「彼女にはよくわからない」
~~~猪狩真理~~~
合宿が終わっても夏休みは終わりじゃなかった。
日数的にも残っていたし、個人的には宿題も残っている。
はあ……。
夏休みの宿題なんて制度、最初に誰が考えたんだろう。休みならきちんと休ませてくれればいいのに……。
ため息をつくが、あるものはしかたない。泣いてもわめいても消えてくれない。
クラスメイトの中には夏期講習で忙しい人だっているわけだし、そういう意味では贅沢も言えない。
ただひたすらに、ただ粛々と、一問一問解いていくしかない。
――なあなあ、まだ終わらんのか?
ベッドの上に置いておいた掌サイズのホワイトボードがひとりでに宙に浮き上がると、紐で結わえられているマジックが勝手にキャップを外し、さらさらと文字を描いた。
「……ううーん。今日いっぱいは無理かなー……」
ホワイトボード消しで文字が消され、新たな文字が描かれた。
――つーまーらーん! とっととすませい!
「たははは……」
怒りマーク付きのメッセージに苦笑した。
メッセージの主はマリーさんだ。
見えない聞こえない触れない。
普通の人間であるわたしがメンターとなった彼女の存在を覚知するには、なんらかの道具を使うしかない。
ガラス越しに会話してるみたいでもどかしいけど、でもこれだって格段の進歩だ。
ちょっと前までは、わたしはマリーさんと永遠に隔絶された関係だった。
だけどこの数か月で色々あって、今やこうして会話に似たことすら出来るようになった。そこにいるマリーさんを感じられるようにすらなった。なんてことない日常が戻って来た。
――ええい! 埒があかん! つまらん勉強は今日はしまいじゃ! 真理! 表へ出るぞ!
「ええー……でも、早めに終わらせないと……」
――あとじゃあと! 夏休みはまだまだあるんじゃろうが!
「そうやっていつも終わりの2、3日で泣きを見るのがわたしなんだよね……」
――はいうるさいやかましい! ほれ! 行くぞ! 準備しろ!
「ああもう! タンス漁るのやめてよ! 服くらい自分で出すから!」
「はあー……けっきょく押し切られてしまった……。わたしは意志が弱い……」
せめてもあんまり遠出しないことを条件に、わたしはマリーさんと一緒に散歩に出かけた。
うだるような暑さの中向かったのは、近所の大きな公園だ。敷地が広く、噴水に野球場にアスレチック施設に売店まで完備しているので、近所の人はもちろん遠方からもお客が絶えない賑やかなところだ。
アイス売りのおばさんからピンクと黄色の2色アイスを2本受け取ると、ベンチに座ってマリーさんと一緒に食べた。
鳥やセミの鳴き声を聞きながら、陽ざしを遮る木陰の下のベンチに座り、よしなしごとを話しながら冷たくて甘いアイスを舐める。
……幸せだなあ。
そんなことを考える。
たとえ通りすがりの人がじろじろ不躾な目でこちらを見て来ても。
ぶつぶつひとりごとをつぶやきながらアイスを2本食べているように見えることや、この暑いのに長袖のゴスロリ衣装を身につけているのを怪しまれても。
確実に今この瞬間、わたしは幸せだった。
ふっと、誰かがわたしの前を通り過ぎた。
見覚えがある横顔を目で追うと、トワコさんだった。
ふらぁり……ふらぁり……幽鬼のような足取りだ。
「ちょ……トワコさん大丈夫⁉」
慌てて呼び止めると、トワコさんはゆっくりとした動作で立ち止まり、振り返った。この炎天下なのに、真っ青な顔をしている。
「なんだ……委員長とマリーさんか……………………なんですって?」
興味なさげにつぶやいたトワコさんの表情が、突如ぴきっと硬直した。
ぎらり、マリーさんのいるあたりを睨みつける。
「え、何か言ったのマリーさん⁉」
殺し屋みたいな目をしているトワコさんは、ふるふると震える指でマリーさんを指さした。
「だ……誰が家出少女ですって……⁉」
「い、家出⁉」
驚き訊ねると、マリーさんはホワイトボードにこう書いた。
――こやつ、合宿の日から家に戻っておらんのじゃ。
「ええええええええっ⁉」
いやがるトワコさんを無理やりベンチに座らせ事情を聴いた。
「ど、どうしてそんなことになってるの⁉ 先生とケンカでもしたの⁉」
「いや……別に……」
トワコさんは目をそらした。
「……新はいつも通りよ。いつも通り優しいし、何かにつけてわたしのことを気にかけてくれるわ。あっちにもこっちにも、衝突するようなことは何もない」
「だったらなんで……」
「……わかんないの」
トワコさんはもじもじとスカートを握り、うつむきながら話す。
「どうしていいか……わかんないの」
「わかんないって……」
「新が言ったの。『雛と別れた』って」
「雛さんと……?」
先生の幼馴染で、超級の美人。合宿にも来てたっけ。
「す、凄いなあ先生。じゃ……じゃあっ、先生はとうとうトワコさんに⁉」
思わず力んで拳を握ってしまう。
「別に……何もされたわけじゃないわ。告白されたわけでもなく、ただ普通にしてるだけ。あのまま家にいたら告白されたまであるかもしれないけど……」
何それ羨ましい。
………………はっ⁉
内なる自分の声に驚いて、わたしは大きな声を出した。
「だ、だったらいいじゃない! 早く家に戻ろうよ! 合宿の日からって……もう4日も経ってるよ⁉ 今までどこにいたの⁉」
「えっと……初日はネカフェで……2日目もネカフェで……3日目もネカフェで……今日
もこれから……」
「なんでネカフェばっかりなの!」
「安いし……他に行けるところなんか知らないし……」
「奏さんのとことかぴよちゃんのとこでもいいじゃん! 泊めてもらえばよかったのに!」
「え……でも……迷惑でしょ? わたし……そういうのしたことないから……」
弱り切った声のトワコさん。
「もう!」
ガシッと、トワコさんの手を掴んだ。
「ダメだよ! 女の子がそんな生活! そもそも先生と連絡はとってるの⁉」
「……とって……ない……」
トワコさんは塩らしく頭を振った。
うがあああああっ!
