「小鳥ドローイング」
~~~新堂新~~~
猪狩家の応接間にいた。小鳥は2階にある真理の部屋に上がり、俺は母親とふたりきりになっていた。
真理の母親は、なんとも生命力の弱そうな人だった。年齢的には俺と10歳も違わないだろうに、頭をぺこぺこ下げる姿が悲しいほどに板についている。
姿形は真理に似ている。あの気弱な少女が今のまま成長したらたぶんこうなるだろうなと思えるような人だった。
「どうかおかまいなく」
何度断っても、お茶やお菓子を切れ目なく出してくる。
対面に座っては落ち着かなげにきょろきょろし、こちらの様子をうかがってくる。
「あの……あの、ウチの子がまた何かしでかしたんでしょうか?」
また、か……。
「いえとくには。……これはちょっと早めの家庭訪問みたいなもんです」
「で、でも……あの子変な時間に帰ってきて……声をかけても怒鳴り返してくるだけだし……。もうわたし、わけがわからなくて……」
「今日はテストの準備で半日しか授業がなかったんです。小鳥は……さっき2階に上がっていったメガネの女の子は真理さんのお友達で、ついでに遊びに来たんです」
「はあ……」
苦しまぎれの俺の説明を信じたわけでもあるまいが、小鳥の存在は少なからず彼女の心を軽くしたらしい。ほうと軽いため息をついている。
「あの子にも……友達なんているんですねえ……」
天井を見上げながらしみじみとつぶやく。
「真理さんは、あまりお宅に友達を連れてきたりは?」
「……わたしの記憶が正しければ、たぶん一度も。あ、でも――」
母親は思い出したように目を見開いた。
「一時期、あの子が部屋で楽しそうにお喋りしてた時期があったんです。携帯電話の類は持たせてませんし、友達でも来てるのって聞いてみたら、その……前世の自分とお喋りしてるんだなんて変なことを言い出して……。一時期は本気で病院へ連れて行こうと思ったことがあったんですけど……。ウチの人がご近所さんの目を気にして……。だったら高校へ上がる時期まで待って遠くの学校へやろうって。そうしたら思い悩む暇もないだろうって……」
母親は俺のほうを上目遣いに窺う。
「で、でもですね……悪い子じゃないんですよ? ほんとです。親のひいき目かもしれないですけど、あの子、ほんとにいい顔で笑うんです。……あの時期も、毎日が楽しそうで生き生きしてて……そりゃあ多少おかしな格好はしてましたけどね。でもあるじゃないですか? 思春期にそういうことするのって。わたしにはなかったですけど、それって時代ですから。いまの若い子たちなら、ね?」
お茶のお代わりを淹れに母親が席を立ったのを見計らい、俺はちらりと目を横へ向けた。
「……いやじゃ」
応接間の隅っこで、マリーさんは膝小僧を抱えている。
「まだなにも言ってませんよ」
「決まっとる。あいつに会えというのじゃろう?」
「……」
「会えないと言ったじゃろうが。見えない聞こえない触れない。あいつにとって、いまやわしは透明人間なんじゃ……」
ぶつぶつぶつぶつ、マリーさんはつぶやく。
「だいたいあいつが悪いんじゃ。あんなこと言うから。わらわを悪しざまに罵るから。い……なくなれ……なんて……っ」
マリーさんは衝動をこらえるように唇を噛んだ。
「マリーさん……」
「――帰る」
「え」
「こんなとこにいたくないもの。帰る」
「いやいやいや、せっかくここまで来たのに」
本気で立ち去ろうとするマリーさんの手を掴んで引き止めた。
「……離せ」
「離しません。せめてひと目たけでも─」
「は・な・せ!」
「――おわあっ⁉」
いきなり眼前に日傘の先端を突き付けられ、俺は驚き尻もちをついた。
「離せ。通せ。邪魔するなら容赦はせんぞ」
マリーさんは冷たい目で俺を見下ろした。反撃がないのを知ると、ふんとバカにするように肩をそびやかした。
「……待ちなさいよ」
応接間の入り口から、トワコさんが顔を見せた。
「なんじゃ、貴様も来おったかの」
「ずいぶんとご挨拶ね。人のご主人様に武器を突き付けるだなんて」
「なんじゃ、先だっての続きでもやるか?」
剣のように構えた日傘の切っ先をトワコさんに向ける。
「あなたが負けるフラグじゃない、それ」
トワコさんは頓着せず、俺とマリーさんの間に割って入る。
「そんなに大事なもんなら、肌身離さず身につけておけばいい」
マリーさんの煽りに、トワコさんも煽りで返す。
「偉そうに言う割には、肝心な時に逃げるのね」
「……あ?」
マリーさんの体から、紛れもない殺気が放たれる。
