「ヒゲさんのアトリエ」
~~~新堂新~~~
悄然と部室を去った世羅のことが気になって、俺は慌てて後を追った。
屋上への扉を開いたところで追いついた。
このまま自殺でもしやしないかと不安になって、焦って手首を掴んだ。
「……おい、世羅!」
振り向いた世羅は、暗い顔で俺を見上げた。
「なんだ。シン兄ぃか……」
弱々しい顔で笑った。
向こう気の強い少女の面影は、今はどこにもない。
「……負け犬を笑いに来たの? 自分の得意な分野で挑んだにも関わらず、実は相手のほうが得意で圧倒されて。切羽詰まってあんな卑怯な真似してまで負けて。ざまあだって? いい気味だって? ……趣味悪いよ。シン兄ぃ」
「そんなことするわけないだろ! 教師が生徒を笑うなんて……!」
世羅は一瞬驚いたように目を見開いて──すぐに、泣きそうな顔で笑った。
「教師が……生徒を……? うん……そう、そうだね……はははっ」
屋上は事故防止のために高い金網で外周を覆われている。
その金網にもたれかかり、世羅は笑った。
「……シン兄ぃ。本当に教師になったんだもんね。んで、本当に文芸部の顧問になったんだ。昔冗談で言ってた通り。ははっ……なんだか笑っちゃうね」
本当に教師になった? 昔言ってた通り? やはり世羅は……。
「……あのさ、世羅。……その、やっぱり俺たち……昔、会ってるんだよな?」
ポケットに入れてあった写真を取り出して、世羅に見せた。
「これ……おまえだろ?」
それは古い写真だった。
ガラクタだらけの部室を引っかき回して、ようやく見つけた一枚。
場所は部室。何人かの若者が写っている。
学際向けの部誌を作っている最中なのか、皆、真剣な顔で原稿に取り組んでいる。
奥の方に、若かりし日の俺もいた。
青白い顔なのは、たぶん睡眠不足だからだろう。
傍らにユンケルを置いて、無理やり覚醒しながら作業を続けている。
手前に女の子がふたりいた。
どちらも、高校生には見えなかった。
年の頃なら11歳か12歳ぐらいだろうか。
片方はおそらく世羅だろう。
色素の薄い髪をツインテールにした女の子。勝気な目元がそっくりだ。
もうひとりの子と腕を組んで、世羅は楽し気に笑ってた。
「おまえ……俺と知り合いだったんだな。だからひさしぶりって……だけど、どうして俺を破滅させるだなんて……。俺、おまえにいったい何かしたのか? もし俺が何か悪いことをしてて、それでおまえを悲しませたんだとしたら……」
「…………………………知り合い?」
世羅は何かに打たれたような顔になった。
棒立ちになって、目を見開いた。
「……まさかシン兄ぃ、覚えてないの?」
ああ、そうか。
先にそのことを話さないとな。
「俺……実は昔のことを覚えてないんだ。解離性健忘って、医者には言われてる。 精神的苦痛のあまり、忘れてしまったんでしょうって。
たぶんな……あの火事のせいなんだ。
日常生活には支障をきたさないくらいのものではあるんだけどさ、特定の過去を思い出そうとしても出来ないんだ。
俺の昔のこと。
この街で暮らして、この学校に通ってて……その当時の記憶がさ。
うっすらと曖昧な、輪郭だけになっちまってるんだ。
人の名前は……まあなんとかってところだ。
ヒゲさんとか、当時からいた先生の名前は覚えてる。
同窓会にいった時もさ、雛や妙子や、勝のことも忘れてなかった。
関わり薄かった人たちもさ、なんとなく顔と名前は一致した。
でも、一緒に何をしたかとか、どんな話をしたかとかはほとんど覚えてないんだ。
あれほど通った文芸部のことですら、きちんと覚えてないんだ。
こうして写真を見ても、いまいちでさ。
……ははっ、笑っちゃうよな?」
