「温戦①」
~~~世羅舞子~~~
小鳥遊家の別荘は、さすが日本有数の資産家の持ち物だけあって立派なものだった。著名な建築家の手による前近代的なデザインの外観。内装は和洋取り混ぜたハイカラなもので、とにかくいちいち広々としてて余裕があった。
土地柄温泉付きなのだが、これがまた30人は同時に入れるんじゃないかというくらい大きなもので……。
無色透明な硫酸塩泉。打ち身切り傷に効能があるというのは運が良かったというべきか。
「あ痛たたた……」
とはいえ、いきなり傷が治るわけじゃない。鎮痛作用があるといっても、突然痛みが消えるわけじゃない。
木立で引っかけた足の傷に、絆創膏の上から熱い湯がちくちく染みた。
「大丈夫? 世羅」
白い肌をピンク色に染めたトワコさんが、あたしの隣に肩を並べてきた。
「大丈夫大丈夫。これくらい平気よ。総合格闘技の練習じゃ、毎日毎日生傷が絶えないんだから。この程度は楽勝楽勝」
「そういう意味で言ったんじゃないのだけど……」
目を閉じてのんびりと、トワコさんは赤いフェイスタオルで頬を撫でている。
「……そういう意味ならなおさら心配ないわよ。別にケンカしたわけじゃないし。ただ青春のあれやこれやが暴走しただけ。闇雲に突っ走って、振り切って、わーって叫んだらスッキリした。そんだけの話よ」
肩を竦めて答えると、トワコさんは小さく笑った。
「空元気でも元気ってやつね?」
「……あんた、やなこと言うわね」
「性格なもので」
「……やーなやつ」
あたしはふん、と肩をそびやかした。
「……そういえばさ」
総檜造りの豪華な温泉の天井に、もくもくと湯気がたちこめる。
「あんた、いつから雛さんと打ち解けたわけ?」
かたやシン兄ぃの恋人。かたやシン兄ぃを愛するIF。
どう考えたって、不倶戴天の敵同士になるはずじゃないのか。
なのにどうして、雛さんの面倒をトワコさんが見ていたのか。
「んー……」
トワコさんは首をかしげ、すこし考えるようなしぐさをした。
「そんなに難しい話じゃないのよ。あそこでわたしがついていなければ、新がついていたはず。だったらわたしがついていて、そのぶんふたりの距離を引き離したほうが……ね? いい子アピールにもなるし」
「あんたって、けっこう計算高いのね……」
「性格なもので」
トワコさんはいたずらっぽくぺろりと舌を出した。
……ちぇ、可愛いなあ。
あたしは心中で舌打ちした。
濡れた黒髪を後ろで結い、普段は見せないうなじを見せている。上気した頬から滴る水滴が首すじを伝い、艶やかな肩先を滑り降り、湯面へと消える。
色っぽい容姿でありながら、不意に舌出ししてみせる子供っぽいところや、トレードマークの赤いマフラーの代わりに赤いフェイスタオルを用意するような、ちょっとバカっぽいところもあったりする。
ギャップの破壊力は抜群で、そんな趣味のないあたしでもドキドキしてしまうほどだ。
……こんなコが四六時中傍にいて、時に肉体的接触もあったりして、なおかつ間違いのひとつも起きないってんだから、ほんとシン兄ぃって……。
なんとなくため息をついていると、目の前をお盆が「すいーっ」と通過した。
お銚子とお猪口が載っている。
湯船にお盆を浮かべてキュッとやるっていう例のセットだ。
見たところ、人影はない。だけどそこだけお湯のない区画があった。結界でも張られているみたいにお湯の浸入しない空間があった。
「あらマリーさん。ご機嫌ね」
トワコさんが声をかけると、お盆の動きはぴたりと止まった。
車がバックするみたいに「すすす……」とトワコさんの隣に並ぶと、お猪口を片手にちびちびやり出した。日本酒が魔法のように空中に消えていく。
「ああ……マリーさんか……」
かつて戦ったことのある、金髪ゴスロリ幼女。酒豪だったのか。
見えない聞こえない触れない。
IFを失ったあたしにはもはや、彼女の姿を想像することしかできない。
話し出したふたりから離れて窓辺に寄った。曇ったガラスの向こう側に、丸い月が見える。
「満月かあ……」
ひとりごちていると、雛さんが隣に来た。
「どーう? 世羅ちゃん」
湯面が揺れた。
