラスメイトたちが押し合いへし合いしながら、トワコさんを応援している。
「これはこれで熱い友情……なのかな……」
ため息をつきながら、トワコさんの手を引いて立たせた。
「ちょっと旅に出ようか。トワコさん」
「え? うん? 新?」
ちょうど目の前にあった下りの急行に乗り込んだ。
唖然とする女の子らの目の前で、ドアが閉まった。
「もう……どうするのよ。こんなとこまで来ちゃって」
急行の終点は海水浴場だった。盆を過ぎ、いまやクラゲの出る季節、純粋な海水浴客の姿はあまりない。
温泉客や、BBQを目的とする若者たち、海辺を歩くことを目的とする恋人たちの姿が目立った。
「いいじゃないか。ちょっと歩こうよ。デートだよデート」
ふたりして、強い日差しの中に歩み出た。
「で……デート……ッ?」
慌ててメモ帳をめくろうとするトワコさん。
「これはもういいから」
トワコさんの手から、俺はメモ帳を取り上げた。
「ダメよ! それがないとわたし……っ」
ぴょんぴょん跳ねて必死に取り返そうとするトワコさんだが、
「こんなのないほうが、きみは魅力的だよ」
「――⁉」
俺がそう言うと、心臓を打たれたように、彼女はたたらを踏んでよろめいた。
無防備な彼女の手を引いて、俺は浜辺へと向かった。
彼女は他にどうしようもなく、ただ俺のあとをついて来た。
俺は熱くなった顔を見られないように、しばらく後ろを振り返らなかった。
「やー、熱いね。ビーサンでも買ってくればよかったかな」
夏の浜辺は焦げ付くように熱を帯びて、素足になった俺たちを容赦なく責めた。
トワコさんは靴を脱いで手に持って、やっぱり熱そうに足をぴょんぴょんさせている。
「ね、ねえ新。さ……さっきのってどういう……」
海風に髪をなびかせながら、トワコさんは聞いてきた。
「わかんない?」
「わからなくはないけど……どうしたらいいかはわからないの」
砂に反射する光の眩しさに、トワコさんは目をすがめた。
「俺にもわからないんだ」
「……へ?」
トワコさんはぽかんとした顔になった。
「俺にも正直、どうしていいかはわからないんだ。ベストな答えを探していろいろあがいてみたけど、それでもやっぱりわからなかった。……これもたぶん、そういうものなんだろう?」
メモ帳を返すと、トワコさんはそれが何かのお守りみたいに胸に抱いた。
「……うん」
トワコさんは神妙な顔でうなずいた。
「みんなが心配してくれたの。みんなが親身になってくれたの。わたしの想いが成就するようにって。わたしの恋が実りますようにって……」
決して暑さのせいではなく、トワコさんの頬が赤くなった。
「一緒になって考えてくれたの。こういう時はこうすればいい。こうするべき。こうすればイチコロ。新が好みそうなのを選んでくれたの」
「俺が?」
トワコさんは語気を強めた。
「うん。だ、だって……わたしにはわかんないんだもんっ。いまの新は、あの時の新じゃないからっ。子供の頃の、学生の頃の、無邪気でまっすぐわたしだけを見ててくれた新じゃないから……っ」
「そんなに変わったかな……俺?」
たしかに昔より背は伸びて、声も太くなった。出来ることは増えたし、行けるところもやれることも増えた。
でも果たして、俺はそんなに変わったのだろうか。他から見てそれとわかるほどに、俺は変われたのだろうか。
「……変わったわよ」
トワコさんはぽつりとつぶやいた。
「新は変わったわ。マリーさんと真理の仲を取り持って。奏と桃華を落ち着かせて。霧ちゃんを成仏させてあげて。世羅の居場所を作ってあげて。HBMと一緒に戦って。孝を泣かずに見送って。ミカグラ様の新たな相を作って。ギィの前からも逃げないで。わたしを……守ってくれて――」
トワコさんはメモ帳を指し示した。
「嬉しいけど不安なの。好きだけどどうしていいかわからないの。だから教えて? この中から選んで? あなたの好きな女の子を。わたしはそれになるから。あなたに好かれるような女の子になるから。もう一度、わたしを創って? あの時みたいに。かつてあなたがそうしたように――」
「……っ」
しばらく口が利けなかった。
自分の創り出した女の子の重篤な病に気が遠くなった。
一瞬どうしていいかわからなくなった。
一瞬くじけて泣きそうになった。
「……っ?」
――誰かが俺を呼んでいた。
心臓を内側から、どんどん強く叩いてた。
俺は目を閉じた。
誰かの声に耳を澄ませた。
紅子がアホくさそうに肩を竦めていた。
小鳥とペーパートワコさんが、俺とトワコさんの絡み合う何かを描いてた。
真理がマリーさんと一緒の衣装ではにかんでいた。
孝の肩に奏が手を置き、姉弟のように声援をおくっていた。桃華はうらめしそうにそれを見ていた。
服部老人が優しげな目でこちらを見ていた。
世羅と霧が、ふたり仲良く手を振っていた。
真田兄弟がギャアギャアと騒いでた。
HBMがレスラー勢揃いでポージングしていた。
ヒゲさんと古屋先生が、まるでカップルみたいに手を繋いでいた。
黒子とギィは、関係ねえって顔をしてた。
タツとトラがファイティングポーズをしてた。
鈴ちゃんを抱っこしたミカグラ様がニコニコと歌を歌い、鈴ちゃんがそれに唱和し、ヴィクトールさんがアコーディオンを弾いていた。
勝が配達のバイクに乗って、ビールのケースを運んできた。
パーティが始まった。
平和な光景だった。
誰もがみんな、幸せそうな顔をしていた。
歌を歌い、踊りを踊った。料理を口にし、酒を酌み交わした。
真田兄が急に倒れた。大鍋からすくったポトフ……雛のあれか……。
だけどギャグマンガみたいにすぐに復活した。
みんながそれを見て笑った。
面識のある者もそうでない者も、一様に笑ってた。
パーティの輪の中から、世羅がひとり出て来た。
左足を前に、右足を後ろに構えた。顎の高さまで拳を上げた。
――ボックス!