日傘の柄のあたりから軋むような音が聞こえる。
「だってそうでしょ? 長い間離れ離れになっていたご主人様とひさしぶりの再会だっていうのに、みっともなく武器まで振り回して逃げ回って。情けないったらありゃしない。小さな子供がぐずってるみたい。あ、そのものズバリだったわね。なら問題ないのかしら」
「再会にはならんと言うとるじゃろうが! 貴様だってわかっておるじゃろう! メンターは……」
「見えない聞こえない触れない」
トワコさんは詠じるように口ずさんだ。
「そんなこと知ってるわよ。耳たこだわ」
「じゃったら……!」
「それでも新がいろって言うんだもの。わたしはそれを信じるだけ」
「いったいなんの根拠があって……!」
トワコさんは落ち着いた眼差しでマリーさんの目を見返している。
根拠はたぶん――俺なのだ。
俺がマリーさんにいてくれと願ったから、トワコさんはそれを信じてくれている。この場にとどめようとしてくれている。ひとかけらの疑いもなく。
信頼。絆。愛情――もしくは、IFと人とを繋ぐ強制力……。
「――ね、新?」
首を傾げにっこりと、天使みたいにトワコさんはほほ笑む。
「うん……」
俺はうなずきを返す。任せろ……とまでは言えないけれど、精いっぱい力強く胸を叩いた。
なんとしてでも、彼女の信頼に応えなければならない。
~~~~~上屋敷小鳥~~~~~
「なんで……どうしてここに……わたしの部屋に勝手に……!」
委員長はアタシの手を振り払うと、部屋の隅まで後退した。
「わたしを騙したくせに……!」
「……騙してなんてないっすよ」
アタシは静かに告げる。
「――マリー・テントワール・ド・リジャン。略してマリーさん」
「……な、なんでそんな名前を……! そこまで見たの⁉」
「ノートを仔細に見たのかって? 何度でも言いますが、そんなこたーしてねーっすよ」
アタシは頭の後ろで手を組む。
「ちらっとだって見ちゃいねーっす。まったくの予備知識なし。真っ白まっさら」
「だったらなんで知ってるっていうの……⁉」
委員長はノートを抱きしめ身を硬くする。
「前に言ったと思うんすけど、アタシにゃ漫画の師匠がいるんすよ。黒野流星っていう。その師匠が描いてたんす。金髪ゴスロリ幼女。マリーさん」
「偶然だっていうの……⁉ あんなに……あんなに似てるのに……!」
「……そうっすかー。似てたっすかー。そいつぁー良かった」
ばりばりと頭をかく。全然嬉しくない。
似てる、綺麗、上手――そんなのは描き手にとって褒め言葉でもなんでもない。
どっこいしょ。アタシは床に腰を降ろすと、トートバッグの中から大判のスケッチブックと3B鉛筆を取り出してガラスのローテーブルの上に並べた。
「なにする気……?」
警戒する委員長に対して、アタシは不敵に笑いかけた。
「偶然じゃないんすよ。それを証明したげるんす。今のマリーさんの姿を描くことで」
「今のもなにも──」
反論を無視して、スケッチブックに絵を描き始めた。
――マリーさんの絵。入魂の一作。
鏡先輩が描いてたのを思い出す。詳細に丁寧に。決して装飾で誤魔化すことはしない。
「どうしてそんな細かいところまで……」
特徴を掘り下げて。全体のバランスを常に意識の底に置いて。
「……マリーさんはこんな顔しない。こんな目でわたしのことを見ない……」
委員長は否定するが、声の震えは隠せない。
紙の奥から、マリーさんが見てる。委員長のことをじっと見てる。真剣に、魂までも見透かすように。
「こんな……⁉ 嘘……嘘よ……!」
委員長が壁を背にずり落ちた。
わなわなと打ち震えてる。
いつの間にか、副担とトワコさんが部屋に入って来てた。
ふたりのそばには不自然な空白がある。ミステリーサークルみたいに。まるで誰かそこにいるかのように。ふたりは空間を空けて立ち尽くしてる。
「……」
アタシは床を見た。カーペットの一部が沈んでる。子供の足の形に。しっかりと重みを伴って。
「……副担」
「なんだい小鳥」
「マリーさんはいま、なにやってんすか?」
「俺の足にしがみついてる」
「どんな表情してるっす?」
「……顔を赤くして涙ぐんでる。いじけたような感じかな」
「ちょ……なに言って……先生まで!」
憧れの副担までが部屋に来たことで、アタシの悪ふざけに同調したことで、委員長の動揺はいまや最高潮に達してる。
アタシは新たな絵を描き始めた。
今そこにいるマリーさんの姿を、副担の言った通りに描く。
――顔を赤くしてるのはなぜだ? 涙ぐんでるのはなぜだ? いじけてるのはなぜなんだ?
