「新堂新はもういない」
~~~マリーさん~~~
クラスの女子の間で、片手を握って「ぐっぱっ」と開く、という挨拶が流行っていた。
奏も桃華も真理もやっていた。新も照れながらやっていた。
小鳥はそのつど、それらの光景をあまさずスケッチブックに納めていた。
「まさかそなたまでそこに描かれることになろうとはな……」
ひきつった作り笑顔でほんのり頬を染めながら、「ぐっぱっ」とするトワコさんの絵を、
わらわはしみじみと思い出した。
IFとしての存在意義も役割もすべて忘れ、まるで一介の女子高生となったかのような表情を──
「まったく、そなたのようなバイオレンスな女には似合わないこと甚だしい」
「誰がバイオレンスよ」
憮然とした顔でトワコさん。
「曲芸する猛獣、とでも言い換えようかの?」
「……より悪くなってるじゃない」
「はん。クラスメイトを本気で殺しにいく女がバイオレンスでないなら、あとは本当に殺すしかないわなあ?」
「奏たちとのことを言ってるなら、あれはだって……向こうが悪いのよ」
トワコさんは石を蹴ってふて腐れた。
「新に危害を……エッチなことをしようとしたし……。わたしは敵を容赦できない『設定』だし……」
語尾は小さく、放課後の喧騒にかき消されて消えた。
赤く熱い夕陽が、山間へゆっくりと沈んでいく。
がなるような運動部のかけ声。吹奏楽部の不協和音。はしゃぎ回る生徒たちの間を縫うようにふたり、部室棟へと向かっていた。
わらわは肩を竦めた。
「冗談じゃよ」
「……え?」
トワコさんは立ち止まってこちらを見た。
「ちょっとからかっただけじゃ。変化しているそなたがうらやましかっただけじゃ。わらわと違って停滞していないことが嫉ましかったんじゃ」
日傘を閉じて肩に担ぎ、雲ひとつない夕焼け空を仰いだ。
「マリーさん……」
「寂しい気がしたのじゃよ。孤高の存在だったはずのそなたが、周囲に馴染んで溶け込んで頚木から解き放たれて――いかにも普通の女子高生でございって顔しとる。それがなぜだか切なくてな……」
しばらく逡巡した後、トワコさんはゆっくりと口を開いた。
「………………新が喜ぶの」
「む?」
うつむきながら、独り言のように続ける。
「クラスのみんなと仲良くする。一緒に勉強する。一緒に遊ぶ。自分の将来のことを考える。……わたしが普通の人間みたいにすると、女子高生っぽく振る舞うと、すごく嬉しそうな顔をするの。キャラ付けされた『トワコさん』じゃなくって、素の『三条永遠子』として振る舞うと、新は喜んでくれるの」
「……」
「なるほどなって思った。わかったの。もうあの頃の新はいないんだって。ひたすらわたしのことを書き綴って対話してくれて……それだけで満足してた男の子はいないんだって。今の新はもう大人で、教師という社会的な立場があって、雛という恋人がいて……わたしはもう──わたしなんかもう――」
「お、おいトワコさん──?」
焦点の合わない目で果てしのない自虐を始めたトワコさんを慌てて引き止める。
「わ、わらわが悪かった。そんなつもりで言ったわけじゃ……!」
「――冗談よ」
「……うん?」
絶句していると、トワコさんはいたずらっぽく舌を出した。
「さっきのお返し。『曲芸する猛獣』が、そんなに弱いわけないじゃない」
「き、きさま……! このっ、心配させおって……っ!」
日傘をぶんぶん振り回すと、トワコさんは笑いながら後ろへ跳んだ。
「ふふ、ごめんね。わたしは新に喜んで欲しいのよ。新が嬉しいときはわたしも嬉しい。だからもっともっと喜んでもらいたい。ただそれだけなの」
IFらしい、この上なくシンプルな答え。
「ね、昨夜なんか良かったと思わない? 新ったら、わたしの夏服姿に見惚れちゃって。夜中なのにリビドーを抑えきれずに走りに行っちゃったりして。──ふふっ」