わたしは天を仰いだ。
おとなしいトワコさんが超々かわいい! 普段とのギャップでめちゃめちゃ萌える!
わたしの中の何かが目を覚ますうぅ!
「おっけーわかった! じゃあ今日はうちに泊まって!」
メラメラと燃えるような使命感が、わたしを衝き動かす。
「え……ええっ? でも迷惑じゃ……」
「大丈夫! 迷惑料として、根掘り葉掘り聞かせていただくから!」
トワコさんを連れていくとお母さんは驚いた顔をしたが、以前わたしが問題を起こした
時に助けてくれた友達だということを思い出すと、急に機嫌よくなった。
「いいのよー。真理の友達なら、何日でも泊まっていって? わー、あの真理が友達連れてくるなんて、いつ以来かしら~」
うきうき張り切って晩御飯の買い物に出かける姿を、なんとなく気恥ずかしい思いで見送った。
「悪いわね、なんだか……」
「いいんだってば! さ、狭い部屋だけど寛いで!」
部屋に案内すると、トワコさんはきょろきょろと物珍しげに見回した。
ファンシーグッズや小物に混じってお絵かきセットがあるぐらいの、なんてことない普通の部屋だと思うのだが……。
「この前来た時はきちんと見てなかったけど……なんていうか……委員長って女の子よね……」
「何それどういう意味⁉」
「言葉通りよ。女の子らしいっていう意味。うちは新と同じ部屋だから……ゲーム機やらプラモやら、なんか男の子っぽいというか……」
何それ羨ましい。
………………はっ⁉
「そ、そっか。そうだよね。トワコさんは先生と一緒の部屋で寝起きしてるんだもんね。それで今まで間違いが起こらないどころか色めいた話にもならないとかっ。先生はどれだけ草食系なんだろうって話だよねっ」
「う……ううん……」
トワコさんはクッションを抱くようにして座ると、困ったような声を出した。
「そこなのよね……。なんていうか……今までは雛っていう壁があったから、新は一歩を踏み出そうとしなかったの。だけどその壁はなくなった。IFであることも受け入れてくれてるし……もうないのよ。わたしたちの間を遮るものはなにもないの」
「だったら……」
「……わかんないのよ」
トワコさんはクッションに顔を埋めた。
「どうしていいかわかんないの。たしかにわたしは新に創られたわ。新の望む通りに振る舞うように創られた。でもその日記にはね、わたしの設定には、そこから先のことが書かれていなかったの」
「……そこから先?」
「つき合ってどうするか。好き合ってどうするか。その先の具体的なことが書かれていないの。なんだかんだで、わたしは設定に従って今までやってきただけだった。自分で考えているつもりでいたけど、いけるつもりでいたけど、いざ実際にそういう立場に置かれてみると、いくら考えてもわからないの。ちっとも想像できないの。……ねえ、教えて? 委員長」
トワコさんは目もとを赤らめながらわたしを見た。
「つき合った男女というのは一般的にどうするものなの? 手を繋いで、抱き合って、キスをして、それから先はどうするものなの?」
「な……っ」
何たるピュアな質問……!
いけない! ギャップだけで鼻血が出る!
「わ……わたしにもわかんないよ! その……経験なんてないし……。でも、漫画とか小説とかでは……色々と……その……」
口には出来ないあんなことやこんなことを想像してしまい、わたしまで真っ赤になった。
「待てよ……? 漫画……小説……か」
その時、わたしの脳内に電流が走った。
「トワコさん、勉強会をしよう!」
「へ……? 勉強会?」
トワコさんが首をかしげるのを尻目に、わたしは素早くスマホを操作した。
「待っててね! いま有識者の人たちをお呼びするから!」
「有識者……? なんの……?」