「……家のことは?」
「へ?」
「実家のことは……覚えてないの?」
硬い口調で、世羅が聞いてきた。
「実家……?」
「今はどこに住んでるのよ」
「アパートだけど……だって実家は……」
「燃えたんでしょ!? 知ってるよ! だけど聞きたいのはそういうことじゃないんだよ!」
世羅は爆発するように激しく叫んだ。
震えるほどに強く拳を握った。
「どこにあるか覚えてる!? どんな人と暮らしてたか覚えてる!? あたしはそういうことを聞いてるんだよ!」
「え……え……?」
世羅の剣幕にびびった俺は、必死に思い出そうとした。
「親父とお袋……はいたはずだ。平凡な男性と、平凡な女性と。小市民を絵に描いたような一家でさ、犬が一匹。あとは俺と……あと……あと……」
「……ちゃん……のことは?」
世羅の声はくぐもっていて、よく聞き取れなかった。
「え?」
聞き返すと、世羅は大きな声で言い直した。
「霧ちゃんのことは!?」
涙の溜まった目で俺を見た。
「まだ思い出せないの!? あれから何年経ったと思ってるの!? 精神的苦痛のあまり忘れた!? いったい何年痛がってるつもりよ! ねえシン兄ぃ! いいかげんにしてよ! 忘れていいことじゃないでしょ!? そんなに簡単なことじゃないでしょ!? あたしたち、ずっと一緒にいたじゃない! シン兄ぃと、あたしと! ──霧ちゃんと!」
俺の腕を掴み、全身で訴えかけるように、世羅は叫んだ。
「き……り……?」
「思い出してよ! もうひとりいたんだよ! ねえ! 新堂霧ちゃんよ!? 他でもないシン兄ぃの妹じゃない! ブラコンまっしぐらの妹! 6つも離れてるお兄ちゃんのことが心配で、毎日毎日高校まで様子見に来てくれてた妹! あんなに仲良かったのに……ひどいよ! どうして忘れられるのよ! 辛かったから忘れた!? 悲しかったから忘れた!? そんなの……そんなの……! 霧ちゃんの痛みに比べたら、どの程度のものだったって言うんだよ!」
──ズキン。何者かに掴まれたかのように、こめかみが痛んだ。
ゆらり……世羅の姿が二重にブレて見えた。
──ジジ……ジッ。
頭の中をノイズのような不協和音にかき乱された。
「あ……あ……っ?」
寒気がした。
全身に力が入らなくなって、たまらずしゃがみこんだ。
世羅が俺を見下ろしている。何か言ってる。
だけど何を言っているのかわからない。頭に入って来ない。
遠く離れた異星の言葉のようで、どうしても理解できない。
──光が見える。
鮮紅色の炎が、世羅の瞳に灯っている。
世羅自身がIF……?
……いや違う、何かがいる。世羅の中にもうひとりいる。そいつが俺を見てる。
「──そこにいるでしょ!? にっこり笑ってるじゃない! それ見てもまだ思い出せないの!?」
その言葉だけが、はっきり聞こえた。
「え……?」
いつの間にか握り締めていた写真に目を落とした。
手前に写っているふたりの女の子。
片方は世羅で、もう片方は……。
髪の長い女の子。
顔の綺麗な女の子。
俺のことが大好きで、いつでも傍にいて……。
そうだ、いつだったかせがまれて、額にキスしたことがあったっけ……。
たしか……名前は……。
「き……り……?」
満島大吾。
彩南高校の美術教師だ。
俺が在学前からずっといて、今もなお古株教師のひとりとして君臨している。
彼が手がける美術部は優秀で、全国のなんちゃらコンクールの賞を何人もの部員の手にもたらした。雛もまた、彼の教え子のひとりだ。
歳は40歳になるかならないか。
学生プロレスで鳴らしただけあって、ごつくいかつい。小さい子が見たら間違いなく引きつけを起こす。