トワコさんは両手をまっすぐに広げ、その場でくるくると踊り出した。周囲の生徒が奇異なものを見る目を向けてくるが、まったく気にする様子も見せない。
空を仰ぎくるくるくるくる、幸せの雨を受け止めるように回っていた。
「――ね、マリーさん」
回転を止めたトワコさんが、前傾するように優雅に一礼する。
「……なんじゃ?」
「わたしに協力してくれる? ――わたし、もっともっと、新に好かれたいの。好きになってほしいの」
「お、おう。そうか、そうじゃな。ま、まかふぇろっ」
トワコさんの寂しげな表情が目に焼き付いたままだったので、変な声が出た。
こほんと咳払いして腰に手を当て、胸を張る。
「任せろ。わらわがついておれば百人力よ。なにせわらわは文化爛熟せし美しき時代のフランスの姫君。太陽姫であるのじゃから」
「ソウネ、キタイシテルワ」
「なんで棒読みなんじゃよー!」
日傘を振り上げると、トワコさんは笑いながら逃げた。
遠ざかる背を目で追いながら、ひとりごちる。
「……ふん。まあしかし、まずはそうじゃな……まずは、バイオレンスをなくすところからじゃな」
そんなよしなしごとを話しながら、新のいるだろう文芸部の前まで来た。
ドサリ。
突如トワコさんが棒立ちになり、学生鞄を落とした。
「おい鞄――」
注意しかけて、わらわも硬直した。
周囲を大量の本やゲームに埋め尽くされた古めかしい部室の中、電灯の真下。
3年の女子が新に抱き付いていた。長身の新に飛びつき、しがみつくようにしていた。
位置的に、新の顔は見えない。女子の顔だけが見える。
トワコさんの存在に気がついたその女子はニヤリと悪い笑みを浮かべると、新の耳元で何事かを囁いた。
ぎょっとした顔を、新は女子に向けた。
抱き合った状態でそんなことをすればどうなるか――簡単だ。唇と唇が接近する。
事故なのか故意なのかはわからない。
じゃふたりの唇は、見間違いようもなくくっついた。
~~~トワコさん~~~
ふたりはしばしもみ合い、やがて女のほうから身を離した。
「あらら……」
女はわざとらしく口元を拭いながらこちらを見た。
「見られちゃった?」
にたありといやらしい笑みを、こちらに向けた。
瞬間。
わたしの中の何かが弾けた。
「……と、トワコさん!?」
わたしの存在に気づいた新が、真っ青になって女を突き放した。
「いつからそこに⁉ ……って、え……あっ? い、いやっ、いまのは違うんだ!」
「……違う?」
「事故だったんだ! ふたりともが顔を同じ方向に動かしたことで起こった、不幸な事故だったんだ!」
「不幸な……事故?」
「そう! だからあまり怒らないでく……」
「あー、ひっどーい」
女が甘えるような声を出して新の腕をとった。
「不幸な事故だなんて嘘ばっかりー。あたしのこと、可愛いって言ってくれたくせにー」
「いぃいぃいっ⁉」
「キスだって一度や二度じゃないじゃなーい? 全部なかったことにするなんて、もう、意地悪なんだからー」
「ちょ、ちょっと待ちなさいキミ……世羅! いったい何を言って……!?」
女──世羅は恋人でも気取るように、新の胸に頬を寄せた。
「こ……こら! 離れて!」
狼狽える新は、しかし世羅を強く引き離せない。
「……可愛い? ……キス? ……一度や二度じゃない?」
ぶつぶつぶつぶつ。
わたしは呪文のように繰り返す。
「落ち着け! 落ち着くのじゃトワコさん!」
慌てたマリーさんがわたしの肘を引いた。
「バイオレンスはいかん! 絶対いかん! 相手は人間じゃぞ!? ご法度破りは重罪じゃぞ!?」
「……落ち着く? ……バイオレンスはいけない? ……相手は人間? ……死蔵じゃぞ?」
知ってる。
そんなの知ってる。
でもあいつは新にキスしたんだ。
わたしの新に抱き付いて、唇を奪ったんだ。
