「戦う少年」
~~~トワコさん~~~
「悪ぃなー。うちはさあ、制服とかないがらぁー。私服にエプロンで勘弁してけろなあ」
訛りのきつい白髪のお婆ちゃんが、申し訳なさそうにわたしにエプロンを渡してくれた。淡い水色で、ポッケに兎の刺繍のある、可愛いエプロン。
「んだどもよう。かっちゃぁ。そろそろうちも制服のひとつやふたつ用意したっていいんでねえのう?」
これまた訛りのきつい白髪のお祖父ちゃんが、かっちゃ――奥さん? に提案した。
「はあー? うーちにそったら余裕があるわげねえべえ? ばぁがも休み休み言えこのぉ」
「んーだげどよう。新世紀んどごなんがぁ、なんつうだあれ? キャンギャル? どがいうの連れてんだど。うちも負げでらんねえべしゃ」
「ばぁがこぐでねえ。うちじゃあバイトひとり雇うのが精いっぺえだぁ。つってもJKだどJK。若さで勝負だぁ」
「……んだがぁ」
旦那さんの言い分を要約するなら、向こうがキャンペーンガールみたいな派手派手しいコスチュームの売り子を用意しているのに、さすらいプロレス側が私服にエプロンをつけたわたしひとりじゃ格好がつかないだろうってことなのだ。
だけどそんな金はないんだと奥さんにばっさり切り捨てられ、いきなりトーンダウンした旦那さんのしょんぼり加減が面白くて、わたしは思わず笑ってしまった。
実に実に微笑ましい、絵になるふたりだ。年季の入ったやり取りを見ていると、心のどこかがほっこりする。
「んーだばまあ、頼むわぁ。あんたぁ、名前なんてったがなぁ?」
「三条永遠子です」
「んーだばまあ、頼むわぁ。トワコさん。あんま向こうのごど気にせんでいいがらなあ?」
バシバシバシ、奥さんの乾いた掌で背中を叩かれ、わたしは押し出されるように会場へ送り出された。
仕事は単純だ。軽食や飲み物を番重という肩からぶら下げるような運搬容器に入れて売り歩くだけ。
「えー、ビールにポップコーン、フライドポテトはいかがですかー? お子様向けにコーラもありますよー?」
「あ、ありがとうございまーす。ビールふたつにフライドポテトですねー?」
「はーいっ。今そっち行きまーす。少々お待ちくださーい」
「おつり300円ですねー。はいどーぞー」
「お酌とかそういうサービスはないんですよー。え、写メ? それもNGですねー」
「はー……。追いかけっこ……。そういうのはお父さんお母さんとやってねー」
「あ……ビール無くなっちゃった……ちょっと待っててくださいねー。すぐにとって来ますからー」
単純だけれど簡単ではない。
お客が騒がしいのでこちらも声を張り上げねばならず、酔っ払いや子供の無茶ぶりにも愛想笑いを絶やしてはならない。
表情筋の疲労を感じながらバックヤードで番重に売り物を補給していると、マリーさんが話しかけてきた。
「……な、なあ、トワコさんや?」
そわそわと落ち着かない声。
「何よ? 今忙しいんだけど……」
「いやあ……なんというか……なあ」
「もうっ、どうしたっていうの?」
奥歯にものの挟まったような言い方に腹が立った。
眉を怒らせて振り返ると、困り顔の幼女がそこにいた。
陶器のように白い肌。輝くように豪奢な縦巻きロール。きらきら透き通る碧眼。ひらひらフリルの多いゴスロリ風の衣装を自然に着こなしている。
マリー・テントワール・ド・リジャン。通称マリーさん。IFとしてのわたしのメンターであり、幾度となく死線をくぐり抜けてきた相棒のような存在でもある。
「……なんで急にアルバイトなんて始めておるのだ?」
「独り暮らしのための資金作り」
真顔で答える。
「な──⁉」
マリーさんは凍りついた。
「卒業したら大学に進学しようと思ってるの。奨学金をとるつもりではいるけれど、それ以外にも色々と入用でしょ? 金は天下の回り物だけど、欲しい時には手元になしってね。
だから今の内からちょこちょこ頑張ろうと思って」
「な、な、な、なんでじゃ……なんでまたそんなことを……っ。そなたは……だって……っ」
マリーさんはわなわなと全身を震わせている。
「どこへ行こうというのじゃっ。わかっておるはずじゃろうがっ。そなたらIFは……IFはっ、創造主の傍におってこその……!」
「──嘘よ」
わたしはペロリと舌を出した。笑顔を作った。
「……へ、え……?」
きょとんとするマリーさん。
「新にあげたいものがあってね。ちょっとまとまったお金が必要なの」
「な、なんじゃ……驚かせおって……」
マリーさんは「ほー……っ」と魂の抜けたように肩を落とした。
「そんなに先のことなんてわからないし想像もつかないけど、でもこのわたしが、新の元を離れるわけないでしょ?」
「そ、そうじゃな。そうじゃよな……」
ぶつぶつと自分に言い聞かせるようなマリーさんのつぶやきを背に、わたしは補給完了した番重を肩から下げた。
会場へ戻ろうと廊下を歩いている時だった。老夫婦の控室のドアに身をくっつけるようにしゃがみこんで、巨漢のレスラーが耳をそばだてていた。
青地に白のラインが入ったマスクはたしか……さすらいプロレスのメーンイベンターのHBMだ。
「――な、なんじゃこいつ……?」
マリーさんがHBMの巨大さにびっくりして後退った。
背の高い人には慣れているつもりのわたしでも、さすがに身構える大きさだ。
