「新ふたたび」
~~~新堂新~~~
トワコさんが回っていた。
姿見の前で回っていた。
バレリーナみたいに爪先を支点にくるくるしていた。
5月の終わり。東北の遅い衣替えのシーズンが明日に迫っていた。
彩南高校の女子制服は少し変わっていて、秋口から春にかけては黒セーラー服に臙脂のタイだが、夏服は上下とも真っ白の半袖セーラーに臙脂のタイとなっている。
ひと目につく組み合わせが女の子の間では人気だが、雛も紅子も黒セーラーをことのほか気に入っていて、日記の中では一度も白セーラーを描かなかった。
……つまるところ、新鮮なのだ。
普段着とも黒セーラーとも違うギャップ。白に映えるつややかな黒髪や、トレードマークの赤いマフラー(夏用)とのコントラスト。
口元を綻ばせ、目をきらきらと輝かせ、自慢げに見せびらかす様が子供みたいで可愛かった。
どきんと胸が高鳴ったのは、だからしょうがないことなのだ。
「どう? 新、似合ってる?」
優雅な動作で回転を止め、スカートの裾をつまみながらポーズをとるトワコさん。
「……うん。可愛いよ」
似合ってる、ぐらいにしておけばいいものを、ついつい思ったことがそのまま口を出た。
「かっ……?」
トワコさんもそこまでストレートな感想を期待していなかったのか、「ぼんっ」と蒸気を噴き上げるように顔を赤くした。
「あ……ありがと……」
自分から見て欲しがったくせにもじもじと、マフラーで口元を隠し、スカートの裾をいじって顔をうつむけた。
いつもの自信満々なトワコさんとのギャップがさらに上積みされ、赤みが俺にまで伝染した。
「う、うん……」
「おーおーおー。雛がいないのをいいことにイチャコライチャコラ。いやじゃのう。さかりのついた猫みたいじゃ」
「――!?」
「ちょ、やめてよマリーさん」
部屋の隅に積み重ねた座布団の上で足をぶらぶらさせながら、マリーさんがにやにやしている。
「なんだったら気を効かせて外へ出ていたほうがよいか? 2時間か? 1時間もあれば足りるか? そうじゃのう。雛が祖父の見舞いで遠出していて邪魔が入らないなんて、ちょうどいい機会でもあることじゃしのう。ひっひっひっ」
「……!!」
「やめてよマリーさん、そんなこと言うの。別に俺はそんなこと……」
「そうかあ? 向こうはそうは思ってはおらぬようじゃぞ?」
マリーさんの目線を追うと、トワコさんはうつむいたまま、ちらちらと俺のことを見ていた。
その姿もまた、普段の彼女からは想像できないものだった。まるで少女漫画の中の初心な少女がするような、いじましく可愛らしいしぐさだった。
『……』
カチコチと、時計の秒針が時を刻む音が聞こえる。
23時。さすがにもう寝る時間だ。
狭い我が家の間取りでは他に選択肢もなく、布団は並べて寝ることになる。
ごくり。
口中にわいた唾を呑みこんだ。
――これはよくない。非常によくない。
脳内で危険信号が鳴る。
抑えていた理性の鎖が緩むのを感じる。繋がれていた俺の中の野獣が遠吠えをあげている。
理想を具現化した女の子。俺のことが大好きな女の子。
どんな欲望であろうと受け止めてくれる女の子。
何をしても止める者のいない環境にふたりきり――
「──あ、あはっはははは!!」
突如笑い声を上げた俺を、ふたりとも驚いた目で見た。
「いやーなんだか急に運動したくなってきた!! ちょっと外を走って来るよ!! 疲れ切って泥のように眠れるまで!! あっははは!!」
誤魔化し笑いを上げながら、俺はとるものもとりあえず外へ出た。
部屋着に革靴というちぐはぐな格好だということに気が付いたのは、10分も走った頃だった。
「ハア……ハア……ハア……!!」
額に浮かんだ汗を拭いながら、公園のベンチに座りこむ。
ペース配分もくそもない全速力で走ったせいで、完全に息が上がっている。
「雛が戻るまであと何日だっけ? これはいよいよやばいぞ……? 頼む雛、早く戻ってきてくれー……」
