「真理とマリー」
~~~新堂新~~~
――あああああぁっ!
真理が突っ伏すのと同時に、マリーさんの涙腺が決壊した。
「うわあああああっ!」
泣き声じゃなかった。それはただの悲鳴だった。
「マリーさん……」
俺がしゃがみ込むと、マリーさんはたまりかねたように抱き付いて来た。
本来なら、俺なんかに抱き付きたくないかもしれない。だけど彼女には、他に寄る辺がなかった。
真理にすがりつきたくても、それを許されていない。弱い自分を支えるすべを持たない。
衝動を抑えるすべを持たない。
見えない聞こえない触れない。
残酷な仕打ちだ。
こんなにも近い距離に愛する人がいるのに、たった一度の過ちだけで、彼女らの関係は断絶される。
「ああああああっ!」
吠えるようにマリーさんは泣く。泣きながら俺の背中に爪を立てる。首筋に噛みついてくる。内から迸る衝動を、そうしなくては抑えられないのだ。
「――!」
背中に痛みが走り噛まれた首筋から血が滲むが、なんとか堪えた。
俺は全力で、ふたりの想いを受け止めなければならない。痛みも苦しみも、全部一緒に。
たぶん教師ってのは、そういうもんだから。
「……っ」
トワコさんの視線を感じた。辛そうに眉間に皺を寄せている。
彼女もまた同じ危機感を抱いているのだろうか。自分が俺に捨てられるとでも思って。
――そんなことするもんかよ。
答える代わりに、証明する代わりに、俺はマリーさんを強く抱きしめた。
トワコさんをこんなに可哀想な目に遭わせはしないって、誓うように──
「……マリーさん?」
誰かがマリーさんに呼びかけた。トワコさんじゃなかった。小鳥でもなかった。でも誰かが呼びかけた。
床に座り込んだ真理がこちらを見ていた。俺と共にいるマリーさんを見ていた。
「マリーさん……そこにいるの?」
焦点は微妙にズレていた。
だけど懸命に見ようとしていた。そこにあることを信じ、捉えようとしていた。
体を離すと、マリーさんは体重を預ける場を失ってよろめいた。一瞬心細そうな顔で俺を見て――それから真理を見た。
「な……なんでじゃ……?」
たぶん見えているわけじゃない。
ただそこにいればいいなというかすかな願いだけで、真理はマリーさんを見ようとしている。
「マリーさん……ごめんね……」
盲目の人のように焦点の合わない目で、真理は四つん這いになって近づいてくる。
マリーさんのいる場所を示すと、真理は素直にうなずき、ちょうどマリーさんの目の前で座った。
「わたしが悪かったの、ごめん。マリーさんはわたしのためを思って言ってくれたのに、まったく聞き耳もたなかった。あの時は悔しくて、惨めで……頭の中が真っ白になってたの。ごめん。ごめんなさい」
「……真理」
「今さら許してもらおうなんて虫が良すぎるよね? でもごめんなさい。これだけは言いたかったの」
「……真理」
「ね、わたしには見えないんだって。マリーさんの声も聞こえないし、すぐそばにいても触れないんだって。そんなのってないよね。……ねえ、マリーさん。わたし……悔しいよ。自分がいやでたまらないよっ。せっかくあんな奇跡が起こったのにっ。マリーさんが現実のものとして存在してくれてたのに……なん……で、自分から手放しちゃったんだろう……!」
「……真理ぃ」
マリーさんの手が伸び、真理の涙を拭おうとする。けれど触れられずにすり抜ける。
「……新ぁ」
間欠泉のように涙をあふれさせ、ぐじゃぐじゃの顔でマリーさんは俺を見る。
「真理に伝えてくれ。気持ちを代弁してくれ。わらわ……には、もうっ、伝え……られないから……!」
答える代わりに、俺はマリーさんの隣に座った。震えるマリーさんの肩を抱いた。
「……新堂先生?」
真理が顔を上げて俺を見る。
「マリーさんの代わりに伝える」
「……!」
真理は息を呑み、姿勢を正した。
「『ひさしぶりじゃの。真理。相変わらず泣き虫なやつめ』」
「……!」
「『おまえは昔からそうじゃった。ちょっと嫌なことがあるたびに泣いてわめいてわらわにすがって』」
「……」
「『そこが心配だったんじゃ。このままずっとわらわがそばにいられればいいが、もしいなくなった時にこいつはひとりでやっていけるんだろうかと。じゃから突き放した。ひとりでも立っていられるように』」
「……」
「『タイミングが悪かったのじゃろうな。めぐり合わせが悪かったのじゃろうよ。よりによっておまえにそんな辛いことがあった時に突き放してしまった』」
「……っ」
「『わらわが悪かったのじゃ。おまえの気持ちを考えなかった。おまえを見ていなかった』」
「ちが……」
「『なんでもかんでも突き放せばいいというもんじゃない。それがわかった。おまえのことを思うからこそ、ゆっくりとゆっくりと、計りながらするべきじゃった。今となっては手遅れじゃが』」
「ちがう……」
「『その結果がこの有り様じゃ。まったくもって自業自得じゃな。みずから招いたことじゃ』」
――ちがう!