美しく弧を描く眉、温かみのある双眸、にっこにっこと常に笑みを絶やさない口元。そしてなにより、その胸の圧倒的な存在感――
「うお……っ」
思わず呻いてしまった。
白くもっちりしたふたつの物体に釘付けになった。
「す……凄いですね……」
「そーう? 良かったー。ここ、いいところでしょー?」
「……え? あ、はい」
すんません違う意味で言ってました。
「と、ともかくまあ……いいとこですね。眺めもいいし、温泉も最高。料理も美味しかったです」
日本海の海の幸に奥羽山脈の山の幸、ご当地牛の上質な肉。和洋取り揃えた素晴らしい夕食を思い出すと、胸や舌が幸せで満たされる。
「思わず食べ過ぎちゃいました」
「よかった。へへー。鈴ちゃんは料理が上手いのよー。わたしも、ここに来るたび食べ過ぎちゃうんだー」
「……あれ、鈴ちゃんが作ったんですか? お母さんは?」
「ああ、世羅ちゃんたちはまだ会ったことないのよね。彼女、茉莉さんていうんだけどね。最近ちょっと体調を崩してて、伏せりがちで、あんまり働けないの。その分鈴ちゃんがカバーしててね。お料理にお掃除にお洗濯。全部ひとりでやってるのよ? わたしが手伝おうとしてもかえって邪魔になるくらい素早くて的確なの。ほんとにすごいんだから」
自分のことのように胸を張る雛さん。
ふたりは住み込みなんだっけ。普段は人がいないにしても、これだけ大きな家の管理をひとりでするとか超人的な小学生だなおい……。
雛さんは指をおとがいに当て、宙に視線をさ迷わせた。
「新くんたちは会ったことがあったんだっけなー……。たしか高校の頃に紅子と勝くんと4人で来たことがあったから、たぶんあると思うんだけど……」
シン兄ぃが高校……じゃああたしは小学校高学年か。
懐かしい時代だ。
楽しいことも悲しいこともあった。
あの時霧ちゃんはまだ生きてて、ふたりでよく遊んでたっけ……。
「……」
湯面から立ち上る湯気にしばし思いを馳せていると、雛さんはトワコさん……とマリーさんに手を振っていた。
「マリーさんはご機嫌みたいだねー」
「……見えるんですか?」
雛さんは創造主ではなかったはずだが……。
「んーん。見えないよ?」
でもまるで、見えてるみたいに振る舞っていた。
「見るんじゃない。感じるんだ。フォースの力を信じるのだっ。はああーっ」
掌をまっすぐ突き出し、念をこめるようなしぐさをしてみせる雛さん。
ブルース・リーだかジェダイの騎士だかわからないごちゃ混ぜぶりだ。
「ってね」
「……っ」
おどけて首を傾ける雛さんの笑顔に、あたしは胸を射抜かれた。
くそ……っ、トワコさんといい雛さんといい、シン兄ぃの周辺の人たちってレベル高すぎるんだよっ。
はあもう……女としての自信を無くすぜ……。
「そういえば……」
雛さんは急に声をひそめた。
「レポート? みたいなのはどうなったの? ……ミカグラ様の」
「まだ全然です。あー……なんやかや時間がかかっちゃって。なんとか資料館の場所を知ったぐらいで……。そうだ、雛さんは何か知りませんか? どんなことでもいいんですけど……」
「わたし? わたしはわかんない。そういうのってなんか怖いし、ここへはけっこう来るけど、あんまり話も聞かないし……」
そういえば、あまり宣伝してる感じじゃなかったなあ。資料館も小さいし。町として、あんまり積極的に押してない感じがした。
「強いて言うなら……歌……かな?」
「歌?」
「うん。ミカグラ様は歌が上手かったって聞いたことがあるなあ」
「歌……ねえ……」
「じゃきーん!」
入り口のガラス戸を開けて、小鳥が入って来た。
体にタオルを巻きもせず、腰に手を当て、ちんちくりんな体を堂々と晒している。
「さあー! 温泉っすよー! 遊ぶっすよー! 夏コミの追い込みという名の辛い辛い強制労働から解き放たれた罪人のー! 運動の時間っすー!」
「ちょ……ちょっとぴよちゃん! タオルタオル!」
真理が慌てて小鳥にタオルを渡そうとするが、するりと躱された。タオルの端を掴まれると、時代劇の悪代官にされるみたいにひん剥かれた。
「ほーらほら、よいではないかよいではないか」
「きゃあー⁉」
