「ボックス!!」
~~~タツ~~~
時刻はすでに夕方だった。
空は真っ赤で、盛んに虫が鳴いてた。
流しの大会がすでに始まっているのか、遠くから歌声が聞こえてきた。
オレは見る気はねえってのに、トラの野郎がしつこかった。
ぐいぐいと手を引っ張って、意地でも見せようとしてきやがった。
「トラ! 放せ! ――しつけえぞ! オレは見ねえっつってんだろうが!」
「見ろってんだよ! てめえの娘の晴れ舞台だぞ⁉」
「オレの娘だなんて誰が言ったよ! あいつが勝手に言ったことだろうが!」
「あの写真の男は完全にてめえだったじゃねえか! そのだっせえリーゼントまでまったく一緒だ!」
「だせえだあ⁉ てめえ、今までずっとそんなことを思ってやがったのか⁉」
「ああよ! 何度でも言ってやらあ! だっせえ! かっこ悪ぃ! 一緒にいると恥ずかしくって、顔から火が出らあ!」
「ぐ……ぐ……ぐ……っ⁉」
「だがなあ! 本当に恥ずかしいのはてめえ自身だ! てめえの娘の応援もしてやれねえようなケツの穴の小せえ野郎が、一番恥ずかしいんだよ!」
「うっせえ! オレの娘だなんて誰が決めたよ! 他の野郎の子かもしんねえだろうが!」
「てめえタツ――!」
「……っ⁉」
強烈なのを頬にもらって吹っ飛んだ。
不意打ちだったせいもあって躱せなかった。
オレはみっともなくも地面に尻もちをついた。
「何しやがるてめえ!」
頬をおさえながら見上げると、トラはすげえ目で睨んできた。
「うっせえうっせえうっせえ! 『オレの娘だなんて誰が決めた⁉ 他の野郎の子かもしんねえ⁉』 何言ってやがる! 他のやつならいざ知らずだ! オレとてめえだけはそんなことを言えねえはずだろうが! てめえはそんなんで、茉莉さんに顔向けできんのか⁉ ああ⁉」
「――!」
オレは一瞬言葉に詰まった。
昔のことを思い出した。
お腹の中に子供がいながら、命を絶った茉莉さん。
オレたちのマドンナだった茉莉さん。
そのことを考えると、今も昔も、たまらねえ気持ちになる。
だが、だがよ――
「ああああああああああ! ――うっせえうっせえうっせえ! いちいちうっせえんだよトラ公!」
唇から滲んだ血を拭いながら立ち上がった。
「すべてっ、ぜんぶっ、知ったことか! てめえがいちいちぐだぐだ抜かすことじゃねえんだよ!」
「あああっ⁉」
「オレもてめえも同じだろうが! 偉そうに言えた義理か! 同じようになんも言えなかったくせに、出来なかったくせに、てめえだけ喉元過ぎたみてえに抜かしてんじゃねえよ! てめえだけが大上段に座ってんじゃねえよ! 同じ穴のなんとやらだよ! オレも! おまえも! なんにも出来なかったじゃねえか! なんにも知らなかったじゃねえか! ただアホ面下げて見てただけじゃねえか! ただのチンピラが、何をほざいてやがる!」
「――てめえっ!」
「――あああっ⁉」
トラの繰り出した拳に、真正面から拳をぶつけた。
互いに、全力の一撃だった。
手首の先から、じぃんと震動が伝わって来た。それは肩口まで駆け抜けた。骨や筋肉を這い上がって、全身へと伝わった。
『…………っ!』
歯を食い縛った。意地でも声は漏らさなかった。
声を漏らしたら負けだった。
拳を押さえ、無言でバタバタと地団太を踏んだ。
トラも似たようなリアクションをしてた。
「ち――」
「く――」
『死ぃねえええええええ!』
同じようなことを叫びながら、逆の拳で殴り合った。
防御も何もない。真っ向から互いの頬を捉え合った。
『………………っ!』
ふたりとも、衝撃でのけぞった。
