「孝はもういない」
~~~狭霧奏~~~
センセと孝と3人でのプロレス観戦は、意外にも楽しいものだった。
まず興行自体が面白かった。
内容がわかりやすく派手で、毎回毎回、きちんと笑うところが用意されていた。
打つ、投げる、極める。技のひとつひとつに迫力があり、大技の時には手に汗握らされた。
選手ひとりひとりがプロ意識をもって演じているのがわかって、興味深かった。
「プロレスって楽しいねっ。孝」
「うんうん! 楽しいよね! お姉ちゃん!」
孝はいい子だった。優しくて気のきく子。だけどプロレスのことに関してはうるさくて、ちょっとでも間違ったことをいうと厳しく指摘された。
あたしたちはすぐに打ち解けた。いたことはないけど、本当の弟みたいだった。
他愛もないやり取りをしては盛り上がり、一緒のものを食べ合った。
フライドポテトを引っ張って半分こにし、あたしの嫌いなネギマのネギの部分を食べてもらったりした。
まったく似てはいないのに、なぜか桃華のことを思い起こさせた。毎度毎度、暑苦しいほどにぴったりと寄り添ってくる相棒。あたしの一番気持ちいい反応を返してくれる相棒。
「……」
今頃どうしてるのかな。そんなことを考える。
家で退屈してはいないだろうか。
ひとりで寂しがってはいないだろうか。
全然連絡もしてないし、もしかしたら心配してるかも。
リングの上では、HBM・ワイルド☆ミッチー組対レオ大崎・クロコダイル大久保組のメーンイベントが行われている。
これが最終試合だから、終わったらすぐに電話しよう。帰るコールだ。
……ああ、早く桃華に会いたいなあ。
胸を締め付けられるような感じがして、あたしはきゅっと唇を噛んだ。
「……どうしたの? お姉ちゃん」
「ん? ああー……」
孝が気づかわしげな目を向けてくる。
バレちゃったか。敏い子だ。
「なんでもないよー」
あたしは強がって笑いながら、孝の肩を抱いた。
「ねえ孝。また今度、他の試合も観に行こうよ。あたしは日程とかよくわかんないんだけど、他でもやってるんでしょ? すぐ明日、とかってわけじゃないだろうけどさ」
「また……今度……?」
突然、孝の表情から血の気が引いた。うつろな目であたしを見た。
「……ごめんね、お姉ちゃん。今度……はないんだ」
力のない、寂しげな笑い方。
「ない? それってどういう……」
孝の表情の意味を計りかねている間に、リング上で大きな動きがあった。
レインメイカーという怪しげなレスラーが乱入して来て、味方もろともHBMを倒してしまったのだ。
HBMの運び込まれた医務室を前に、孝は座り込んでしまった。
壁を背に膝を抱えこんで、寒さに耐えるように震えている。
「――孝……大丈夫?」
覗き込んだが、顔をうつむけているせいで表情はよくわからなかった。ただただ青白いのがわかった。
「HBM……HBM……」
うわ言のようにHBMの名を繰り返している。
「孝、HBMは大丈夫だって。意識はあるし、呼吸もきちんとしてるって」
「HBM……HBM……」
額に汗が浮かんでいる。
「孝……」
おとなしくセンセを待っていればよかった。わざわざ医務室まで見になんて来なければよかった。
でも、落ち込む孝をほうっておけなかったのだ。
なんとしかしてあげたいと思ったのだ。
「……」
あたしは医務室のドアを見上げた。
報道と客避けで、いまは硬く閉ざされている。
閉ざされる前に、あたしたちは見てしまった。
力なくベッドに横たわるHBMを。
無敵のヒーローが敗北した姿を。
「ばっちゃ……ごめん……ばっちゃ……」
ばっちゃ。孝にプロレスを観に行けと言ってくれたお婆ちゃん。