アタシは自分に問いかける。
――恥ずかしいからだ。再び巡り会えて嬉しいのに、捨てられた憤りがあるから素直になれないでいるのだ。
あげく存在を認識されなくて――それはしかたのないことなんだけど――やっぱり納得がいなかくていじけてる。
だから委員長のことを見れないでいる。
今にも逃げ出しそうなたたずまいでそこにいる。
絵が輝き始めた。キャラが匂いを発し始めた。
アタシの絵が瞬間――生命を宿したように感じられた。
「――嘘……嘘だ……!」
委員長は必死にかぶりを振る。
「やめてよ! なんの嫌がらせなのよ! そこにいるみたいに描かないでよ! マリーさんはもういないんだから! いるわけないんだから! わたしが……わたしが捨てちゃったんだから……! どれだけ望んだって、もう戻ってきてくれないんだから! もう……もう……いじめないでよぉっ!」
ぼろぼろと流れ落ちる涙を拭うため、委員長はノートから手を離した。
手からこぼれたノートは床に落ち、慣性でぱらぱらとページがめくれて――最後にそのページに行きついた。
マリーさんの絵だった。
在りし日の光景だった。
マリーさんのコスプレをした委員長と、日差しの中を仲良く日傘を差しながら歩いてる。
小さな手が委員長のスカートのすそを掴んでる。無邪気に笑い合ってる。
絶対の信頼と愛情。
ふたりの関係の、余すことなくすべてを捉えた1枚だった。
「……あらら。こいつぁ負けっすね……」
お手上げだ。そいつは負けだ。
その絵にはかなわない。
「わたしが……わたしがバカだったの……! あんなことで怒ってケンカして……! もっと考えればよかった! どうしてマリーさんがあんなこと言ったのか……!」
委員長の懺悔は止まらない。
副担とトワコさんは、何もないはずの空間を見下ろしてる。
……マリーさんは今、どんな表情をしてるんだろうか。
「でもダメなの! いくら描いても戻って来てくれないの! 同じことをしてるのに! 条件を整えたつもりなのに! あの頃みたいには戻れないの! ……教えてよ! もうどうしたらいいかわかんないのよ! わたしは……わたしはっ、バカだから!」
――あああああぁっ!
委員長はとうとう、床に突っ伏して泣き始めた。
副担はしゃがみこみ、誰かを抱きしめるようなしぐさをした。
……見えない聞こえない触れない。だっけ。
……そりゃきっついわ。
「……ねえ委員長」
返事はない。アタシは構わず続けた。
「IFとメンター。知ってるっすよね?」
「――⁉」
委員長が弾けるように顔を上げた。
「なんでそれを……?」
「説明受けたっすよね? マリーさんのメンターに。同じことっす。今はマリーさんがメンターなんす。……いるんすよ、マリーさんは。もう見ることも聞くことも触ることも出来ないかもしんないけど、たしかにそこにいるんすよ」
「いる……マリーさんが……?」
委員長は呆然とつぶやく。
「そうっす。ほら、口に出してみるっす。マリーさんを呼んでみるっす。あの頃みたいに――」




