「ロスト」
~~~世羅舞子~~~
薄暗い室内に、あたしの声が響く。意識的にトーンを落とした、おどろおどろしい声。
「江戸時代の話よ。東北は記録的な飢饉に見舞われた。穀物がないから雑草を食い、食えるものを食いつくしたら、大事にしてた家畜や、あげくは人をも食った――」
「……人が、人を……?」
戸惑ったようなトワコさんの問いに、あたしは重々しく首肯した。
「歴史書にも記されている、列記とした事実よ。神蔵近傍においても、その流れは避けられなかった。当時の人は迷信深かったから、加持祈祷によって事を解決しようと試みた。呪文を唱え、手印を結び、護摩を焚き、供物を捧げた。酒、果物、生花、そして人間――」
ざわっ、室内に動揺が広がった。
完全に油断していたみんなは、ひっと悲鳴を上げた。
「はいはい、そこまでー」
シャッと音をたててカーテンが引かれた。
小鳥遊家の別荘の、20畳はあろうかっていう大きな和室に、真夏の日光が差し込んできた。
シン兄ぃだ。腰に手を当て、あきれ顔であたしを見ている。
「まったく。なーんでおまえは悪ノリするんだ」
「なんでよー。改めて合宿の目的を説明しただけでしょー? 言っとくけど怪談じゃないわよ? 歴史的事実を述べただけ」
「言い方だよ言い方。普通に説明すりゃいいじゃないか。ほら見ろ、雛なんて腰を抜かしちゃって」
見ると、雛さんは青い顔をしてトワコさんにしがみついている。
「ちょっと雛。大丈夫……?」
「だだだだだだだだ……大丈夫……大丈夫だから……」
「ちっとも大丈夫そうには聞こえないけど……」
はあ、とトワコさんはため息をつき、雛さんの頭を胸元に抱え込んだ。
見れば、引きつけを起こしたようになった桃華を奏が慰めているし、真田兄弟は石みたいに硬直している。想像以上に破壊力があったみたいだ。
まさに死屍累々といった室内を見渡し、シン兄ぃはため息をついた。
「こりゃあしばらくみんな、使い物にならないな……。勝はどっか行っちゃったし、紅子らは夏コミの追い込みとかで部屋から出てこないし……仕方ない、2人で行くか?」
「――え。シン兄ぃと、ふたりで?」
「いやか?」
「や、そんなことないけど……」
なんとなくトワコさんを見ると、
「こっちは平気よ。わたしが面倒見るから」
ぱちんとウインクしながら、雛の背中を撫でている。
「……うん。わかった。行こうか」
和室を出ると、鈴ちゃんから声をかけられた。
「おじちゃんとお姉ちゃん、町へ降りるの⁉」
黒々とした髪を両サイドでお団子に結った、10歳ぐらいの女の子だ。目が大きくてぱっちりしてて、動きがぴょんぴょこ躍動的で、そういった趣味のないあたしですら、衝動的に撫でたり抱きしめてしまいたくなるくらいに可愛い。
「鈴が案内するよ! どこへ行きたい⁉」
鈴ちゃんはこの年頃の女の子にしては気が利いてるというか目端が利くというか、とにかく先回りして色々世話を焼こうとしてくる。まだ見たことないけど、きっとこの別荘の家政婦であるお母さんの教えがいいんだろうなと感心した。
あたしがこのくらいの頃なんて……ううむ……。
「そうかあ、ありがとう。じゃあお願いできるかな? お兄ちゃんとお姉ちゃんは神蔵の歴史について調べたいんだ。資料館みたいなところあるかな?」
「あるよ! わかった! 資料館だね! おじちゃん!」
「くう……っ」
きらきら笑顔のイノセントな攻撃によろめくシン兄ぃ。
「さ、行きましょうか。おじちゃん?」
あたしが袖を引くと、シン兄ぃはとどめを刺されたように呻いた。
小鳥遊家の別荘は、山の中腹にあった。
温泉宿は少し下ったところにある川沿いに密集していて、商店街や駅はもう少し下にあった。
軽トラックをシン兄ぃが運転し、あたしと鈴ちゃんは荷台に乗った。
風を切り、木漏れ日の中を疾走するトラックの荷台は気持ちよかったが、ちょいとGがきつめだった。
鈴ちゃんは急カーブのたびにあたしに掴まり、きゃっきゃっと喜んでた。
神蔵温泉郷は、江戸の昔より知られた温泉地だ。湯治や近在の寺社詣でのついでに訪れる旅客が後を絶たなかった。
今は昔の話だ。
昭和後期の温泉ブームの流れに乗りそこない、観光地としてのアピールに失敗した神蔵温泉郷は、その後の平成大不況の打撃の影響もあり、すっかり寂れた観光地になってしまった。軒を連ねる温泉宿も、廃業したのが目立った。
思ったよりもうら淋しいもんだなと思ったけど、さすがに口には出さなかった。
天真爛漫な鈴ちゃんの笑顔を曇らせるわけにもいくまい。
駄菓子屋で棒アイスを買っている小さな後ろ姿を眺めながらそんなことを考えてたら、シン兄ぃが優しげな目であたしを見ていた。
「……なあによ? あたしの顔に何かついてる?」
なんだか恥ずかしくなって、つっけんどんな口調になってしまった。
「いや、世羅もすっかりお姉ちゃんになったなって思ってさ」
「……いつの話してんのよ? あたしはもう18よ?」
「わかってるって。たださ、自分で合宿先を決めてみんなを動かしたり、小さい子供に優しくしたり、昔のおまえを知ってる身からするとなんというか……感無量というか……」
あたしは思わず顔を赤らめた。
「べ……べつにあたしは……昔とそんなに変わってないし……」
思わずうつむいてしまった。思わずどもってしまった。
昔のことを思い出した。
霧ちゃんの部屋に通い詰めた日々。