わたしですらしてもらったことないのに。
我が物顔してキスをして。
今もなお、胸元に頬を寄せていて。
のうのうと呼吸をしてて……。
──トワコさんは浮気を許さない。
──トワコさんは容赦を知らない。
設定が吼え猛る。
壮絶な痛みとともに、わたしの背を押す。
水晶体が光を放つ。
鮮紅色の、戦いの光を宿す。
「落ち着けトワコさん! NGじゃとゆうとろうが! 相手は一般人じゃぞ⁉ 傷害になる! 事件になってしまう! そんなの新じゃって喜ぶものか!」
「わかってる……わかってる……わかってる……!」
掌に何度も拳をぶつけて、わたしはギリギリと歯を食い縛った。
全身を走る激痛を、なんとか耐えた。
そんなこちらの事情を察してか、世羅は口もとに手を当て、あざ笑うようにして近づいてくる。
「あーら悔しい? トワコさん。顔真っ赤にしちゃって。鼻をぴくぴくさせちゃって。そうだよねえ? 大切なご主人様を見ず知らずの女にとられて。唇まで奪われて。悔しいよねえ~? ふっ……ふふふ、美味しくいただきましたっ。ご・ち・そ・う・さ・ま~♪」
「──死ぃねえぇぇぇぇぇぇえ!」
わたしはマリーさんを振り払うと、ステップインするなり全力で蹴りこんだ。
渾身の回し蹴り。狙いは世羅のわき腹。
胴を真っ二つにするような気持ちで。
ッズドオォォォン!!
後ろにいた新もろともにぶっ飛んだ世羅は壁に激突し、ずり落ち、ピクリとも動かない──
「こ、こ、こ、殺してしまった⁉ お、おいトワコさん! な、な、な、なんてことをしてくれたんじゃ! 相手は普通の人間じゃぞ……⁉」
マリーさんが動転した様子で駆け寄ってくる。
「……不可抗力よ」
「いやいやいや、全力で死ねと言っておったじゃろうが! ……ってああああ!? 死んだ!? 死んでしもうたか!? ど、ど、ど、どうすれば──はっ、そうじゃ、AEDじゃっ。AEDを!」
「……心室細動がどうとかいうレベルの話じゃないと思うけど」
「なんでそんなに落ち着いてるんじゃよー!?」
「……いいじゃない。磨り潰して薬で溶かして下水に流せばわからないわ」
「据わった目で猟奇的なことを抜かすな! 怖いからやめい!」
「……豚さんに食べさせてもいいっていうわね。彼ら雑食だし、食欲旺盛だから。うふ、うふふ……」
「暗黒面から戻って来い! そんな黒い話聞きとうないわ!」
「大丈夫よ。生きてるわ。こいつ」
「は? 何を言ってるんじゃ。あんなに渾身の回し蹴りが決まっていたのに……」
「あら、バレちゃった?」
世羅は何事もなかったかのように立ち上がった。ぱんぱんと制服についた汚れを払い、不敵な笑みを浮かべている。
もろともに倒れた新のほうは、「きゅうう……」と力なく目を回している。
「両腕でガードした。直撃と同時に後ろへ跳んで勢いを殺した。──だけじゃないわね?」
わたしは世羅をにらみつけた。
「ミートの瞬間、姿が二重にブレたように見えた。あれは普通じゃない。それにあなたはこう言ったわね。大切なご主人様をとられてって。普通わたしと新の関係性を見て、そういった単語は浮かんでこないはずよ。せいぜい彼氏か恋人、夫、旦那様……」
「……一応言っとくが、つっこまんからな?」
「へえー。よく見てたわね。さすがトワコさん……と、金髪ゴスロリ幼女の……誰?」
世羅はわたしを見て、次にマリーさんを見た。
「……マリー・テントワール・ド・リジャン。しかしわらわの姿が見えているということはこいつ……」
「IFか指導者ってとこね。だけどまあ、そんなのどうでもいいわ。いずれにしろわたしたちの戦闘は……」
わたしは椅子とテーブルをを踏み台にして「たたんっ」と軽やかに跳び上がった。
「先手必勝!」
天井すれすれまで跳び上がり、世羅の頭部へ鉈を振り下ろすような跳び回し蹴りを蹴り込んだ。