はらり、意外なほど豊かな肢体が露わになった。トレードマークのおさげをほどいて垂らした分が、絶妙に胸の上部にかぶさっている。運動とは無縁の、柔らかく丸みを帯びた、抱き心地の良さそうな体つきだ。
真理はそばかすの散った頬を真っ赤に染めてしゃがみこんだ。
『おおー……』
入浴していた一同から、感心したような声が上がった。
「もうヤダ! ぴよちゃんのバカ!」
小鳥は悲鳴を上げる真理を「ふぉふぉふぉ、眼福眼福……」といやらしく眺め下ろすと、
「さぁて……次の獲物は誰っすかねえー……?」
邪悪な笑みを浮かべ、手をわきわきさせながら歩き出した。
「……ぴよさんよ。いよいよ雌雄を決する時が来たようだね……」
不敵な笑みを浮かべた奏が、洗い場から立ち上がった。
スポーティな印象そのまま、奏の胸はあまり大きくない。お椀型のささやかなA。つまり、限りなくBに近いあたしのほうが上だ。
でもたぶん、彼女の美点はそこではない。
腰がきゅっとくびれ、お尻がぷりっと持ち上がっている。腰からのラインがとくに綺麗だ。手足も先端まですんなりと引き締まっていて、贅肉の存在を一切感じさせない。カモシカみたいなイメージ。
「も~、奏ちゃんたら~、はり切っちゃって~」
頭のてっぺんから出てるようなあざとい女の子ボイスは桃華だ。奏と共に洗い場にいた彼女は、見事なバストを惜しげもなく晒している。
凄いのは、大きいだけでなくツンと上を向いていることだ。重力に逆らい、桃色の先端部が持ち上がっている。まさに円錐型。ロケットみたいだ。
それでいて腰はくびれているし、お尻は綺麗なハート型で、思わず平手で叩きたくなるくらいに張っている。
さすがはサキュバスというべきか、世の殿方の理想のような体型だ。
あたしが男だったら桃華の肉体を想像するだけでどれだけの夜を過ごせるかわからない。
「……はんっ」
小鳥はふたりを鼻で笑った、
「アタシゃ、露出OKの人には興味がないんで」
ひらひらと手を振る。
「な、なにそれ⁉」
「恥ずかしがってるのをひん剥くのがいいんすよ。赤面してるのを見下ろすのがいいんすよ。堂々としてる恥知らずはお呼びじゃないっす」
「ぐぬぬぬぬ……」
拳を握りしめて悔しがる奏。
いったいおまえらは何を争っているのか。
「……ふん」
小鳥は興味なさげに浴室内を見渡すと、「獲物発見!」とばかりにきらんと目を光らせた。
視線の先には雛さんがいる。
雛さんは湯船の中にタオルを持ち込んで体に巻きつけていた。
「おおう……こいつは……」
「お。そこに目をつけるとはやりますなぴよさん」
「わからいでか。かなりん」
いつの間に仲良くなってたんだこのふたり。
「実はあたしも、そのお方には興味あったんだよねー。まさにボスキャラの存在感というか」
「……ふっふっふ。薄い本が厚くなるぜえ~」
「へ? へ? なに?」
状況が飲みこめてない雛さんに、両手をわきわきさせたふたりが迫る。
「ちょっとあなたたち……いい加減にしなさいよ?」
意外なことに、立ちはだかったのはトワコさんだ。
「……ほほう。貴様もか」
小鳥が口元を歪める。
これまた意外なことに、トワコさんも体にタオルを巻きつけている。実は恥ずかしがり屋なのか、かっちり外れないように巻きつけている。
奏の目が「きらんっ」と輝いた。
「嫌がる黒髪ロングの美少女から、力ずくでタオルを剥ぎ取った。涙目になった彼女がお願い返してと叫ぶが、容赦せず投げ捨てた。あとに残るのは、幼いながらもたしかに色づいた肢体と、獣性を露わにした男のみ。彼女の表情には絶望と、たしかな羞恥が息づいていて……」
さながら口述筆記のように、一心不乱に言葉を紡ぎ出している。
「そんなにボリューミーじゃないけど、いいっすねー。均整がとれてる感じ。脇のくぼみが綺麗! いやーこの陰んとこの表現が難しいんすよねー。水滴が流れ落ちて消えていく感じとか……うむうむ! ううーむ!」
小鳥は舌なめずりしながらベストのアングルを模索している。
「……ちょ、ちょっとやめてよっ。本気で気持ち悪いんだけど……!」
ぞわりと怖気を振るうようにするトワコさん。
気持ちはわかる。
……というかこのふたり、夕飯の時になにか怪しげな動きをしていたけど、もしかしてこっそり酒でも呑んでいたんじゃあるまいな……。