俺のつぶやきは、空に浮かんだ真ん丸な月に吸い込まれるように消えた。
「うう、眠い……」
体は疲れているのに脳が覚醒してて、けっきょくまともに眠れずに朝を迎えた。
休憩時間に職員室で眠気に耐えていると、正担任の古屋先生が声をかけてきた。
「おい、新堂」
真理の一件で正面きって反抗して以来、古屋先生の俺に対する態度は露骨に冷たくなった。
無視されることもしばしばで、話しても二言三言で終わり。
副担任としては胃が痛い。
「は、はい!! なんでしょう!!」
眠そうにしているのを怒られないようにしゃちほこばって立ち上がると、古屋先生は短く告げた。
「おまえ部活の顧問やれ」
「へ? 顧問?」
「文芸部な。以上」
ものすごく短く命令すると、古屋先生はさっさと自分の席に戻って競馬新聞を読み出した。
「……文芸部の顧問。俺が……」
むかーし昔のことだ。俺はこの学校に通っていた。
勝はモテるからという理由で軽音部。雛は当然美術部。紅子は自ら創始した漫画研究部。俺が入っていたのが文芸部だった。
文芸部ってのは、もちろん小説を読んだり書いたりするところだ。諸先輩方が遺していった小説を読み漁り、作品を参考にし、自作を創り上げる。
文芸部の部誌として、学祭の時に1冊200円で販売する。
それだけのことを3年間やった。何も身にはつかなかったし、何者にもなれなかったけど、たぶん人生で一番楽しい3年間だった。
「まさかここの顧問を俺がやることになるとはねえ……」
感慨深く、俺は部室の扉を見た。
部室棟は、同じ敷地内にある彩南中学と高校の狭間にある木造2階建ての2棟の建物だ。運動系と文化系に分かれていて、文芸部はもちろん文化系。1階の1番端。
昭和中頃に建てられた建造物だけあって、さすがに風情がある。もとが堅牢な造りのせいか、いまだに現役で残っているのがすごい。
放課後。
帰宅部ではない生徒たちの声が、そこかしこから聞こえてくる。運動部のかけ声だったり、吹奏楽部の演奏だったり、何をやっているのかけたたましい笑い声や嬌声だったりした。賑やかで、どこか甘酸っぱい響きがした。
「――よしっ」
むんと気合を入れてドアノブを握る。
回して引くが、びくともしない。
「あれ?」
建てつけが悪いのだろうか?
何度引いてもびくともしない。
「鍵は……かかっていないな」
どちらかというと、内側から引っ張られているような……ん、内側?
耳を澄ますと、中から声が聞こえてきた。
「兄者~がんばれ~」
「弟よ……兄はもうダメかもしれん……いやほんと、やつの力が半端ない件」
「くじけちゃダメだぞ兄者。故人も言っていたではないか。諦めたらそこで試合終了ですよと」
「弟よ……別にその方は亡くなられておらんぞ。……それにやつはかの暴虐魔人、古屋教師だぞ。正直非力な我の力ではこれが限界……」
「何を言うのだ兄者。文芸部の未来は兄者の双肩にかかっているのだぞ? 兄者がここで一敗地にまみれれば、我らの自由はなくなる。部費で小説ではなく漫画買ったりゲーム買ったりできなくなる。むしろ今までの会計を遡って追及されて、使用途改ざんで莫大な賠償をさせられるぞ?」
「う、むうう……」
「わかっているのか兄者。莫大な額だぞ? 兄者の1年2年のお年玉ぐらいでは払いきれぬぞ?」
「弟よ……それはしかし、我だけの仕業では……。それにおまえだって払うべきでは……」
「『文芸部の責任』だ、兄者。しかも年長者としての責任でもある」
「ぬうう……世知辛い世の中だなあ……ところで弟よ。そろそろ代わってくれ……兄者はもう限界だ」
「ううう……持病の腱鞘炎が……!!」
「……弟よ、それただ格ゲーのやり過ぎで腕だるくなってるだけだろ?」
「ううううう~……!! 痛い!! 痛い~!!」
……そろそろかな。
タイミングを見計らって一気に引っ張った。
会話に気をとられていた兄がノブを握ったまま倒れ、部室の扉が開いた。
