「いたいけな彼女」
~~~新堂新~~~
時刻はすでに0時を回っていた。
寒空の下を、ふたり歩いて帰途についた。
話さなければならないことはいくらでもあった。
知らなければならないことはいくらでもあった。
トワコさんのこれまで。
IFという存在について。
いわく、IFは創造主の愛情で出来ている。
愛情が定量に達すれば具現化出来る。
トワコさんの場合は、俺が小学生高学年の頃に意識の萌芽があったらしい。小さな俺に話しかけたかったが、そこまでの力はまだなかった。不可視の霧のような存在としてたゆたっていた。
俺が高校3年生の時にようやく実体をとれそうになったのだが、矢先の火事で台無しになった。
なんとか実体を得た頃には、俺は東京に行ってしまっていた。父方の叔父さんのもとに世話になっていた。
そんなこととはつゆ知らず、彼女は日本中を旅した。北海道から沖縄まで、ありとあらゆるところを歩いた。バイトして路銀を稼ぎながら、ずっと俺の背中を探していた。他ならぬ俺の傍にいるために。実に6年もの間。
「新のことも知りたいわ。ねえ、聞かせて? あなたがどんな日々をおくっていたのか」
東京へ行ってからの話。灰色の浪人時代。凪みたいな大学時代。
決して面白い話ではないはずだが、彼女は興味深く聞いてくれた。夜闇のような瞳に、必死で話す俺の顔が映ってた。
トワコさんが話す。
俺が話す。
トワコさんが話す。
俺が話す。
その繰り返しは、かつての絵日記上のやり取りに似ていた。
「へえ~っ」
部屋に招き入れると、トワコさんはキョロキョロ物珍しそうに見て回った。
引っ越したばかりの俺の部屋は、未梱包の段ボールが山積みになっている。開封されているのは、コタツと冷蔵庫といくばくかの食料品と酒類と寝床。当面の生活に必要な衣類と衣類掛けだけ。
「なんだか寒々しい部屋ね~」
セリフとは裏腹、終始ニコニコご機嫌に微笑んでいる。
「でもそこがいいわね。これからふたりの生活を作っていくって感じで」
「えっ」
「えっ?」
「ふたりの生活って……それってつまり……」
「一緒に暮らすのよ」
当たり前でしょ、とばかりにトワコさん。
「そうか……そういうことになるのか」
俺は改めて慄然とした。
創られた存在である彼女には、他に居場所がない。
係累は見事に俺ひとり。生まれついての天涯孤独。
暮らすなら、たしかにこの部屋以外あり得ない。
でも俺は躊躇した。
嫌なわけではない。
純粋に倫理的な問題だ。
成人男性が、年頃の女の子とひとつ屋根の下で暮らす。
その意味について考えた。
ぽん、背中を叩かれた。
「IFは常に創造主の傍にいなきゃダメなの。じゃないと死んじゃうんだから」
「死ぬって……そんな大げさな……」
トワコさんは腰に手を当て、ぷうと頬を膨らませた。
「もうっ。言ったでしょ? わたしたちは創造主の愛によって成り立ってるって。愛が無いIFはガソリンの無い車と同じ。動けないしどこへも行けない。回らないエンジンは錆びついて固まって、いつか鉄くずみたいになっちゃうんだから」
「……鉄……くず?」
「そうよ。身動きひとつ出来なくなって、考える機能すら失って、やがて存在を保てなくなるの。塵みたいに分解して、風に乗って散っちゃうの」
ふっ……トワコさんの顔が暗く翳った。
「本当に危ないところだったわ……。最近、関節の動きが鈍くてね……」
リウマチに悩む老人みたいに、膝を擦ったりしている。
「ちょ……ちょっとトワコさん……?」
「目も見えないし、鼻もバカになるし……。あの時はさすがに、ああ、わたし死んじゃうんだって思ったわ……。時期も時期だし、このまま、桜の花みたいに散っちゃうんだなって……」
トワコさんは顔をうつむけ、呪うように陰々とつぶやく。
「トワコさんってば!」
心配になって声をかけると、
「──でもね?」
彼女はぱっと顔を上げ、いたいけな野花のような笑顔を浮かべた。
「やっと新に会えた。万全の機能を取り戻した。これでもう、何も恐くない。わたしはいま、幸せよ?」
「わかった! わかったからもうやめてくれ! いつまでだっていてくれていいから! いや、むしろ末永くいてください!」
罪悪感と後悔で胸が張り裂けそうになって、俺は思わず彼女の手をとっていた。
俺はかつて、彼女を捨てた。
絵日記が焼けたことが直接の原因だとはいえ、続きを書く気力を失って投げだした。
挙句そのことすらも忘れてた。
思い出したのはついさっきだ。
なのにこのコは……トワコさんは、当然って顔でそこにいる。
ずっとずっと俺のことを探してて、日本全国を歩いても見つからなくて。
もうダメかってとこまで追い込まれたのに、幸せそうに笑ってる。
俺に再会できて嬉しいって、無邪気に喜んでる。
そんな彼女を再び寒空の下に放り出すわけにはいかない。
たとえこの先にどんな艱難辛苦が待ち受けていようとも、俺だけは傍にいてやろう。そう決めたのだ。