「俺のヒロイン」
~~~新堂新~~~
ボクシング、空手、柔道、相撲、レスリング、サンボ、テコンドー、シラット、カポエラ、中国拳法……古今東西、世界中に争いごとの種はあり、その分だけ格闘技というものは存在する。
トワコさんは日本の古流武術を習得していた。
日本古流──武器術、水泳術、手裏剣術、当て身、逆技、投げ技など、戦場で戦うことに特化した総合武術だ。
無類の身体能力を誇るトワコさんは、それを呼吸するように自然に扱う。
その強さはグリーンベレーの一個小隊を手玉にとるほどであり、伝説の剣豪、格闘家をも凌駕する──そんな風に設定した。実際の喧嘩は怖いから嫌いだけど、格闘技や戦争映画の好きだった当時の俺は、そりゃあもうウッキウキで設定した。
当然、チンピラなんて相手にもならない。
油断しきっているトラの懐へ、トワコさんはいきなり踏み込んだ。
「……うおうっ⁉」
電光石火だ。
踏み込んだ足で、そのままトラの足の甲を踏み砕いた。
「あ……ぐうっ⁉」
トワコさんは前のめりになったトラの顎へ、体ごとぶつけるような掌底をぶち上げた。
「──!」
トラの顔が跳ね上がった。
ぶちぶちと首の筋肉をねじ切らんばかりの、物凄い一撃だった。
普通なら後ろへぶっ飛ぶところだろうが、足を踏まれているのでそれすらもかなわない。
逃げ場のない衝撃が頸部にかかり、トラは一瞬で気絶した。トワコさんが足をどかすと、仰向けに地面に倒れ動かなくなった。
「トラ……くっ……てめえ!」
相棒のやられ方を見て、タツは血相を変えた。
両足を肩幅に開き、半身に構えた。前足を少し内へ絞り、両拳を顎の前で構えた。
キック……じゃないな。あのスタンスの取り方は、ボクシング経験者だ。
「今の動き……ただ者じゃねえな?」
タツの三白眼が、鋭く引き絞られた。
左右へ軽くステップを踏み、慎重にトワコさんの動きを窺っている。
「そうね。さしずめ愛の戦士ってところかしら」
トワコさんはにこやかに宣言すると、両手をすとんと下ろし、半身に構えた。
力の抜けた、自然体の構えだ。
「抜かせ!」
タツが2発3発とリードジャブを打ち込んでいくが、トワコさんはすべて躱した。
といって、大きく飛び退いたりのけぞったりするのではない。幅にして3センチもない程度の、極短距離での見切りだ。最低限の足捌きと身のこなしだけで、ことごとく攻撃を躱している。
古武術でいうところの一寸の見切りだ。トワコさんの動きには、一切の無駄が無い。
「こいつ……⁉」
予想以上のトワコさんの実力に驚いたタツは、腕を引くと同時に足元の石を蹴り上げた。
さすがに場慣れしている。石はまっすぐにトワコさんの顔面に飛んだ。
成人男性のつま先程度の大きさの、断面が尖った石。
スピードはさほどでもないが、顔面に当たれば必ずどこかが切れるだろう──だがトワコさんは避けなかった。
むしろそうなることを予期していたかのように、タツの蹴り足に合わせて飛び込んだ。
「モーションが大きすぎるのよ! バレバレじゃない!」
「ぬおう⁉」
いきなり懐に飛び込まれ、タツは慌ててフックを振り回したが、体勢が崩れているので無駄な足掻きにしかならなかった。
振り回した腕をトワコさんに掴まれ、逆にピンチを招いた。
「てめえ離しやがれ……!」
腕力で引き剥がそうと暴れたが、それは果たせなかった。
トワコさんが一瞬腕を持ち上げるような動作をし、捻りながら手前に引き落とすと、タツの体はぐるんと大きく宙を舞った。
ゴッと鈍い音がした。後頭部から地面に落とした。
タツは一瞬驚愕の表情を浮かべた後、ぐったりと力を失い、失神した。
普通に考えれば勝負あり。完全決着。
だが終わらなかった。
──トワコさんは容赦を知らない。
設定が彼女を駆り立てる。バトルマシーンと化した彼女は、満足いくまで攻撃の手を緩めない。
目を閉じたタツの顔面へ容赦なく足を踏み下ろしかけたところへ、俺は慌てて止めに入った。
「ちょちょちょちょちょ……トワコさん! もうダメだよ! それ以上は死んじゃうよ! 終わり! おしまい! 試合終了! ノーサイド! 相手はもう失神してるから!」
「あらそう……まあ、新が言うなら……」
トワコさんはちらちら、心残りでもありそうな顔でタツを見下ろす。
「でもこいつら……新を脅したのよ?」
「そりゃそうだけど……」
「わたしの新を脅した。心を傷つけた。万死に値するわ。水責め牛裂き、車裂きにしたってまだ足らないわ」
ぷうと頬を膨らませる。
「そこまでしなくてもいいよ⁉ ほんと、こんなのぜんぜん大したことじゃないし! 何をとられたわけでもないし! メンタルヘルスも完璧! ご覧の通り!」
「……そーう?」
トワコさんは俺の顔をまじまじと見、「……本当かしら?」と疑わしげにぺたぺた触ってきた。
天使のような彼女に至近距離で見つめられ、神の造形物のような手指で触れられ、なんとなく居心地の悪さを感じていると、ふと気づいた。
「トワコさん……目が?」
トワコさんの目が赤かった。瞳孔が鮮紅色の光を発している。
「ああこれ? 攻撃色。じきに治まるわ」
なにそれオーム的な発光現象?