「――あ、兄者!!」
「弟よ!! 逃げろ!! すぐに会計簿を隠すのだ!! 脱兎のごとく走り去れ!!」
「しかし兄者、入り口を押さえられていては……!!」
「ぬううう……こ、ここは我に任せろ!! おまえは先に行け!!」
「あ、兄者!! その台詞は……!?」
「ふっふっふっ……男なら一度は憧れる、言ってみたい台詞ナンバーワンのやつだ。自分でも軽く感動するほどかっこいいから、もっかい言ってやろう。『ここは我に任せろ。おまえは先に行け!!』」
「あ、兄者!! かっこいい~!!」
「まあいいんだけどさ……」
がしぃっ、兄の頭を掴んだ。
小さくてひょろひょろした体型だったので、たやすく引き起こすことが出来た。
「――ひいいいっ!?」
「あ、兄者ぁ~!!」
学ランの襟元には2年の徽章がある。名札には真田幸一。
もう一名は真田幸二。
兄弟か……ん? いや――
「双子……か?」
ふたりは驚くほど似ていた。細っこい体に黒々としたマッシュルームカット。縁の太い黒縁メガネ。泣きぼくろの左右が違うくらいで、他にまったく見分けようがない。
「ふふん、驚いたか!! 我らはミラーツインの真田兄弟だ!!」
「兄者!! 頭を掴まれた状態でふんぞり返ってもかっこよくはないぞ!?」
「ぬおお!? たしかに!! おのれ、この手を離せ!! この……この……あれ?」
「古屋教師じゃ……ない……だと?」
新しく顧問に就任するのが古屋先生じゃないと知ると、双子は露骨に安堵した。
「いやー助かった!! 助かったぞ新堂教師!!」
「よかったね兄者!! この人なら弱そうだし扱いやすそうだね!!」
「弟よ。本音がダダ漏れだぞ。せめて掌の上で転がしやすそうとか、口車に乗せやすそうとか、ちょっとおだてりゃ天まで昇りそうとか、言い方を考えるのだ」
「まあいいんだけどさ……」
中央に位置する分厚い欅のテーブルにつき、双子と向かい合った。
こほんと咳払いし、しかつめらしい顔を作る。
「──で、使用途改ざんってのは?」
ぴしっ、双子が硬直した。
「使い込みってのは実社会でも罪が重いんだよな。損害賠償はさすがに高校生にゃ適用されないかもしれないが、内申書に響いたり、最悪停学や退学になったりするかもしれないな。あーあ、やっちまったな。大学進学はもう期待薄かもな」
「そ……!?」
兄のほうが声をあげた。
「そこまでひどい事に!?」
「そりゃあそうだろうさ。他人から委託されたお金を自分勝手な理由で使い込み、あげく記録を改ざんするんだから。学校側としても悪質な行為には対処せざるを得ない。叱り反省を促すのも教育だよ」
「兄者……だから我はあの時やめておけと言ったのに……」
「弟よ!?」
ブルータスおまえもか、という顔になる兄。
「文芸となんの関係もないフィギュアを買いこむのはさすがにまずいと言ったではないか」
「言ってないだろ!? 全っ然言ってないだろ!? おまえはむしろ買い込むように促した側ではないか!! 限定品を買い占めて転売しろとまで言ったではないか!!」
「嘘までつくのか兄者……堕ちるとこまで堕ちたのだな。……ふう、悪いことは言わない。これ以上罪を重ねる前に大人しく縛につくのだ」
「弟よ!?」
直情的で乗せられやすい兄と、冷静で保身に長けた弟、という力関係らしい。
「言わないよ」
表情を緩めて告げる。
「──ほ、ほんとか!? 新堂教師!!」
地獄に仏、という顔になる兄。
「男に二言はないよ。今までのことには目を瞑ろう。これからのことはきちんと見張るけど」
「おっ……」
「おおおー!! 良かった!! 良かったなあ兄者!! 我らの罪は晴れたぞ!! 大手を振って堂々と表を歩けるぞ!?」
「ええー……弟よ……それはさすがに調子が良すぎはしないか?」
たしかにな。思い切り売ってたもんな。
しかし面の皮の厚い弟は臆面もなく兄の肩を掴み、言ってのけた。