口中に血の味が広がる。鼻の頭につんとしたものを感じる。頭に、体に、隠しようのない衝撃が広がっていく。意識を縛る糸が切れそうになる。
――だけどもう一撃。
――けれどもう一撃。
同じことを繰り返した。
交互に殴り合った。
ボクシングをやってた者同士とは思えねえ打ち合い。パンチングマシーンみてえな殴り合い。
明らかに見えてるテレフォンパンチを、意地でも躱さなかった。歯を食い縛って受け止めた。
右の頬を打たれたら、左の頬を打ち返しなさい。
そんな言葉は、たぶん聖書にだって載ってねえ。
だけどそうしなければならねえことを知ってた。
男だから。負けらんねえから。
互いに手を緩めなかった。
オレはアウトボクサーで、トラはファイターで。単純な殴り合いなら、有利不利ははっきり見えてた。
だけどちっとも負ける気がしなかった。
最後まで立ってられる。
勝つのはオレだ。
「てめえ豚みたいにぶくぶく太りやがって……っ!」
「てめえこそ、髪のセットにかまけてなまってんじゃねえのか⁉ あああっ⁉」
「うっせえええええええ!」
「だああまれえええええ!」
ごっ、がっ。頬を打ち骨を叩く、鈍い音が辺りに響いた。
――ボックス!
同時にべっと唾を吐いた。
どちらの唾にも血が混じってた。折れた歯が、地面に跳ねて転がった。
「…………っ⁉」
蹴り出そうとした足が震えた。見ればトラのほうも、膝ががくがく震えてた。
同時にそれを認識した。
だけどやめることはできなかった。
――ボックス!
誰かが叫んでた。
オレたちの中にいる何かが叫んでた。
打ち合いなさいって。
負けるんじゃないよって。
てめえの道を貫きたいんなら、引けねえところがあるだろうって。
――ボックス!
誰かが叫んでた。
男だろうがって。
てめえで決めた道なんだろうがって。
いまさら芋を引くんじゃねえよって。
一歩でも下がったら負けだよって。
「タツうううううううううう!」
「トラああああああああああ!」
全力で打ち合った。
渾身で叩き合った。
『………………っ!』
首の筋肉が引きちぎれそうなほどにのけぞった。
足の裏が地面から離れて、宇宙遊泳しそうなほどの衝撃があった。
「が……ぎ……っ!」
「ぐ……あああっ!」
だけどオレたちは耐えた。
『おああああああああああああっ!』
耐えて、向き合って、殴り合って、天高く叫んだ――。
いい加減力尽きた頃に、その声が聞こえた。
~~~世羅舞子~~~
「――っざけんなああああああああああああ!」
前世紀の遺物みたいな、リーゼントの男。対するは、スキンヘッドの大男。
どっちもボロボロだった。血だらけで、顔中を赤く腫れ上がらせてた。
こんな切羽詰まった状況で、一刻の猶予もないって状況で、好き放題やり合ってた。
「大の大人がこんなとこでなにやってんのよ⁉ あんたら、いったい今がどんな状況かわかってんの⁉」
まっすぐにタツの前まで歩いて、至近距離で指を突きつけた。
「……なんだてめえ?」
魚の腐ったような目で、あたしのことを見下ろしてきた。
「うっさい! あたしのことはどうでもいいのよ! あたしはねえ! あんたが! いまどきリーゼントの大馬鹿野郎が! 状況もわきまえずにケンカなんかしてるのに腹が立ってんのよ!」
「おい女ぁ……。男のケンカに口出すもんじゃ……」
トラがあたしの肩に手を触れた――瞬間、あたしは後ろも見ずに裏拳を飛ばした。
手の甲に、肉を打つたしかな感触があった。
「ご……っ、て、てめ……っ!」
振りむきざま、鼻をおさえたトラの横っ面に、超至近距離からのハイキックをくらわした。爪先を思い切り頬肉にめり込ませた。
