「世羅と霧と」
~~~小鳥遊雛~~~
放心状態の世羅ちゃんを小鳥遊家のリムジンに乗せた。
新くんやトワコさんともども、アパートに連れて戻った。
新くんとトワコさんは新くんの部屋へ。
世羅ちゃんはわたしの部屋へ。
お風呂に入れて傷の手当てをした。
パジャマを着せて髪をドライヤーで乾かしてあげた。
彼女はまったくなんの抵抗もせず、されるがままになっていた。
座布団に座り温かいお茶を出しひと口啜り──人心地ついたところでぶり返したように泣き出した。
「霧ちゃんを……あたしが……っ。あたしが殺したの! あたしが創造して……好きなように扱って……あげく殺したの! 大好きだったのに……大嫌いって言ったの!」
「……霧ちゃんを?」
訊ねると、世羅ちゃんは震えながら訴えた。
話を要約すると、こういうことだ。
世羅さんは霧ちゃんを創造して傍に置いていた。
新くんが好きで、霧ちゃんも好きで。
ふたつの代償行為が、IFとしての霧ちゃんを創ることだった。
だけど大人になった新くんと再会し、トワコさんと対峙する中、どうしようもない矛盾が生じた。
IFとしての霧ちゃんは破綻を迎えた。
新くんを殺そうとした。
止めるには、言うしかなかった。
破滅の言葉。
嫌いだって。
好きなのに、嫌いだって。
「そっか……そんなことが……」
わたしは世羅ちゃんの頭を胸に抱いた。
「頑張ったね……」
「だ……れが……っ!」
頭を起こそうとするのを、無理やり押しとどめた。
「辛かったでしょ……?」
「辛くなんか……辛いのはただ……っ。霧ちゃんのっ、ほうで……っ」
果てしなく落ち込んでいこうとするのを、押しとどめた。
「辛かったよね……?」
「なんで……そんな……っ?」
世羅ちゃんは戸惑っていた。
「そんなに優しくするの!? あたしは全然そんなっ……そんなことされるような人間じゃっ……ない……のに……っ、そんな資格なんて……っ」
ただただ自分を、責めようとした。
「いいんだよ世羅ちゃん……」
わたしはひたすら、世羅ちゃんを撫でていた。
頭を撫で、背中を撫でた。
頬に頬を擦り付けた。
温もりを与えられればいいと思いながら。
悲しみを共有できたらいいと思いながら。
「いいんだよ……」
いつかもこんなことをしてたなって、思い出した。
泣きじゃくる霧ちゃんを慰めていた日のことを。
あの時も霧ちゃんは、ひたすら自分を責めてた。
わがままで自分勝手な、最低な女の子だって。
いつも一緒にいてくれる世羅ちゃんに、嫌われるんじゃないかって。そのうち見放されるんじゃないかって。
周りの人が驚くほどの繊細さで。
「……ねえ、世羅ちゃん? 教えてあげようか」
わたしはゆっくり、語りかけた。
わたし以外の誰も知らないことを。
真実の、霧ちゃんを。
~~~トワコさん~~~
「……新もお風呂入ったら?」
髪をタオルで拭きながら、玄関口に座り込んで放心している新に声をかけた。
新は未だ、泥だらけのスーツ姿だった。
「新」
もう一度声をかけ、ようやく気がついてくれた。
「あ、ああごめん。お風呂だよね? うん、いま入るよ」
弱々しく微笑みながら、新は立ち上がった。
ふらふらと覚束ない足取りで、風呂場へ消える。
床に転々とついた泥の汚れを雑巾で拭き取りながら、わたしは視線だけをその男に向けた。
「……メンターさんは、まだ消えないのね」
80、あるいは90歳ぐらいか、枯れ木のようにやせ細った老人だ。チャコールグレーのスーツに山高帽、烏頭のステッキという組み合わせは、いかにも昔の洒落者風。
服部老人は山高帽とステッキを脇に置いて座布団の上に正座し、マリーさんとふたり、のんびりとブラックコーヒーを啜っている。
「そうですよ、お若いお嬢さん。わたしらはIFの皆さんよりは、よっぽど長持ちするように出来とるんです」
服部老人は、しわがれた声で答えた。
「IFを失ったご主人のケアをせねばならんでしょう。だからもう少し、わたしらは長持ちするように出来とるんです」
「ケアねえ……」
終末期医療みたいなものだろうか。