どうしたのだろう。孝は何を謝っているのだろう。
「孝……ばっちゃがどうしたの?」
あたしの質問に、孝は声を震わせた。
「お医者……の……先……生が、今夜がヤマだっ……て言ってた……。も……無理だって……。手……尽くしたって……!」
えづきながら、必死に言葉を重ねた。
「……え⁉ ちょっと孝……なんであんたこんなとこにいるの……! だったらなおさら、傍についていてあげなきゃじゃない! プロレスなんかどうでもいいよ! ――早く! 今からでもばっちゃのところに……!」
早く行こうと促すが、孝は強く首を横に振った。
「ダメなんだ……観ろって言われたから……ボクは……HBMの試合を観終わらないと帰れない……」
観ろと言われたから観に来た。観終わらないと帰れない。IFの存在を知っていて、「昔から」HBMのファンだった──いくつかの事実が、突如として符号した。
「あんた……まさか……っ」
声が掠れる。
「……ごめんね、お姉ちゃん。黙ってて……」
喉が詰まったような声がした。孝は、涙でいっぱいの目であたしを見上げた。
「ボク……IFなんだ――」
「――⁉」
「ばっちゃに創ってもらったんだ。交通事故で死んじゃったばっちゃの家族の……孫の代わり……っ。だから……もう会えないんだ。今夜が……最後で……」
「………………っ!」
瞬間、頭に血がのぼった。
全身の血液が沸騰したようだった。
立ち上がって医務室のドアノブに手をかけた。
内側から鍵がかかっているので開けられなかった。
扉を叩いた。
「――お願い! ここを開けて!」
なりふり構わずに叫んだ。
「HBMに会わせて! 伝えなきゃいけないことがあるんだ!」
「お姉ちゃん……?」
「あたしの友達が……! あんたの試合を観たいっていうんだ! その子は体が弱くて……もう――観られないんだ! プロレスが大好きなのに、もう観られないんだ! 今夜が最後なんだ! あんたが好きだって! 昔っからの大大大ファンだって! ねえ、聞いてよ! 聞こえてるんでしょ⁉」
「お姉ちゃん……もう……」
「立って出て来てよ! リングに上がってよ! 他の人じゃダメなんだよ! 代わりなんかいないんだよ! あんただからいいんだよ! あんたじゃなきゃダメなんだよ! この子はあんたを観に来たんだよ! 観せてあげてよ!」
ドンドン、ドンドン。あたしはドアを叩き続ける。
「無茶なこと言ってるのは知ってるよ! でも他にやりようがないんだよ! 無力なあたしたちには、信じることしかできないんだよ! ねえ、あんたはヒーローなんでしょ⁉ どんな技を喰らっても起き上がる、無敵のヒーローなんでしょ⁉ ねえ、お願いだよ! 立ち上がってよ! 戦ってよ! ――HBM!」
~~新堂新~~
「………………そんなことが」
奏の説明を聞いて、俺は絶句した。
「うんっ……」
奏は涙を拭きながらうなずいた。
「無理言って出場してもらったんだ。お医者さんは絶対安静だって言ってたけど……」
想像もつかなかった。ふたり仲良く、和気あいあいと応援しているものだとばかり思っていた。
俺が楽しんで試合していた陰でそんな事態が進行していたなんて、思いも寄らなかった。
「……新」
覆面を脱いだトワコさんが併走してきた。
気遣わしげな目を俺に向けてくる。
「大丈夫。俺はなんともないから……」
本当にきついのは孝だ。
創造主の言いつけを守ったことで、あいつは今、無情な別離を迫られようとしている。
そんなのないぜ。ご主人に創造されて、最後まできちんということ聞いて、その挙げ句、死に目にすら会えないなんて……そんなひどい話があるもんか……!