「――っ⁉」
トラはたまらず、どうと横倒しに倒れた。
「関係ないやつはすっこんでろ!」
倒れたトラに吐き捨てると、あたしは再びタツに向き直った。
「と……トラ……っ?」
突然のことで、タツは言葉を失っていた。
「これはあんたの問題よ! あんたと、鈴ちゃんの問題! そして茉莉さんの問題!」
タツははっとしたような表情になった。
「て、てめえ……そのことをどこで……」
「シン兄ぃから全部聞いたわ! 手分けして探してたのよ! いい年齢こいて家族から逃げ回ってるバカ野郎のことをね!」
「ちっ……説教なんざ聞きたくねえ」
タツは舌打ちしてそっぽを向いた。
「はああ⁉ 拗ねてんじゃないわよ! このバカ! そんなこと言える立場じゃないってことわかってんんでしょ⁉」
「てめえになにが……」
タツはいら立ちを隠そうともしない。
歯ぎしりして拳を握りしめているが、そんなのちっとも怖くない。
この世には、もっと怖いものがいくらでもある。
「――わかるわよ!」
断言した。
「あたしにはわかるのよ! あたしだからわかるのよ! あんた、知ってんでしょ⁉ 茉莉さんに聞かされたんでしょ⁉ IFがどういうものかって!」
「てめえIFのことまで……」
「IFは愛されなくちゃ生きていけないのよ! 忘れられたら死んじゃうのよ! 茉莉さんは神様で! でも誰も崇めてくれないから弱ってんのよ!」
「死ぬ……だと……?」
タツはぽかんとした表情になった。
「心が錆びつくのよ! 体がひび割れるのよ! ――やがては塵になって散っちゃうのよ! 彼女はもう……長くないのよ!」
タツはみっともなくも狼狽えた。
「そ……だって、あいつそんなこと一言も……。オレは……IFは長生きだってだけしか……」
「……知らなかった?」
そうか、言えなかったんだ。
こいつはそこまで知らされていなかった。
「──!」
あたしはぶんぶんとかぶりを振った。萎えそうになる心を叱咤した。
許す気はなかった。それでもなお、許されることじゃなかった。
知らなかった? 知ろうとしなかったの間違いだろう。
一番身近な人のことを。一番大切にしていた人のことを。そうしなければならなかった人のことをさて置いた。向き合わなきゃならなかったのに放っておいた。
霧ちゃん自身の気持ちを聞かなかった誰かみたいに――。
あたしは拳を握った。背筋を伸ばし、うつむきかけていた顔を持ち上げた。
「言えるわけないでしょ⁉ IFってだけでびびってるあんたに、その上もうすぐ消えちゃうだなんて言えるわけないでしょ⁉」
「だってよう……」
「――うっさい!」
あたしは思い切りタツの向う脛を蹴ってやった。
「ぐおお……っ⁉」
タツは痛みでうずくまった。
「うっさいうっさいうっさい! あんたが知ってようが知ってまいが、そんなこたあどうでもいいのよ! あたしはあんたに伝えるだけ! 立ちなさいって! 向き合いなさいって! 愛してたってほざくんなら、最後に茉莉さんに会ってあげなさい! そして……思いの丈をぶちまけなさい! 好きだって気持ちを! 放っておいてごめんって! 余さず逃がさず伝えなさい! 相手の気持ちを聞いてあげなさい! それがあんたの……男としての役目でしょうが!」
「…………っ!」
タツは、ショックを受けたような表情をした。
「……おい、タツ」
いつの間に意識が戻ったのか、トラがタツに声をかけた。
「……なんだ、トラ」
「聞けよ、この声……」
――青い月夜の 浜辺には
――親を探して 鳴く鳥が
――波の国から 生まれでる
――濡れたつばさの 銀の色