もみあげと繋がっている顎ヒゲが特徴的で、生徒からは親しみをこめて「ヒゲさん」と呼ばれている。
ふらつきながら美術部室を訪れると、ヒゲさんはキャンバスに向かう部員を指導しているところだった。
俺に気づくと満面の笑みで迎えてくれ、美術準備室に通してくれた。
木炭やテレピン油の匂い、古い布や木の匂いも相変わらず。
ヘルメス、アリアス、アグリッパだのの石膏像の中に自らを象ったミッチー像を紛れ込ませているオレ様ぶりも相変わらず。
本当に何もかも変わらなくて、見てるだけで懐かしさがこみあげてくる。
ふたりぶんのコーヒーを淹れると、ヒゲさんは対面の椅子にどっかと腰かけ、豪快に笑った。
腕組みすると、みきみきと腕の筋肉が盛り上がった。
おそらく日本一美術教師っぽくない美術教師だと思うが口には出さない。
コーヒーに口をつける。
相変わらず溶岩みたいに熱い。
いつもならとても飲めたもんじゃないが、今は冷えきった体を内から温めてくれるのでありがたい。
「んでなんだ? 何を聞きにきたんだ?」
「……う、わかります?」
「わからねえと思ったか? 昔からそうだったろうがよ。おまえがここに来るときは、必ずオレから情報を聞き出す目的があった。とくに女子のな」
「ギャルゲーの主人公みたいな扱いやめてくださいよ。真面目な話なんですから」
ヒゲさんは豪放磊落を地でいくような人だから、男女問わず人気があった。
部員だけでなく、日常的に多くの生徒が美術準備室を訪れ、ヒゲさんの淹れてくれた溶岩みたいに熱いコーヒーを飲んでた。
ただの雑談、悩みの相談、思春期特有のもやもやを抱えた生徒たちの情報が、ここには自然と集まって来る。それはたぶん今も変わらないはずで……。
「言っておくが、ものによっては教えてやれねえぞ? 個人情報だなんだと最近はやかましいからな」
「もちろんです。答えられる範囲でいいんです。3年の世羅舞子。知ってます?」
「……新堂」
ヒゲさんは沈鬱な面持ちでかぶりを振った。
「おまえ……早くも他の女生徒に手を出そうとしてんのか? 雛やトワコさんだけじゃ飽き足らず?」
「違いますよ! 教師としてです! 俺今、文芸部の顧問だから!」
全力で否定する。
「顧問? 文芸部の? おまえがねえ~……」
ヒゲさんは腕組みして唸った。
「でもあそこ、廃部寸前だろ? ほうっときゃ潰れるのに、なんでわざわざそんなとこの顧問なんて引き受けたんだ?」
「わざわざっていうか、他に選択肢がなかったんですよ。おまえやれって無理やり……」
「無理やり……ああ。おまえの正担任……古屋だったな」
「ええ」
「……ま、あいつがしそうなことだわな。自分じゃやりたくねえからおまえに押し付けたんだ。ったくあいつは……!」
ヒゲさんはガシガシと髪をかきむしった。
「ヒゲさんは古屋先生とも親しいんですか?」
「……親しい? うーん……取り立てて話をするってわけじゃねえんだが……あいつ、よくここにコーヒーを飲みにくるんだ。猫舌のくせにふーふー冷ましながらさ。何を好き好んでって感じなんだが……」
ヒゲさんの淹れるコーヒーは、特別美味いわけじゃない。
香りもとんでるし、煮えたぎるように熱いし。
でも、コーヒーを冷ましながらの雑談は間違いなく楽しいし、一緒の空間にいるだけで癒される。
あるいは古屋先生も、そういったヒゲさん成分を求めて来ているんじゃないだろうか。あの人の性格上、決して口に出したりはしないだろうが。
「まあでも、文芸部の件に関しては、仮にそうだと知ってても俺は引き受けたと思いますよ? 自分が在籍してた部活がなくなるのってのは、誰だってイヤなもんでしょう」
「……たしかにな」
