「温戦②」
~~~トワコさん~~~
幽鬼のようにじりじりと迫る小鳥と奏を等分に見た。
文系まっしぐらで運動なんてからっきしな小鳥はさて置いて、当面の問題は目を爛々と輝かせている奏だろうか。
運動神経があり、エロへの執着に限りがない。なおかつ――
奏の後ろにはIFである桃華が控えている。色欲の権化のようなあの女の持つ特殊能力――触れた相手の性感帯を強制的に目覚めさせる――は相当に厄介だ……。
「……しかし意外じゃな。心に決めた男子にしか肌を許さぬという貞操観念はわかるが、女風呂でそこまで頑なになるような玉だとは思わんかったが……」
お猪口に目を落としながら、ぽつりとマリーさんつぶやき───いきなり彼核心をついてきた。
「夕飯……食べ過ぎたものなあ?」
「――⁉」
驚いてそちらを見た。
反射でお腹を隠した。
マリーさんは「へら……っ」と煽るように笑った。
「そりゃそうじゃろうのう。少年漫画の大食い主人公みたいにバカスカ食いおって。白飯だけで一升はいったか? さすがのIFの復元力でも、そりゃあすぐには戻るまいよ」
IFやメンターの持つ回復力というのは、端的にいうなら復元力だ。「設定どおりの姿」に戻ろうとする力が働くので、小さな傷なら瞬時に、大きな傷でも何日かすればすっかり元通りになる。
だから黙っていれば体型も体重も元通りになるのだが、今はまだ――食べた分だけ増えている。
1キロ超の米、肉に魚、野菜に山菜……食後のデザート……うっぷ。
「だ……だってしょうがないじゃない! そういう設定なんだもの!」
わたしは声を荒げた。
「トワコさんは出された料理を残さないって、新が決めたんだもの! だいたいこういうところの料理ってご飯が多すぎるのよ! お櫃で出てくるとか悪い冗談でしょ! しかもお代わりがあるとか! 新が気を使ってくれなかったら、今頃もう一升いってるところよ!」
マリーさんはへらへらと笑った。
「勘違いするな。責めておるわけではないのじゃよ。だが裸の付き合いにバスタオルは邪道じゃろ? まして浴槽につけるなどマナー違反も甚だしい。だからこう言っておるのじゃ。そら、今まさに一升飯の詰まった腹を見せてみろと――」
マリーさんはお猪口と徳利を片手で持ち上げると、もう片方の手でお盆を掴んだ。掬うようにして、お湯をわたしの顔面に飛ばしてくる。
「く……っ」
視界を塞がれるのはまずい。わたしは首を横へ倒した。直後にフリスビーのように跳んできたお盆を掴み、逆襲へ転じようとしたところで、背後に気配を感じた――
「トワコさんの~♪ あ、ぽっこりお腹が見てみたい~♪」
――拍子をとるような、桃華の声。
バスタオルの裾が乱れぬよう抑えながら、しかし渾身の後ろ蹴りを見舞った。
後ろ蹴り――バックキック、馬蹴りというとイメージがしやすいだろうか。そのものずばり、背後にいる相手を蹴る技。
相手に背を見せるため隙が大きいが、普通の蹴りと違い打面が下から垂直に来るため、威力は最大を誇る技。
「げう……っ!」
肉を抉る感触が踵にあった。しっかりと胴の中央を捉えた。
桃華の体が宙を舞った。
両腕の先をかぎ爪とし、コウモリの羽根を生やした戦闘態勢に入っていたが、蹴りの入った時点で意識が飛んでいたようで、そのまま放物線を描いて湯船に落下した。
「わー⁉ 桃華ー⁉」
慌てて奏が救助に向かう。
桃華は完全に脱力し、尻を上にしてぷかりと湯面に浮いている。
「やれやれ……雉も鳴かずば撃たれまいに……」
声のほうに振り向くと、マリーさんはすでに湯船から上がり武器を携えていた。
デッキブラシだ。
長さも軽さも適度で取り回しやすい。ブラシ部分を引っかけるように使えばフックのついた短杖のようにも扱える。多様性と利便性を兼ね備えた武器。
マリーさんはくるりとデッキブラシを頭上で回すと、いつものようにレイピア術の中段に……いや、青眼に構えた?