「──孝、大丈夫だ!」
HBMの背に必死でしがみついている孝に声をかけた。
「絶対間に合う! ばっちゃに会って、今日の感想を聞かせてやれ! 楽しかったって! ありがとうって!」
「……んっ」
孝は弱々しく、けれどたしかにうなずいた。
「だから今のうちに感想をまとめておくんだ! 面白かったって! 興奮したって!」
安請け合い。気休め。無責任──そんなことは百も承知だ。
でも、それ以外に出来ることがなかった。
「ついでに俺の活躍もつけ加えておいてくれよ⁉ なるべく格好良くな⁉」
「……っ」
孝が眉尻を下げ、微かに笑った。
スピードでも体力でも、俺はHBMに遠く及ばない。
だからこんなことしか出来ない。
コミックショー担当のインスタントヒーローは、ヒーローには出来ない役割を担う。
幸い、病院は近くにあった。
車を使うよりも走るほうが早いくらいの距離。
だけど臨終に間に合うかどうかはぎりぎりわからないくらいの距離。
HBMは、広い歩幅を生かして跳ぶように走った。
ザンザンッ、ザンザンッ。一匹の巨大な獣のように疾駆した。
一歩ごとに俺たちは引き離された。
「孝ぃ! 何号室だぁ⁉」
「55……1……!」
孝は揺れる背中の上で、懸命に叫んだ。
病院のロビーに入ると、遠くでエレベーターが閉まりそうになっていた。
「マリーさん!」
「――任せい」
びゅん、とツバメのような速さでマリーさんが走った。
エレベーターが閉まる直前、すんでのところで日傘を突き刺し、開ボタンを押してくれた。
「間に合え……間に合え……間に合え……!」
エレベーターが5階に到着するまでの間、奏は祈りを捧げるように手を合わせていた。
「男だったら、泣ぐんじゃねえ……。絶対ばっちゃに……涙なんか見せるんじゃねえ……」
HBMはHBMなりのやり方で、孝を励ましている。
「うん…っ、うん……っ」
孝は半泣きになりながらも、唇を引き結んでうなずいている。
チーン、扉が開いた。驚く看護士を押しのけ、俺たちはひと塊になって走った。
集中治療室で、ばっちゃは様々な医療器具に繋がれていた。
孝によく似た雰囲気の、優しくて頭のよさそうなお婆ちゃんだった。
孝の到着に気が付くと、長年の闘病生活でやつれた頬を、ほんのりと和らげた。
「たぁかしかあ……?」
「うん!」
孝はHBMの背から降りると、ばっちゃの枕元へ駆け寄った。
枯れ木のような手をとり、全力で叫んだ。
「勝ったよ! HBM!」
「そうかぁ……」
ばっちゃの視線がふらつく。おそらくはもう、孝のことすら見えてはいまい。
手の温もりと、声でしかわからない。
「たぁのしかったかぁ……?」
「うん!」
「そうかぁ……」
ばっちゃは目を細めてほほ笑んで、最後にぽつりとつぶやいた。
「よぉかったなぁ……」
「……っ!」
言葉を詰まらせた孝の背を、奏が叩いた。
「うん! ……うん! 楽しかったよ! 面白かったよ! HBMは強かった! 3人まとめて倒しちゃったんだ! ここまで送ってもくれたんだ! 信じられる⁉ ボクを背負ったまま、風みたいに速く走るんだ! HBMは本当にすごいんだ! ねえ、見てよばっちゃ――」
ボトリ。
「――⁉」
ばっちゃの頬に伸ばそうとした孝の指先が、手首ごと落ちた。
血は出なかった。黒い塵になって崩れて消えた。
『…………っ』
みんな、声にならない悲鳴を漏らした。
気が付けば、心電図モニタのラインが平坦になり、かん高いアラーム音を上げていた。
──ばっちゃの命が燃え尽きたのだ。
創造主の愛を失った孝の体は、もはや存在を保ち切れない。
小さな体が端から崩れ落ちる。壊れていく。
「孝ぃ……!」
奏がたまらずに抱き付いた。
その時にはもう、孝の足はなかった。腕もなく、だから他にどうしようもなく、孝はただじっと、奏の腕に抱かれていた。
「……ごめんね、お姉ちゃん。もう一度……一緒にプロレス行きたかったね……」
孝は目を細めるように笑った。笑い方が、ばっちゃのそれにそっくりだ。
「ありがと……ね。新も、HBMも。ね、お姉ちゃん。短い間だったけど……本当の姉弟みたいで……。ボクはさ……。楽……しかったよ。本当、今夜は……最高、ね……?」
――楽しかったよ、ね?
孝は笑ってた。
HBMに言われた通り、最後まで笑顔でいた。