「何を言っているのだ!! この世でふたりきりの兄弟ではないか!! 生きる時も死ぬ時も一緒のふたりだろう!! 罪を被るも一緒!! 無罪放免の喜びも一緒だ!!」
安っぽい芝居にしかし、「うぐ……」と感極まる兄。ちょろい。実にちょろい。
「弟よ……そうだな、そうだ。我が悪かった!! 許せ!!」
「兄者!!」
「弟よ!!」
がしいっ、抱き合う双子。
「はあー……」
ため息をつきながら部室を見回すと、なかなかカオスな状況になっていた。
中央にでかいテーブル。両サイドの壁には天井まである本棚が据え付けられており、ぎっしりと本が詰まっている。
入り口から見て正面の壁には横に長いローテーブルがあり、液晶テレビやデスクトップパソコンの上に組み立て式のスチールラックが据え置かれ、フィギュアやゲーム機、ゲームソフトやアニメのDVDなどが所狭しと並べられている。
どこまでが部費で買った品なのか、想像するだけで頭が痛い。
本棚に詰まっている本の内容も、昔は小説ばかりだったのが、ラノベや漫画に押されて居所をなくし、床に山と積まれた段ボールの中にみっちり詰め込まれている。
中には歴代の部誌もあったりして、なんというか、隔世の感に堪えない。
「しっかしここも変わったなあ……」
俺のつぶやきを、弟が拾う。
「新堂教師も文芸部の出身なので?」
「うん。6年も前の話になるかな。俺24だから」
兄が勢い込む。
「じゃあ同じ穴の貉だな!!」
「いや、俺の時はきちんと小説ばかり買ってたよ?」
「うぐうう……こ、この聖人君子め!! ワシントンより立派なやつめ!!」
「……それは罵られてるのかな。それとも褒められてるのかな」
何ともいえず頬をかいて――ふと気になって時計を見た。
「そういやもう17時になるけど、他の部員は?」
双子の顔が一気に暗くなる。
「うう……痛いところを……」
「まさかここにいるのが全部ってわけじゃないだろう?」
部としての構成要件は部員を3人揃えること。ふたりでは要件を満たさない。もうじき予定されている部活の予算会議までに集められなければ廃部だ。
双子は痛そうに顔を歪めた。
「そ、それが……ほとんどそのようなものでして……」
「部長がいるんですが……その……彼女はほとんど部室に来ないので……」
「3年で、受験勉強がどうたら抜かしおって……」
「それは正当な理由だぞ兄者。だけどあの人の場合は単純に……」
顔を見合わせる双子。
「――この部が嫌いなだけよ」
入り口に誰か立っていた。
「まだいたの? 真田兄弟。その様子だと新部員は集まらなかったみたいね。ま、当然だけど。前に言ってたとおり、今月であたしは部を辞めるから、これでめでたく廃部が決定ってわけ」
3年生の徽章をつけた女の子だ。名札には世羅舞子とある。
茶色を通り越してほとんど白に近い髪をツインテールに結っている。
色白で細身だが、重心が安定しているので立ち姿はしっかりしている。武道経験者なのかもしれない。
つり目で勝ち気そうな、だけど極めて愛らしい顔立ちをしている。10人いれば8、9人までは振り返るレベル。
「キミが……部長?」
世羅はじろりと俺を見た。
自ら光を発するような、強い目だ。
まるで責められているような気になって、俺は一瞬たじろいだ。
「そうよ。世羅舞子」
名を告げると、世羅は小さな女の子みたいにニコッと屈託なく笑った。
たたんと軽い足取りで、飛びつくように抱き付いてきた。
「……わわっ!?」
慌てて受け止めた。
鍛えられ、引き締まった体つきだ。胸も小ぶりで、全体的に柔らかさよりも生硬さを感じるせいか、「女子高生に抱きつかれた⁉」という動揺はさほどでもなかった。
だけど次の言葉が、俺の中の時を止めた。
「ひさしぶりね、シン兄ぃ。待ってたわ。6年間ずっと、あんたたちを破滅させる日を──」
甘い毒を流し込むように、世羅舞子は俺の耳元でそう囁いたのだ。