マリーさんを失ってからの真理の様子を頭に思い描いた──あのひどい状態の彼女もケアされていたはずなのだが、あまり効果があったようには思えない。
「本当にそんなこと出来るの? 一番大事なものを失った人間のケアなんて。そんな簡単に出来るものなの?」
「難しいでしょうなあ。出来ないかもしれません」
「難しいって……」
あまりにあっさりとした服部老人の言い方に呆れていると、
「そんな簡単に出来るもんではございませんよ。何度経験しても難しい。どれだけ身を粉にしても、心を砕いてみても、人ひとりを動かすことなんて、なかなかなかなか」
「……何度も?」
服部老人は過去を懐かしむように目を閉じた。
「明治の初めの生まれでございます。長い長い徳川さんの治世が終わって、世の中がばたばたと移り変わっていきました。わたしは教員として職を奉じました。寺子屋から尋常小学校へ、国民学校へ。油からガスへ、石油へ。便利でハイカラなご時世になっていくのをこの目で見てまいりました。……色んな生徒がおりましたよ。頭のいいやつ、はしっこいやつ、てんでバカなやつ、どうしようもない悪たれ。いろんなのがおりました。IFとなり、ご主人を失い、メンターとして様々を渡り歩きましてからは、ますますいろんなのと出会いました。まあひとりとして、同じのはおりませんな。真心が届くこともあれば、届かぬこともありました」
「世羅の嬢ちゃんは、なかなかに強情な娘でしてな……」
寂しげに、服部老人はほほ笑む。
「わかっておったでしょうよ。霧の嬢ちゃんが復讐など望んでおらんことも。総合格闘技……とか言いましたかな。あのドタバタしたのを習い覚えてる時も、徒労感を募らせておったことでしょうよ。この先を突き詰めても何もない。そんなことは重々承知で……でも、やめるわけにはいかんのですよ」
「……」
「わかっていても果たさなければならない。間違っていてもなさなければならない。そういう時があるんですよ。人間には。あんた……なんと言いましたかな」
「トワコさ……三条永遠子」
わたしが言い直したのを見て、服部老人は微かに口元を綻ばせた。
「……なるほど三条さんも、なかなかに屈折しておられるようで」
「……トワコさんでいいわ」
なんとなく気恥ずかしくなって、わたしは訂正を求めた。
拭き掃除を終えて服部老人の対面に座った。
「トワコさん。あんたはあの若い教員が──」
「新堂新」
「新堂教員がなんとかしてくれる、そう信じておられる」
わたしはこくりとうなずいた。
「なるほどたしかに。彼には熱意があるし、最も大事な愛情がある。技術でも経験でも得られない、もっとも大事なものを持ってる。だけどどうでしょうなあ……。一度こじれてしまった縁というものは、これがなかなか元には戻りゃしませんのよ。融けて弾けてくっついて、戻るどころかますますひどくなることのほうが多いもんでしてな」
「新には無理だって言ってるの?」
わたしは思わず反発した。
「新ならなんとかしてくれる。真理や奏の時みたいに。絶対に。あなたにはわからないでしょうけど、新は今までだって──」
「過度に期待をかけなさんなと言っとるんですよ」
服部老人は一瞬だけ、たしなめるように語気を強めた。
「無理に背中を叩きなさんな。あんたが期待をかければかけるほど、新堂教員の重圧は高まるんです。ぎゅうぎゅう押し込みすぎて、内からの圧で爆発しちまう」
「期待……しすぎ? ……わたしが?」
全身から血の気が引いた。
公園で自分が叫んだことを思い出した。
──IFだからってなんなのよ! ロボットじゃないのよ!? 奴隷じゃないのよ!? わたしたちにだって好きなものぐらいあるのよ! 選ぶ権利ぐらいあるのよ!
──わたしは悩んでた! 自分の存在こそが新の癌なんじゃないかって! いっそいないほうがいいんじゃないかって!
──新が好きなの! 大好きなの! IFだからじゃなくって! 設定だからとかじゃなくって! 芯から好きなの! 好きになっちゃったの! トワコさんじゃなくって! 三条永遠子として好きになったの!