ヒゲさんが苦笑いしたのは、彼が創始したプロレス同好会もまた、希望する生徒の減少で数年前に無くなっていたからだ。
「にしても、世羅舞子。世羅舞子ねえ……ありゃあ相当な難物だぞ?」
ヒゲさんはしみじみと語る。
「……やっぱり?」
「おう。以前に文芸部に入ってたってやつの話じゃ、自分以降の文芸部の部員が増えねえように、新入部員をいじめ抜くらしい」
「いじめ……!?」
ざわりと、背筋を寒気が走る。
「といっても、直接暴力を振るうってわけじゃないらしい。いじめってほど明白なもんでもないらしい。だが事あるごとに嫌味をいったり、冷たく接したり、とにかく居心地が悪いようにするんだと。教師に訴えるほどのものでもない程度に。だが繰り返し執拗に。結果的に同学年の部員はいなくなり、新しいのも入ってこなくなり……なんだっけ、あのコロボックルみたいな双子……」
とんとんとん、こめかみを叩くしぐさ。
「真田兄弟」
「そうそいつら。そいつらしか残らなかったって」
なるほど。暴力などの実質的な行動に出ていないのであれば、そしていじめと騒ぐほどのものでもない程度の嫌味であれば、教師側が打てる手だてはほとんどない。
面と向かっての説得、説諭。そんなところが関の山だ。
それだって下手をすれば、逆にこちらが親御さんに訴えられかねない。
生徒からすればただの嫌な人。嫌な先輩。部にいたくなくなる程度の。
だからこその問題児というわけか……。
「あいつ、言ってました。文芸部が嫌いだって。自分が抜けて真田兄弟だけになれば、人数不足で廃部になるだろうって……」
廃部の危機は、トワコさんが決闘に勝利したことで回避できた。
問題は、世羅の心のケアだ。あいつをあそこまでさせた「何か」を、俺は知らなければならない。
「ヒゲさんの話と突き合わせると、世羅は文芸部を廃部に追い込むためだけに入部したってことになる。人をどんどん辞めさせて、自分までも最後にはいなくなって……。おかしいですよね。なんでそこまでして……」
そしてさらなる疑問。
「ヒゲさん、もう一つ聞きたいんですけど……。俺……ここに通ってた時……どんな生徒でした?」
ヒゲさんは訝しげな顔をした。
「……あ? なんだそりゃ、流行りの自分探しってやつか?」
「そんなんじゃないですよ。なんつうか俺……記憶がないんですよ。実家が火事にあったことは覚えてるんです。だけど、それ以外のことを覚えていない。雛や紅子や勝やヒゲさん。学校のみんなのことは覚えてる。でも、家のことがわかんないんです。両親はどんな人だったか。家族構成はどうだったか。……ねえ、ヒゲさん。俺って、妹いました……?」
「新堂……」
ヒゲさんはぼりぼりと頭をかいた。
そして、ぎろりと険しい目で俺を睨んだ。
「……おまえ、それ本当に知りたいのか?」
「──!」
どきりとした。いつものヒゲさんじゃない。
「おまえ自身が封印した記憶だぞ? 思い出したくないって蓋をした気持ちだぞ? 本当に知りたいのか? 気が狂うほど辛い記憶かもしれねえぞ? このままほうってけば、もしかしたら一生知らずに済むかもしれねえ記憶を――本当におまえは知りたいのか? そこまでの勇気があって言ってんのか?」
「──!」
膝が震えた。
心臓が大きく脈打った。
痛くて、苦しくて、心が軋んだ。
本当はやめたかったけど、なんとか堪えた。
だって、さっきの世羅のあの言葉、あの表情……。
「――はい」
うなずいた。
「俺は、知らなきゃならないんです」
力をこめて、はっきりと発音した。
ヒゲさんの顔を真っ正面から見つめた。
「本気……みたいだな」
ヒゲさんは大きく息を吐くと、ゆっくりとゆっくりと語り出した。
「……長い話になる。心して聞けよ?」