柄から少し上を両手で握り、ブラシをこちらの喉元に擬して来た。足を前後に軽く開き、膝を微かにたわめた――まさしく日本剣道の構え。
「くくく……今宵の虎徹は血に餓えておる……のじゃ」
夜な夜な見ている講談の動画にでも影響されたのか、時代がかった台詞を吐いている。
「あなたねえ……」
どこまで本気なんだろう、この酔っ払いは……。
なんとなく脱力していると、マリーさんは突如、裂帛の気合を上げた。
「キェアアアアアアアア!」
「――⁉」
瞬間移動でもしたみたいにデッキブラシが伸びてきた。正面からの面打ち――酔ってるわりに無駄のない、最短距離を通った一撃。
横に躱した。
デッキブラシは途中で軌道を変えた。わたしの首元を薙ぎ払うようにして来た。
お盆を盾にして受け止めた。
パッカーン、軽い音をたて、お盆は真っ二つになった。
「……くっ」
刃に見立てたものを――こんなもので受け止めてしまった。
わたしは敗北感に打ちひしがれた。
――これが真剣なら、今頃真っ二つだ。
「くくく……ぬるいぬるい」
マリーさんは飛び退り、再び青眼に構えた。
ゆらゆらと剣先を揺らし、焦らすようにしてくる。
思ったよりも鋭い斬撃だが、しょせんは付け焼刃。レイピア術の時ほどのキレがない。
わたしは首に巻いていたフェイスタオルをほどくと、両手に巻き付け、ピシッと強く引っ張ってみせた。
「……ほう、わらわの面打ちをそんなもので掴もうと? 真剣白羽取りとは笑わせる……」
マリーさんは酔眼で、実に楽しそうに口元を歪めた。
真剣白羽取りとは――高加速状態にある刃を両手で挟んで受け止める神技……ではもちろんない。
昔だったら講談、今だったら漫画やアニメで面白おかしく語られているが、当然そんなことできはしない。
相手の武器を押さえ制圧するための、より実践的な技術だ。
講談かぶれのマリーさんは、だからわたしの意図を読み違えている。両手で握ったフェイスタオルは、決してデッキブラシを受け止めるためのものではない――
「キェアアアアアアアア!」
マリーさんが気合を発すると同時に。懐に飛び込んだ。
「――⁉」
マリーさんは驚愕に目を見開き、バックステップして距離をとろうとした。
だが遅い。
その時すでに、わたしはフェイスタオルから左手を離し、右手で振りかぶっていた。たっぷりお湯を含んだそれを、大上段から目元に向けて叩きつけた。
――リーチを伸ばし、目潰しするためのものだ。
「うあああああっ⁉ 目がっ! 目があっ⁉」
視界を失ったマリーさんが、滅茶苦茶にデッキブラシを振り回した。
わたしはその動きを冷静に見切ると、手元を掴み、ぐるりと捏ねるように回した。
「ふぐ……っ⁉」
マリーさんの体は力学の法則に従い、ぽんと宙を舞った。
酔っているせいか受け身がとれず、檜の床に頭から落下した。
「……ふう」
額に浮いた汗を拭った。
ふたりを退け、ほっと一息ついた――瞬間、腰に誰かの足の裏が当てられた。
「――⁉」
ぎょっとしてそちらを見ると、下方から世羅が草刈りを仕掛けてきていた。
草刈り――総合格闘技におけるテイクダウン、つまり相手を倒すための技術だ。片足を相手の腰に、もう片足で相手の足首を蹴り、同時に手で逆の足首を引いて倒す技。倒してすぐさま相手の足関節を狙いにいけるという利点がある。
油断していたわたしは、そのまま倒された。腕でカバーしたので頭を打つことだけは避けられたが、足首を脇で挟まれロックされた。身動きできぬようガチガチに固められた。
ヒールホールド――霧ちゃんに関節を破壊された時の痛みが脳裏をよぎった。
「――今よ小鳥!」
「ラジャーっす!」
手をわきわきさせながら接近してきた小鳥の頭を手で押し返すが、小鳥は諦めず全身で押し込んできた。力が拮抗し、互いにぷるぷると震えた。