真理が声を荒げた。
マリーさんはびっくりして息を詰めた。
「そんな……そんなのちがう! マリーさんは悪くない! わたしが悪かったの! 弱いのも、マリーさんに八つ当たりしたのも全部わたし!」
「『じゃけどわらわは……』」
「――マリーさん! やめて! これ以上自分を責めないで!」
握り締めた真理の指先が白くなる。
「わたし……マリーさんが好きよ! 大好き! 昔からそうだったし! 今もそう! だからこれ以上、自分を貶めないで! わたしが好きなマリーさんを、貶めないで!」
マリーさんが真理に身を寄せる。
ふたりはすでに体の一部を接触させている。だけど触れないからすり抜ける。
「『真理……わらわも……おまえのことが好きじゃ……! 捨てられたって、忘れられたって、その気持ちは変わるもんじゃない。おまえのおかげでわらわはここにいるのじゃもの! こうして存在していられるんじゃもの……!』」
「だったら……!」
「『おまえだって……!』」
「もう――泣かないで!」「もう――泣くな!」
ふたり同時に声を上げた。
あとはもう、理屈じゃなかった。互いに互いのことを愛する言葉を重ね、過去の出来事を懺悔した。それはどこまでもどこまでも続いた。
真理の母親が心配して覗きにくるまで、誰にも止めることはできなかった。
トワコさんはその光景をじっと見てた。俺はずっと、ふたりの仲立ちを続けていた。
それからしばらくしてのことだった。
「……ねえ、なにあれ?」
「げ、マジで? コスプレ?」
「ありえなくね? うちがどんだけリベラルな校風だっても」
「あ、見て見て。なに、署名?」
「新堂先生が署名を求めてるんだって」
「新堂? ああー、あの新任ののっぽ?」
「なんやかやイケメンのやつね」
「つか、なんの署名よ」
「えっと……なになに? 月一の私服登校日の実現に向けて?」
「ええー! 面白そうじゃん!」
「やーだよあたし! 私服センスないし!」
「でも制服より断然気楽じゃね?」
「あーしは中学のジャージでいいわー」
「おいおまえもっと頑張れよ! 女子力女子力!」
「新堂やるじゃん! 発想が若いね!」
「脇のふたりはなに? 生徒?」
「あれってゴスロリでしょ? けっこー無茶すんね」
「学祭みてーだなー」
校門前にいた俺とトワコさんは、衆目の目に晒されていた。
「な……なんとなく受け入れられてる気がする!」
真理と同じくゴスロリ衣装に身を包んだトワコさんが、じと目で俺を見上げる。
「新ってけっこうポジティブよね……」
「トワコさんこそ、よくその格好承知してくれたね?」
「ぐ……」
トワコさんはうめき、恥じらうようにスカートの裾を引っ張った。
ふだんクールなキャラで通している彼女がこんないかにもなコスプレをするのは、さぞや葛藤があったことだろう。
「そりゃまあ……あんなの見せられたらね……」
ふたりして、そっちに目をやる。
書類挟みに挟んだ署名用紙を片手に声を張り上げる真理。そしてマリーさん。
ふたりとも同じ格好をしてた。
ゴスロリ衣装を着て、金髪縦巻きロールのカツラをかぶって、肘に日傘を下げてた。
昔みたいに校則全ツッパで私服登校することも考えたらしい。
だけどそれは真理の母親を傷つけることになる。
たぶん真理と同じように傷ついていた人を、再び傷付けることになる。
だから真理は、高校生になった真理は――違う手段を選択した。