流しの大会の会場から、アンプを通して拡大された鈴ちゃんの歌声が聞こえてきた。
質の悪いアンプを通してすら美しさの伝わる声だった。
儚く切ない歌が、しっとりと夜の風を湿らせた。
タツがぽつりとつぶやいた。
「……これは、マツリの歌だ。あいつ……すげえ歌が上手かったから」
呆けたような表情で座り込み、空を仰いだ。
「職場で嫌なことがあってよう、気分悪ぃってふて腐れてる時とかによう、アイツは膝枕して歌ってくれんだ。ちょうどこんな歌声でさ……聞くたび、ささくれ立った気持ちが和らぐんだ。心が安らぐんだ。辛くっても、苦しくっても、ぐっすり眠れるんだ。オレが寝るまで、アイツはずっと歌ってくれてよう……」
――夜鳴く鳥の 悲しさは
――親を尋ねて 海こえて
――月夜の国へ 消えてゆく
――銀のつばさの 浜千鳥
哀切こもった歌声が、風に乗って流れてくる。
「楽しかっ……しあ……わぜ……だっだ……」
タツの言葉が濁った。くぐもった。
「オレは……アイツが……好きで……」
大人のくせに、目に涙を溜めていた。
「結婚……しようと思ってたんだ……」
あたしの胸にも、何かがこみ上げた。
ぐっとこらえたつもりが、タツの独白につられたように、熱いものが頬を流れ落ちた。
「だけどアイツはいうんだよ。ワタシは人間じゃないんですって。IFっていう別個の存在なんですって。本当のワタシはミイラで、しわくちゃのお婆ちゃんで、とっくの昔にバラバラに切り刻まれてるんですって……。そういう目で見たら、本当に別の生き物みてえに見えてきちまって……。オレは怖くて……びびって……逃げちまった……。あれから……もう何年になるんだかわからねえ……」
タツの声が掠れた。醜くひび割れた。
「タツ……」
「本当はよう……抱きしめられりゃよかったんだ……。そんなのぁどうでもいいって。IFだろうがなんだろうが関係ねえって。オレはおめえが好きなんだって。産まれてくる子供と一緒に、家庭を築こうって。言えばよかった。……なのに……オレは……逃げちまっ
て……!」
「なあ、トラよ……」
消え入りそうな声で、タツは聞いた。
「オレぁまだ……やり直せるんかな……?」
「――ボックス!」
あたしは叫んだ。涙に負けまいと、全力で声を張り上げた。
「――ボックス!」
ふたりはなぜか、幽霊にでも出会ったみたいにびっくりした顔をしていた。
「――ボックス!」
いつかどこかで聞いたことがある。
ボクサーたちを衝き動かす魔法の言葉。
どれだけ疲れていても立ち上がり、怖くても前へ出てしまう呪いの言葉。
競走馬の鞭。ギザギザの拍車。
「もう充分わかったでしょ⁉ 自分のバカさが身に染みたでしょ⁉ わかったら立ちなさいよ! 今すぐ動きなさいよ! 茉莉さんのとこまであたしが案内してあげる! 言っておくけど、あたしは足が早いわよ⁉ 置いてかれたくなかったら、死にもの狂いでついて来なさい!」
『……っ』
ふたりは顔を見合わせた。
見合わせて、なぜだか急に笑い出した。
肩を波打たせ、賑やかな声を上げた。
「は……はっ。……なあトラよ。なんでこうも、オレらの周りの女ってのは、強いやつばっかりなんだろうな」
「さぁて、な。はっははは……っ」
「ちょっとあんたたち、笑ってる場合じゃ……」
すっくと、ふたりは立ち上がった。
膝はがくがく震えてるけど、顔面は醜く腫れ上がってるけど、ふたりは憑き物がとれたような、清々しい顔で微笑み合った。
「――行くぞトラ」
「――おう、タツ」
タツは盛り上がる会場の方角に顔を向けた。灯りに染まる夜空を見やった。
「やってやる。親子3人、水入らずだ」