相手は一般人で、しかも小鳥だ。純粋な力比べなら負けるわけがないのだが、いかんせん体勢が悪い。
「く……! 世羅! なんであなたはあっちの味方してんのよ!」
「あっちの味方ってよりは、あんたの敵って感じかな。ふっふっふ、なんだかんだ仲間みたいになってるけど、もともとあんたとあたしは敵同士。あの時のあの恨み、忘れてはいないからね」
世羅はにっこり微笑みながら捻りを加えてくる。一連の騒動の時に煽り立てたのをまだ覚えているらしい。
「まだ根に持ってたの⁉ しつこい女ね!」
「あれれ、怒った? 怒っちゃった? やだねえー、沸点の低い人は。カルシウム足りてないんじゃないのー? いや、あんだけバカスカ食えば足りてるかー。めんごめんごー」
「く……こいつ!」
屈辱で頭に血が登った。
しかし現状を打開する方法がない。
「ううううう……っ」
足首はがっちり固められていて抜けられない。両腕は小鳥へのガードで使わなければならない。
激しい攻防のせいで、バスタオルの結束が緩み外れそうになっている。
「あ……あああああ……⁉」
すでに乳房の半分しか隠れていない。繊細な部分にぎりぎりのところで引っかかっている。
「もう少し……もう少しっす! オーエス! オーエス!」
小鳥の目が充血する。
「頑張れ小鳥ー!」
うきうきした表情の世羅が応援している。
「や……やだ……やめてよぉ……っ!」
わたしは真っ青になった。
膠着状態は、突然の闖入者によって破られた。
音をたててガラス戸が開き、鈴ちゃんが入って来た。
紫陽花柄の浴衣をからげ、頭に手拭いを巻いた湯女スタイルの彼女は、お風呂場の惨状に目を丸くした。
「さ、お姉ちゃんたち! お背中お流ししますよー! ……ってあれ⁉ どうしたの⁉ えええええっ⁉」
湯船から引き揚げられ「きゅう……」と伸びている桃華。
うつぶせになり、体をぴくぴく痙攣させているマリーさん。
もつれ合うようにしているわたしと小鳥と世羅。
さてどう言い訳をしたものかと思考にとらわれた瞬間――バスタオルがはらりとほどけた。
「あ」
「おお!」
「イエス!」
「?」
わたしが絶句し、世羅が歓声を上げ、小鳥がガッツポーズをし、鈴ちゃんが首を傾げた。
いつの間にか雛の隣にいた紅子が、ジップロックの中に入ったペンタブレットを、同じくジップロックの中にいるペーパートワコさんとともに操り、曲線のようなものを描いていた。
わたしのお腹に集中する目、目、また目――
「………………!」
真っ赤になり、必死にバスタオルを拾い上げて前を隠し、わたしは悲鳴を上げた。
~~~新堂新~~~
「……なんか、トワコさんが大変な目に遭ってる気がする」
夜の温泉街を歩きながら、俺はふと、胸をよぎった感覚に不安を覚えた。
「え、なにそういうのわかんの? うっざ」
隣を歩いていた勝が思い切り顔をしかめた。
「いやなんとなくなんだけどさ。ってかおまえ……もう少し歯に衣着せて話そうぜ? うざいとかひどくない?」
「はあー⁉ なんでだよ。彼女持ち……もといハーレム持ちのうざい妄言なんぞ聞きたくねえんだよっ。こちとら清く正しい独り身なんだからな!」
「いや俺だって独り身には違いないんだけど……」
「はっ! どこが! リア充爆発しろっての!」
勝は吐き捨てるように言うと、先に立って歩き出した。
「お、おい待てよ……」
なんとなく後ろ髪を引かれながら、俺は勝の後を追った。
温泉街と隣接するようして、その区画はあった。
ピンクネオンと看板に彩られた夜の街。
「清く正しい独り身……ねえ……」
入り口のアーチ状の看板を眺める。
カミクラふれあい通り。
温泉街にはつきものの、由緒正しい歓楽街に、俺たちは足を踏み入れようとしていた――。




