「月下の特等席」
~~~新堂新~~~
タツとトラのふたりが飛び出して行ったのをしばらく追いかけたが、あまりにも早くて追いつけず、やがて見失った。
鈴ちゃんはきょろきょろと辺りを見回し、なおも探し続けたそうな顔をしていたが、もう夜も遅いし、タツは俺の知り合いだから慌てなくてもいいと説得して思いとどまらせた。
別荘に戻ると、残っていたみんなはなぜか疲れ切ったような顔をして寝転がっていた。
「ちょっと湯あたりしただけ……心配しないで……」
トワコさんは力つきたように寝そべり、手だけをこちらに振ってよこした。
鈴ちゃんはパタパタ慌ただしい足取りで、奥の間へと走った。
たどり着いたのは家政婦用の――といっても十二分に大きい――居室だ。
部屋の中央に女性が寝ていた。
「──お母ちゃん! 聞いて聞いて!」
鈴ちゃんがお母ちゃん――茉莉さんにすがりついた。
「さっきお父ちゃんに会ったよ⁉ 嘘じゃないよ⁉ 本物のお父ちゃん! あの写真通りの髪型だった! ここへは連れて来れなかったけど、絶対連れてくるから! 新おじちゃんの知り合いだって!」
茉莉さんの反応は薄かった。むしろ聞こえているのかどうかすら怪しかった。
不躾ながらその顔を覗き込んで、俺は絶句した。
「……っ⁉」
いままさに目の当たりにしたばかりの光景が信じられず、よろめくように部屋を出た。
吐き気をこらえて壁に手をついていると、廊下のどんつきに、さきほどのアコーディオン奏者の老人がいるのに気づいた。
老人はこちらを見て微かに笑うと、背を向けて歩き出した。
誘われるように後を追うと、老人はゆっくりとした足取りで先行し、屋上へ通じる扉を開けた。
「――あ、新くん」
屋上へ出ると、扉のすぐ脇に雛が座ってた。
ひまわり柄の浴衣姿で、体育座りをしてた。
ここだよここ、とでもいうかのように、隣の床をぺちぺち叩いた。
「よかったねぇ。演奏会に間に合って。ここ、特等席なんだよ?」
「演奏会……? 特等席……?」
俺の質問には答えずに、雛はまっすぐ柵を見た。
柵と満月を背にして地べたに座って、老人がアコーディオンを抱えていた。
雛にはメンターが見えないはずで、ということはあのアコーディオンの動きは心霊現象にしか見えないはずで……。
横顔を盗み見たが、雛はただそっと目を閉じ、コンサートの開幕を待つ聴衆のようなわくわく顔をしていた。
「雛……あの人のこと……」
──見えるのか?
聞こうとしたが、最後まで言えなかった。
雛は唇に指を当て、微かに目を開け、にひひと子供のように笑った。
「だめだよ新くん。うるさくしたら聞こえなくなっちゃうかもしれないじゃない」
雛は再び目を閉じた。やがてアコーディオンの演奏が聞こえ始めると、リズムをとるように体を揺らし始めた。
「いいんだよ、理由なんか。見えないし、触れもしないけど、ただこうしてキレーな音楽が聞ける。それだけでいいんだよ」
「……っ」
俺は思わず息を呑んだ。微かに憂いを帯びたような雛の横顔に見惚れた。
「おまえ……これ……昔から……?」
「10年……は経たないかなあ? 茉莉さんに別荘の管理を任せたぐらいの頃から聞こえはじめたんだぁ。いつか新くんにも教えてあげて、ふたりで聞こうと思ってたんだけど……ほら、あの頃は色々あったし、ね?」
雛が寄りかかって来た。形のいい頭が俺の二の腕にあたった。暖かかった。温泉の匂いが漂った。
「あのアコーディオンだけじゃないよ? わたしのうちってけっこう古いし、お祖父ちゃんもいい趣味してるからさ、いろんなものがあったんだぁ。『怪奇! 髪が伸びる日本人形』とかさ、『摩訶不思議! 突如逆行する懐中時計』とかさ。わたしは怖いものは苦手だから……へへ。まあ……たくさん泣いたりしたけどさ」