「頬の……傷が……?」
掠めた石でトワコさんは頬を切り、出血していた。
その傷口から白い煙が上がっている。凄まじい勢いで薄膜が張り、肉が盛り上がり、傷口を修復していく。
「傷が……治っ……た?」
一瞬後には、そこには何もなかった。元々の綺麗なままの、真っ白い肌に戻っていた。
「わたしたちは、創造主の想いの強さによって創られたの。戦う力も、戦いで負った傷を治す力も、創造主に与えられた。創造主が想ってくれるかぎり、愛してくれるかぎり、わたしたちは負けない」
トワコさんは事もなげに言う。
「創造主……? 想いによって創られた……? ──ちょ、ちょっと待って。いま、『わたしたち』って言った?」
するとトワコさんは、スカートのポケットから一枚のIDカードを取り出してみせた。
所属:世界IF管理機構日本支部
氏名:三条永遠子
CN:トワコさん
NO:00303052056
「え。なにこれ……なにこれ……?」
トワコさんの説明によると、IFってのは想像上の友達の頭文字をとったものらしい。
実は世の中にはトワコさんみたいに具現化したIFがたくさんいて、世界政府という謎の組織の下にIFを管理する機関があって、その日本支部にトワコさんは登録されている。
CNはキャラクター名。
NOは当然ナンバーで……普通に読むならばつまり、この世には3億以上のIFがいるということになるのだが……。
「さすがに数、盛り過ぎじゃないすかね……。だって3億だよ? ざっくり全人口の20何分の1はキミみたいな……その、IFを持ってる計算だよ? そんなの、ご近所中がIFだらけになっちゃうじゃないか。石を投げれば当たるレベルよ?」
「有史以来の数よ。いなくなってるのもたくさんいるわ」
トワコさんは事もなげに答える。
「有史以来から……だって……?」
途方もない話に、俺は呆然と立ち尽くす。
「古来から──」
古の昔に思いを馳せるように、トワコさんは半眼になった。
「暗闇に海底、洞窟に森の深奥。アンティークショップの棚の奥。開かずの扉のその向こう。机の引き出し、押し入れの中、日常生活のほんのちょっとした隙間にさえ、人は色んなキャラクターを見い出してきたわ。善き者も悪しき者もいた。有名な妖精や妖怪みたいな、パブリックな存在に昇華した者もいた。中でも特に多かったのが、自分だけのヒーローであり、ヒロインだった。万能無敵の守護者。果て無き飢えを満たしてくれる愛の娘。彼ら・彼女らに傍にいて欲しいという強い願いが結集したのがわたしたちなの。だから数が多いのは当たり前。想像力たくましい人の数だけいるんだもの」
トワコさんは肩を竦めた。
「自分だけの……。俺の………………ヒロイン?」
俺の戸惑う様子がおかしかったのか、トワコさんはくすりと笑った。
頭をくっつけるように、俺の胸に身を寄せてきた。
なんとも言えぬいい香りが、長い髪から漂った。
「そうよ。わたしは新のヒロイン。身も心も新だけのもの。新のためだけに存在する女の子。その名は、トワコさん──」