速さ重さに角度までついた、申し分のない一撃。
しかし世羅は余裕しゃくしゃくで受け止めた。
左腕での上段上げ受け。微動だにしなかった。
「──え?」
まさかそこまで簡単に防がれるとは思わなった。
驚きのせいで、蹴り足を引くのが遅れた。
引こうとした蹴り足を、世羅の左腕に掴まれた。
世羅の左腕はすでに防御に使っている。だがその腕によって掴まれた。手首を返したわけでもないのに。
「もう一本の……腕……!?」
世羅の腕の外側……肘の手前あたりから、もう一本の左腕が生えていた。
黒い霧を凝縮し実体化させたような色の腕だ。
そいつがわたしの足を掴み──有無を言わせぬ力で勢いよく振り回した。
「──ひうっ!?」
ぶぅん、バットでも扱うように簡単に、わたしは振り回された。
欅のテーブルに、勢いよく叩きつけられた。
ぶつかる瞬間、体を丸めるようにして身を固めたが、そんなことで誤魔化せるようなスピードではなかった。
ぐしゃりと肉を打つ鈍い音がした。
ぱっと、目の前が赤くなった。
「あ……ぐ……あっ⁉」
どこをどう打ったのかはわからない。
どこがどう痛いのかすらわからない。
とにかく壮絶な衝撃がわたしを襲った。
意識がどこか遠く、闇の向うへ引っ張られていくような感覚。絶望的な浮遊感。
「──いかん!」
マリーさんが叫んだ。
「……あら、ただのお人形さんだと思ってたら邪魔するんだ──」
同時に、わたしの体はぶん投げられた。
「──ぬうおっ⁉」
マリーさんにぶつかった。もろともに転がった。
三転、四転、どこかを転がり、何かにぶつかり、気が付いた時には文芸部の外にいた。
「ぐっ……⁉」
すぐさま立ち上がろうとしたが、全身に力が入らない。
骨という骨がバラバラになったかのように、身動きひとつとれない。
しゅううー……っ。
全身から、白い煙が立ち上る。
IFの有する自己修復能力が、マックスで起動している。
戦えるようになるまであとどれくらいかかるか。3分? 2分?
ダメだ。その前にやられてしまう。
「……任せておけ」
比較的ダメージの軽かったマリーさんが立ち上がった。
「……屈辱を負ったのはわらわも同じじゃ。容赦はせんよ」
すでに仕込み剣を抜き、中段に構えている。
「マリーさん……」
「感謝ならあとじゃ。あやつ、なかなか油断ならぬ使い手じゃぞ?」
「……わかってるわ」
わたしの蹴りを平然と受けきった防御力。
軽量とはいえ人間ひとりを振り回し投げ飛ばした腕力。
加えて、出所の判然としないもう一本の腕。
「へえぇ、IFと指導者で組むなんて珍しい。監視する側とされる側とで、普通は仲悪いもんなんだけどね」
元通りになった左腕をぶんぶん回す世羅は、しかし追い打ちをかけてくる気配がない。部室の入り口に立って、ゆっくり辺りに視線を巡らしている。
「ね、ねえ。なにあれ……」
「死ねとか聞こえたけど……なに、修羅場? 事件?」
「あの音、けっこう尋常じゃなかったけど……先生呼んできたほうがいい?」
騒ぎを聞きつけた野次馬が集まり始めた。
「あらら、残念……時間切れかあ」
微かに眉を歪め──そして一転、笑顔になった。
「大丈夫? トワコさん。転んじゃったの?」
先ほどまでの挑発など忘れたように、親し気にしゃべりかけてくる。
「だからあれほど言ったじゃなーい。老朽化が進んでるから危ないよって。そうね、そうよね。床板が腐っていたんだわ。あとで先生に言っておかないとー」
「こいつ……⁉」
「面の皮の厚いやつめ……」
マリーさんが舌打ちした。
世羅は、周りに聞かれないよう小さな声で牽制してきた。
「……今日のところは挨拶がわりだよ? あたしにだって一応世間体ってもんがあるし……」
口角を吊り上げ、小憎たらしい笑みを浮かべる。
「一応……ね?」