「生徒の自由な発想と成長を支えるための活動にご協力くださーい」
「くださーい」
「卒業後に振り返った時に、心の底から楽しかったと思える高校生活をおくりましょー」
「ましょー」
……これは折衷案なのだ。遠回りでも、みんなが幸せになるための。
「――おいおいおい! 新堂! てめえ!」
うるさがたの教頭にでもせっつかれたのか、古屋先生が怒り顔で飛んできた。
「なぁに考えてんだ⁉ 真理を連れ帰ったはいいが、なんでまたそんな恰好させてんだ⁉ いくらなんでも学校だぞ⁉」
いまにも拳を振り上げそうな勢いだが、さすがに登校時間の正門前でそれはしない。
「古屋先生ですよ? いい経験になるからって俺に一任してくれたのは」
「だからっておまえ! ものには限度があるだろうが! やめさせろ! こんなの……なに考えてんだ! どこのメイド喫茶の呼び込みだよ!」
「彩南高校校則12条7項――」
俺は遮るように生徒手帳を取り出した。
「制服に関する特別条項。やむを得ない次第で制服を着用できなくなった場合においては、私服を着用しての登校を認めるものとする」
「な――はあっ⁉」
古屋先生は生徒手帳をひったくって文面を確認するが、俺はまったく嘘をついてない。
「やむを得ない次第ではない」というだけだ。
「このふたりは偶然同時に制服を破いてしまいまして、そのままでは登校することが出来なかったんです。これはふたりのプライベートにおけるごく一般的な私服でして、校則に照らせ合わせてみても、まったく問題ありません」
「ぐ……てめ……っ!」
「ちなみに代わりの制服が届くまでにしばらくかかりますので、それまでの間はこの格好で登校いたします」
「その署名活動は……っ」
「申請はしてあります。内容についても公序良俗に反するものではありませんし、彩南生徒としてもなんら恥ずるところはありません。生徒手帳……お読みになります?」
「ぐ……ぐぐぐっ!」
古屋先生は顔を真っ赤にして生徒手帳を叩きつけ、足早に去って行った。
「ちょっと新……ほんとに大丈夫? 上司に嫌われちゃったみたいだけど」
生徒手帳の土を払ってる俺に、トワコさんが心配そうに聞いてくる。
「心配ないさ」
俺はちょっと無理して笑顔を作った。正直に言えば胃が痛いけど。
「だってほら……見てごらんよ」
真理とマリーさんのほうを見る。肩を並べて署名運動をするふたり。
「あの光景を見れるだけで、俺は幸せな気持ちになれるんだ。どんなマイナスだって受け入れる勇気がわいてくるんだ。ぺーぺーのくせに生意気だって言われるかもしれないけどさ。こういうのが教師の喜びなのかなって思えたりするんだ」
「……ん…………………………うん」
トワコさんは俺の顔をまじまじと見て――急に顔を赤くするとそっぽを向いた。
「まあ……新がいいっていうなら……」
ぶつぶつと何事かを繰り返しているが、よく聞こえない。
代わりに聞こえてきたのは小鳥の声だ。イーゼルとカンバスを抱えて走って来る。
「遅れてごめんっすー! 朝までかかったっすよー!」
彼女には、私服登校が叶った場合のイメージ図を頼んでた。
みんなの気持ちを前向きにするための。
実際にどんな絵を描いてきたのかはわからない。
でもわかる気がする。
彼女が見たかったもの。彼女らが見たかったもの。
それはたぶん、同じものだから――