全力でぶつけてしまった言葉たちを思い出した。
あれが全部──霧ちゃんの消失とともに、新の背に乗っかっている。
「……っ」
お風呂場のドアを見た。微かにシャワーの音が聞こえてくる。
……新は今、何を思っているのだろう。
「何と言ってもあんたたちはまだ若い」
服部老人は、凪いだ湖面のような目でわたしを見た。
「これから何度も挫折することでしょう。だけどその挫折を受け入れなさい。その都度どん底まで落ち込むんでなく、ふたり寄り添い、支え合いなさい」
服部老人はステッキを手に取ると、トンと軽く床をつついた。
するとふわりと、何かが下から湧きあがってきた。
シャボン玉に似ていた。
透明で弾力に富んだ、丸い球体。
それが無数に立ち上ってきた。
「これは……?」
「思い出、ですよ」と服部老人。
「わたしが教えた生徒たち。その日々の記憶──」
シャボン玉の中に、無数の映像が詰まっていた。
ちょんまげを結った男の子が泣いていた。着物に身を包んだ女の子が微笑んでいた。軍服を着た若者が敬礼していた。ボロボロの服を着込んだ子供たちが大笑いしていた──その時代の、その時々の、様々な子供たちの画像がそこここで弾けた。
「……くだらん能力でしょう。戦う力じゃない。ご主人の危機を守ることが出来ない。世羅の嬢ちゃんを思いとどまらせることすらも出来んかった」
自嘲するように、服部老人はほほ笑む。
何十人、何百人、何千人の子供たちの映像に、わたしの目は釘付けになった。
「……全員のこと、覚えてるの?」
「そりゃそうでしょう。教員ですもの。それくらいしか、わたしに取り柄はござんせん」
画像は次々と切り替わり移り変わり、最後に世羅の像を結んだ。
まだ小さい頃だ。中学生になったばかりか、新調したセーラー服がまだまだ大きくてぶかぶかで、表情もあどけなくて……。
だけどそう──この映像があるということは、すでに服部老人がメンターとしてついていたのだ。つまり世羅は霧ちゃんと共に在って、新への憎悪を育てていたはずだ。
「……っ」
わたしは息を飲んだ。
なんと陽気に笑うのだろう。なんと澄んだ目で語るのだろう。走り踊り、全身で生命を謳歌していた──この時の世羅は、こんなにも屈託のない少女だった。
世羅と共に成長していく霧ちゃんは、やはり神経質そうで、やはり目つきのきつい女の子だったけれど、時々そっと、優しげな目を世羅に向けていた。
「……身代わりだろうがね。愛しいには変わらんのですよ。虚しくてもね、癒されはするんですよ。それがたとえいっときのことであれ」
服部老人はぼそりとつぶやき、シャボン玉をつつき、再び瞑目した。
つつかれたシャボン玉は自ら意志を持つように宙を舞い、隣の部屋──雛と世羅のいる部屋に向かって飛んでいく。
「……トワコさんや」
目を閉じたまま、服部老人はわたしに呼びかけた。
「あんたもまあ、背負いこむたちみたいだから言っておくがね。あまり気負いなさんなよ。なにせこれからあんたは、長い長ぁい命を生きていかねばならん。IFとしての何十年。メンターとしての何十年、あるいは何百年……。まだまだとば口に立ったばかりのわたしが言うのもなんですがね。それは想像を絶する時間ですよ。なのにあんたはまあ、眉間に皺ぁ寄せて歯を食いしばって。今からそんなじゃとてもとても、保ちやしませんって。わたしを見習えなんてなぁ口はばったくて言えませんがね。もっと肩の力を抜いて、新堂教員との今を楽しみなさいな。なんと言ったって、IFでいられるのは今だけなんだからさ」
服部老人が野口雨情の「シャボン玉」の歌を口ずさみ始めたので、わたしは口を閉じた。
マリーさんは一部始終を黙って見てた。
──シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ──
シャボン玉が消えた部屋向こうから、くぐもったような悲鳴が聞こえてきた。
紛れもない、世羅の声だ。
雛と一緒にいる彼女のもとに、シャボン玉が届いてる。
在りし日の光景を、届けてる。
本物の霧ちゃんと、創られた霧ちゃんと。
両方を知る彼女は、はたしてどんなことを思うのだろう。
それはわたしにはわからない。
まったく想像もつかない。
「……」
服部老人は黙っていた。
黙って、耳を澄ませるようにしていた。
やがて悲鳴は聞こえなくなった。
啜り泣きのような残響を、わずかに残して。
ふ……、と服部老人は口の端に皺を寄せるようにほほ笑んだ。
ほほ笑みながら、歌の続きを歌った。
──屋根まで飛んで、壊れて消えた──
声が途絶えると同時に、服部老人は消えた。
飲みかけのコーヒーと、正座の形に沈んだ座布団だけを残して。