雛は頭をかいて照れ笑いした。
「でも悪いことばかりじゃないの。時々は、こういう出会いもあるんだよ?」
……昔から、雛は不思議なところのある子供だった。
何もない空中を見ていたり、ふと立ち止まって何かの音に耳をそばだてたりといったような、猫みたいなしぐさをすることが頻繁にあった。
今になって、その理由がわかった気がする。
彼女には経験があったのだ。
IFやメンター、そこここに存在するモノたちと接した経験が豊富にあった。だから見えなくとも、聞こえなくとも感じ取ることができた。信じることができた。
他人に話せば一笑に付されるような話だ。目の錯覚、空耳、ある種の幻視で片がつく話にすぎない。蜃気楼にプラズマ、白昼夢のひと言で片付けられてしまう現象にすぎない。
――だから雛は大事にしていたのだ。ずっとずっと。秘密の宝物みたいにして。
「──ごめん雛。俺はこれから、アコーディオンの演奏者と話さなきゃならない」
俺は拳を握り、立ち上がった。
「……新くん?」
雛はきょとんとした顔で見上げてきた。
「その結果、もしかしたら彼は消えてしまうかもしれない。雛の特等席がなくなってしまうかもしれない。だけど……これは……っ」
唇を噛んだ。胸が張り裂けそうだった。
驚くほどあどけない雛の表情が、高校時代を思い出させた。
「──新くん」
そっと、雛が触れてきた。俺の足を労うように撫でてきた。
「そっか……今日も何かやってるんだね」
微かに、そしてどこか寂しそうに笑った。
「知ってるよ? 新くんは、いつも誰かのために頑張ってるもんね。一生懸命なんだもん。知ってるよ? ずっと見てたから。そんなところが、わたしは好きなんだから。……へへへ、言っちゃった」
ぺろりと舌を出して、雛ははにかんだ。
「だからいいんだよ? 頑張って。新くんのすべきと思ったことをして? わたしは──」
待ってる、なんて彼女は言わない。
すっくと立ち上がると、俺の隣に並んだ。
「わたしにも関わらせて。手伝わせて。だってわたしは、新くんの彼女なんだから――」
どちらからともなくうなずき合い、老人に対した。
老人はアコーディオンを操る手を止め、静かなまなざしをこちらに向けてきた。
「あの……演奏中、失礼します。自分の名前は――」
「新堂新。そして小鳥遊雛」
老人は事もなげに当てて見せた。
「驚くほどのこたぁないでしょう。あんたら、あれだけ騒いでりゃバカでもわかるってもんさね。まあ、雛の嬢ちゃんがうちの鈴坊に何度も何度も語って聞かせてたっつうのもあるがね。門前の小僧と言うにゃいささかとうが立ってしまっとるがね」
ひっひっ、老人は自分で言って自分で笑った。
「申し遅れたね。アタシゃ、ヴィクトールってもんだ。見てのとおりの、しがない楽器弾きさ。創造主のおっちょこちょいで、自前の楽器はこの体しかないんだがね」
そう言うと、老人――ヴィクトールはアコーディオンを置いて立ち上がった。手足を打ち鳴らし、口笛を吹いて見せた。五体すべてが楽器であるかのように、様々な音が出た。
雛はそのつど楽しげに拍手してた。歌以外は聞こえるのだ。視覚的には見えないけれど、聞こえているのだ。
「さても皆様、鷹揚のご見物に拍手喝采。光栄の至りにございます」
ヴィクトールは大仰にお辞儀するように一礼した。
顔を上げ、目を細めた。
「これから語るは遥か昔の東国の、か弱き姉妹の物語にございます。聞くも涙、語るも涙の話なれば、淑女の皆様はハンカチの、紳士の皆様は肩を抱き手を握る心の準備をなさって下さい――」
年月を経た古酒みたいな、まろやかで優しい声で語り始めた。