次に出て来たのは雛だ。
あの春の夜と同じドレスワンピースを着ていた。
片手に真鍮製のゴングを持ち、片手に木槌を握っていた。
口元にはなぜか白いつけヒゲ。ふもふもと何かのキャラクターみたいに喋ってた。
目をキラーンと輝かせると、音高くゴングを鳴らした。
いつの間にか、ふたりの周りに全員が集まっていた。
口笛を鳴らす、足を踏み鳴らす――叫ぶ。
思い思いの方法で、俺の背中を押してくれた。
新、頑張れよって。
絶対逃げんじゃねーぞって。
――その間、実に0.5秒。
――最初から最後まで、俺の妄想劇場。
「はは……」
こんな時に何をしてんだ、俺は。
バカバカしくて、思わず笑ってしまった。
「……新?」
トワコさんが不思議そうな顔をした。
束の間トリップしていた俺を、心配そうに見上げてた。
あいつらは大事なことを教えてくれた。
戦うこと。
逃げないこと。
俺が変わったというなら、それはたぶんみんなのおかげだ。
ふらつきかけていた足を踏ん張った。
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
ひたむきなトワコさんの目を見据え、俺は言葉を紡いだ。
「きみはそのままでいい。そのままのきみでいい。そのままのきみが好きだ。そのまま変わるなってことじゃない。過去のきみも、現在のきみも、未来のきみも、全部好きだ。この気持ちは揺らがない。変わらない。だからきみはきみとして生きていけばいい」
「……っ」
トワコさんは目を大きく見開き絶句した。
「きみはまだ子供なんだ。すべてが白紙の女の子なんだ。それが悪いってことじゃない。同年代の子はだいたいそうだ。自分の進路に悩み、将来に悩み、過去や現在の人間関係に縛られてる。特別なことじゃない。みんなけっこうそんなもんだ。なるべき自分を想定できてる子なんて滅多にいない」
「……わからないのが普通ってこと?」
半信半疑、といったようにトワコさんは聞いてきた。
「そうさ。きみは普通の女の子なんだ。普通の女の子と同じく悩み、苦しみながら成長していくんだ。もう絵日記なんて必要ない。メモ帳だっていらない。きみを規定するものはすべて失われた」
トワコさんは真っ青になった。
「……もうわたしなんていらないってこと?」
「そ――」
そっちのほうにいっちゃったか。
「そうじゃない! そうじゃないよ!」
俺はちょっと声を荒げた。
「きみがいないと俺が困る! きみがいないと俺が悲しむ! さっきも言ったろ⁉ 俺はきみが好きなんだ! きみにずっと傍にいて欲しいんだ! きみがいない間、俺が何を考えてたと思う⁉ きみが戻った時の将来設計だ! きみが卒業するのを待って結婚! 進学や就職したいならそっちを優先! でもって結婚! 新居を構え! 子供をもうけ! 末永く幸せに暮らす!」
「……っ」
「根暗だろ⁉ ほんっとに気持ち悪いだろ⁉ でもそれが正直なとこなんだ! 絵日記を失って! 家族も記憶も失って! 最後に残ったのがきみなんだ! きみへの想いだけなんだ! トワコさん……いや、三条永遠子さん!」
ガシリ、永遠子さんの手を掴んだ。
「は、はいぃっ⁉」
突然のことに、永遠子さんは声を上擦らせた。
「好きだ!」
「……⁉」
「絶対に後悔はさせない! 絶対に幸せにする! 食べきれない食べ物に困ってる時は俺が全部食べてやる! 拭えない涙に困ってる時は俺が全部拭ってやる! きみがピンチの時には俺が必ず駆けつける! すべての設定を補完する! きみのためにすべてを捧げる! この体も、魂も! 望むなら命だってくれてやる! だから永遠子さん! 俺と……これから先もずっと……」
「ずっと、一緒にいてください!」