もちろんあたしは霧ちゃんの友達だったけど、同時に、少なからずもこの人のことが気になってた。霧ちゃんには内緒で、将来はお嫁さんにしてねなんてソフトな告白をしたりもしていた。それだけでひとり満足して、勝手な共犯関係を築いてた。
先の一連の騒動で、この人があたしの暴走を全力で止めてくれたことが嬉しかった。
年月を経てすべてが移り変わっても、変わらないことがあるんだって思った。
――あたしは、今もこの人が好きだ。
褒めてほしくて、優しくしてほしくて、目の届くところでぴょんぴょん跳ねてる。
子供なんだ。
子供だからこそ、複雑なんだ。
「……バカじゃないの⁉ 上から目線でもの言っちゃってっ。教師になったからって、人間まで変わったわけじゃないのに……!」
言いすぎてしまった。強すぎる口調だった。
はっとして口をおさえた。気が付いた時には遅かった。シン兄ぃは傷ついた顔をしてた。
顔を歪めて、でもあたしのおイタを咎めるでもなく、困ったように笑ってた。
「ごめんな、世羅。俺は不器用だから……。また、やらかしちゃったな……」
「そ――っ……」
そんな言葉を聞きたかったわけじゃない。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
そんな――
霧ちゃんを無くしたあの時みたいな――
だけどそれを口に出しかねて、あたしは言葉に詰まった。
居たたまれなくなって走り出した。
あてどもなく駆け巡った。
温泉街を抜けた。お堂の脇を抜けた。木立の下をくぐり抜けた。
気が付くと、周りには誰もいなかった。
昼なお暗い森の中、あたしはひとりになっていた。
精神的ストレスに耐えられず、暴走して迷子になるヒロイン。
映画やドラマの中でよく見るけれど、現実に自分の身に起きるなんて思ってなかった。
「あちゃー……」
でも実際にはこういうことなんだ。
二本の足があり、本気で追ってくる大人を振り切ろうとするなら、けっこうな無茶をしなけらばならない。心肺機能、旋回性能、単純な足の筋力……。
シン兄ぃは、コンパスは長いけど体力がなかった。狭いところに入り込むにはサイズが大きすぎた。だからあたしは山へと分け入った。狭いところへ、深いところへ。
その結果がこれだ。
見渡す限り、深緑しか見えない。獣道すらありはしない。
鳥のはばたき、虫の鳴き声、微かな風に揺れる木々のざわめき――その真っただ中に、あたしはいる。
下っていればいつかは人里へ降りるんだろうけど、すぐに降りるのは気が引けた。なにより恥ずかしかった。
「……ちぇっ」
ふて腐れるように草むらに座り込んだ。
体育座りして、手近の雑草を引きちぎっては投げた。
草いきれでむせ返るようになるまで、それを繰り返した。
ふと気が付くと、霞む視界にほっそりとした足が見えた。
鈴ちゃんだった。息を切らしながら、肩を上下させながら、呆然とした顔であたしを見ていた。
「あ……」
気まずさのあまり、口がきけなかった。
こんな子供にまで心配されて探し回られた。その事実が胸にきた。
「あ……あのね……? これは……別に……」
言い訳をしようとしたが、うまいこと口が回らなかった。
疲れているだろうに、呆れているだろうに、鈴ちゃんはふわりと甘いお菓子みたいな笑顔を浮かべた。
「良かった。お姉ちゃん。鈴、心配したんだから」
「……っ」
その言葉は涙腺にきた。
鈴ちゃんの優しさが身に染みた。
決して似ていないのに、霧ちゃんのことを思い出した。
大好きな友達。二度と戻って来ないあの日々。
そのことを思い出して、しばし動けず、膝の間に顔を埋めていた。
「……お姉ちゃん、どこか痛いの?」
心配した鈴ちゃんが、あたしの隣に腰を降ろした。
気が付かなかった。体のあちこちが、枝や葉で傷ついてた。乾いた血の跡が、じんじんと痛みを訴えていた。
「……悲しいこと、あったの?」
胸の奥に痛みがある。けっして埋められない空白。
でも他人に話せるようなことじゃなかった。子供に聞かせるようなことじゃなかった。
黙っていると、鈴ちゃんのほうが先に口を開いた。
「悲しいことがあったらね。空に投げるといいんだよ?」
「……空に投げる?」
昔そんな歌があったなあと思いながら復唱した。
「鈴もね。お母ちゃんに怒られたら悲しいの。いなくなったお父ちゃんのことを思ったら悲しいの。でもずっと泣いてはいられないから、悲しいのは全部、空に投げちゃうの。そしたらあとに虹がかかるから。みんなみんな、楽しい気持ちになれるから」
そう言って、鈴ちゃんは大人びた笑みを浮かべた。
……そうか。
あたしは思わず納得した。
どうしてお父ちゃんがいないのかは知らない。でもそれ相応の事情があって、そのぶんだけ彼女は大人なのだろう。
すべてを覆すために、軽やかに笑っているのだろう。
「よしっ、帰ろう――」
あたしは意を決して立ち上がった。
座ったままの鈴ちゃんの手を引いた。
「……大丈夫? お姉ちゃん」
気づかわしげな瞳に、特大の笑顔を映してやった。
「もう大丈夫よ! これくらいでへこたれるもんですか! お姉ちゃんは強いんだから!」
得意げに胸を張った。
年下のコに心配されたままじゃ格好がつかない。
なにせあたしは高校3年で、部長で、お姉ちゃんなのだから。
今さらかもしれないけれど、精いっぱいの虚勢ぐらい、張らせてもらおうじゃないか。