レスラーなのでガタイもよく、ワセリンや汗の臭いなど独特の臭気もある。
道端でいきなり熊に遭遇したら、そいつが盗聴行為をしていた、ぐらいのインパクトがあった。
だけどなぜだか、わたしは逃げる気にも、糾弾する気にもならなかった。彼が何を聞こうとしているのかが、純粋に気になった。
少しだけ距離を置き、控室のドアに耳をつけた。
例のきつい訛りで、老夫婦が言い合っていた。
「だがらぁ、もうあん子さ縛るのやめれっつってるべ」
「……おらあ縛ってねえ」
どうやら、奥さんが旦那さんを責めている。
「新世紀んどごで拾ってもらえるならいいでねえが」
「……あれが望んだごどだぁ。おらがだのどうこういうこっちゃねえ」
「なしてだ。あれもいい歳なんだぞ? 最後にひと花咲かせてやったらいいべよう」
「……んだばよう。おめはあれを追い出せってのが。もう疲っちゃがら、うぢで骨埋めんだって言ったあれをよう、まぁた大手に追い出せってが」
「追い出すなんて言ってねえべぇ、適材適所だっつってんだぁ。あん子はまだやれるんだがらぁ」
……さすらいプロレスで働いている老夫婦の息子? が新世紀プロレスに声をかけられている。今一度息子に華々しい舞台で活躍してほしいと願う奥さんと、いい歳なんだからもうさすらいプロレスで骨を埋めさせてやろうという旦那さんの思いがぶつかり合っている。そんな感じだろうか。
……ぐすっ。
鼻をすする音にぎょっとした。
HBMが泣いていた。
くすんくすん。巨漢に似合わぬ可愛らしい泣き方だった。
HBMは泣きながらかぶりを振り、その場を後にした。
『……』
わたしとマリーさんは顔を見合わせ、けっきょく後を追うことにした。
辿りついたのは非常階段の下だった。覗き込むと、何も置かれていない空きスペースに、HBMが大きな体を縮めるようにして体育座りしていた。
くすんくすん、くすんくすん。マスクの目もとから、大粒の涙が零れている。
「……ねえ」
声をかけると、大きな体をびくっと震わせた。
よく光る目でこちらを見た。
「な、なんだぁ? おめえ、なしてそったらどこにいるだぁ?」
きつい東北訛り――ああ、あの老夫婦の息子だ。
「なにっていうか……バイトだけど」
「……なしてバイトがこったらどこにいるだぁ?」
「だってあなた、わたしのバイト先のレスラーでしょ? さっきから呼ばれてるわよ?」
試合時間が迫っているのに姿を見せないHBMを探して、他のレスラーやスタッフたちが走り回っていた。
「ああ……んだのげ……」
そうなのか、といったのだろう。
だが、HBMは座り込んだままだ。
「……出場しないの? あなたの試合なんでしょ?」
「出るわい。んだどもな……」
HBMは言いよどみ、わたしの爪先から頭のてっぺんまでを探るように見た。
おそらくはわたしの人となりを探ろうとして――泣いた姿を目撃された以上は隠してもあんまり意味がないことに気が付いて――大きくため息をついた。
「……本当はなあ、怖えんだあ……。おらぁ昔っから怖がりでなあ。小っちぇえ頃は夜中に便所にもひとりで行けんでよう。いっつもいっつも、試合ん前は震えで震えでよう……。……だって痛えんだもんよう。あえがだ、すんげえ顔して向かって来んだもんよう……」
独白するHBMの体は、小刻みに震えている。
「まして今回はよう、新世紀んとこどの対抗戦だべぇ。うちらぁたしかに弱小だどもよう、面子がかかってるんだぁ。おらだけでなぐよ。負ければとっちゃどかっちゃの顔にも泥ぉ塗んことになるべぇ……」
怖いのだと、彼は言う。
生来の怖がりで、いつも泣いてばかりだった。
レスラーになってからだって、それは変わらなかった。
いちいち痛いし、相手はすごい顔して向かってくるし。
まして今回は新世紀プロレスとの対抗戦であり、弱小だけれども団体の面子がかかっている。負ければ両親に迷惑がかかる。恥をかかす。
――わかる。
その気持ちには共感できる。
わたしも――そして多くのIFも、きっと同じだ。
「……おらあよう。図体でけえのにいじめられっ子でなあ……。よんぐ泣がされて帰ってきたもんなんだぁ。そのたんびに、とっちゃどかっちゃは慰めでくっちぇなあ……」
これだけ体格のいい人がいじめられてたという姿はさすがに想像がつかない。だけど、自分の大好きな人に負担をかけたくないという気持ちだけは痛いほどよくわかる。
よくやったと、いい子だと、手放しで喜んでほしいのだ。だけどそれには努力と勇気が必要で……。
「だったらこんなとこで震えてる場合じゃないでしょ。――弱虫」
わたしは腰に手を当て、冷然と見下ろした。
「――⁉」
HBMは雷に打たれたような表情になった。
ごめんね――わたしは心の中で謝った。
容赦を知らないわたしには、こんなことしか言えない。
「ご両親にいいとこ見せるんでしょ? 新世紀プロレスに目に物見せてやるんでしょ? だったら今すぐそこを出なさい。立ちなさい。男でしょ?」
「う……ああ……」
のそりと、HBMは床に片手をついた。
ゆっくりとゆっくりと、巨体を持ち上げた。
よく光る目で、わたしを見下ろした。
わたしも――そして多くのIFも、きっと同じだ。
「大切な人のために戦いなさい。それが唯一絶対の、あんたの価値なんだから――」




