「マリーさんはもういない」
~~~上屋敷小鳥~~~
「……古屋先生は来ないんすか?」
「あの人はこういうの苦手そうだろ? 『四の五の言わずに出て来い!』で終わらせそう」
「そりゃそうすけど……でも正担任じゃないすか」
「俺に任せるって。何事も経験だってさ」
「……それって体よく利用されてるだけっすよ」
アタシのつっこみに、副担は頭をかいて「やっぱそう……?」と情けなく笑った。
……ほんと、こんな人のどこがいいんだろう?
副担とふたり電車に揺られながら、アタシは疑問でならなかった。
顔はまあまあ悪くない。メガネも似合ってる。
背も高いし職も安定してるし、総合的に見て悪くはないんだろうけど、でもそれだけだ。
元気がない。覇気がない。頼りにならない。男っぽさが欠如してる。
教え子たちにからかわれても困ったように笑ってるだけだし、なんというかもう存在として弱い。弱・中・強の弱だ。
「悪いなあ小鳥。わざわざ放課後について来てもらって」
「ホントっすよ。アタシにだって用事があるのに」
ぷい、とそっぽを向いた。
「ごめんごめん」
副担は手を合わせて拝んでくる。
アタシは取り合わず、唇を尖らせながら車窓の風景に目をやった。
大人げないって?
だって、アタシは悪くないじゃん。
ただ単に絵を描いてただけ。
委員長が勝手にキレただけ。
残りの授業をすべてまるっとサボタージュして、どこかへ行ってしまっただけ。
アタシは全然悪くない。
なのになんでわざわざ放課後にお宅訪問までしなきゃならんのか。
「……つか遠くねーっすか? まだつかないんすか?」
山間を抜け、のどかな田園地帯を抜け、また山間に差し掛かった。
この先しばらく駅なんてない。いったいどこまで行くのか。
「んー……乗り合わせこみで、あと一時間くらいかな?」
「はああっ⁉」
アタシは声を荒げた。
「通学に片道1時間半とかあり得なくねーっすか⁉ もっと近くにいくらでも高校あるんじゃないすか⁉」
「最寄りの駅は市の中心部なんだってさ」
「だったらなおさらじゃないっすか! 偏差値だって環境だって、もっともっといくらでも高いとこあるでしょ⁉ なんでわざわざうちの高校に⁉」
副担は何もかもわかってるというような顔をした。
鏡先輩のイラスト同様、枯れたようなたたずまいで大人しく座ってた。
「真理が望んだことだ」
「だからなんで……!」
「――遠くの学校へ通いたい理由」
声のトーンが変わった。怒るでもなく荒ぶるでもなく、静かに諭すような口調。
「――片道一時間半かかろうとも近くの高校へ通いたくない理由。俺にはそれは、明白なことだと思えるね」
「――いじめ……すか?」
激していた気分が急速に冷え、思わず姿勢を正してしまう。
副担は肯定も否定もしなかった。
「真理に関して……実は最近、彼女の前の学校の担任に言い含められたことがあるんだ」
「……」
「学外の喫茶店へ呼び出された。大人しそうな女性教師だったよ。……彼女、泣いてた。自分の力が及ばないせいで真理を辛い目に遭わせた。それを悔いてるんだって」
「……」
「個性的な子だったそうだよ。ちょうど今の小鳥みたいに、ひとつのことに集中したら他のことなんか何も見えなくなるような」
「……」
「彼女もまた、絵を描いてた。絵だけじゃなく、文章も書いてた。それは漫画じゃない。小説でもなかった。現実からの逃避――」
「逃避……?」
「とあるキャラに自分を重ねてた。そういう風になりたいと思ってた。共に語らいながら、
同化する作業を続けてた。ずっとずっと、昔から……」
「とあるキャラって……」
「マリー・テントワール・ド・リジャン――マリーさんっていうんだ」
~~~~~猪狩真理~~~~~
東北の片田舎に産まれた。わたしの住んでいるところは県庁所在地だからそれでも比較
的マシなほうではあったけれど、やっぱり田舎には違いなかった。
どれだけ大手のデパートや商業施設が入り込んできたところで、上っ面は誤魔化せても自分自身は誤魔化せない。ただの書き割り。
どうしようもない田舎で、どうしようもなく年老いていく自分。
それがたまらなく嫌だった。
日々顔を突き合わせる個性のない両親。きっとつまらない出会い方をし、つまらない理由で結婚をしたのだろうと想像させるような、面白味のない会話をしていた。
そんなふうになるのが嫌だったから、わたしはペンを握った。
具体的に何か目標があったわけじゃない。
やりたいことがあったわけじゃない。
ただその場にいたくなかった。
この時代に産まれたくなかった。
だから前世のことを考えた。
意識を飛ばすように、遠くの空のことを想像した。
明治でも大正でもなく、出来ることならもっともっと昔……そうだ。フランス革命の頃なんてどうだろう。
文化爛熟したフランスの、もっとも美しい時代。
そこでわたしは生きていた。
猪狩なんてだっさい苗字じゃなく、もちろんフランス人として。
お姫様なんてどうだろう。リジャン侯のひとり娘。ビスクドールみたいに小さくて可愛い女の子。
たくさんの召使いにかしづかれ、手のひと振り顎のひとしゃくりですべて用を足せるのだ。人間に落ちた太陽のような女の子。人呼んで太陽姫。
おお、いいじゃないかいいじゃないか。
わたしは興奮した。
前世創りに没頭した。
それはノート何冊分にもなった。
絵を上手く描くために絵画教室へ通わせてもらった。デッサンの基礎から勉強した。
ひたすら描くうちに、自分で衣装を作ってみようと思い立った。
もちろんすべて手作り。手先が器用なことをあの時ほど感謝したことはない。
コスプレという意識はなかった。
その頃にはわたしはすでにマリーさんになりきっていた。
前世の記憶を保ったまま転生したのだと言い聞かせていた。
学校へもマリーさんの恰好で通った。
小学校なので制服はなく、衣装を着ていくことができた。
みんなの目は白く、あからさまにバカにする人もいたけれど、わたしは気にならなかった。
両親はやんわりと釘を刺してきたけど、すべてはねつけた。
だってそれが、本来のわたしの姿なのだから。
ある春の日の夕暮れ。わたしはベッドの上で布団もかけずに寝ていた。
学校から帰ってすぐに始めた縫製作業が遅々として進まず、イライラしてベッドにダイブしたまま、いつの間にか眠ってしまったのだ。
「あ、もうこんな時間……」
目をこすりながら上体を起こした。
窓が開いていた。カーテンが風に揺れていた。
――誰かがそこにいた。
白い肌が夕陽で赤く染まっていた。綺麗な金髪が風になびいていた。
ビスクドールのように美しく可愛らしく、小さな女の子だった。年の頃なら10歳くらい。
「……お、ようやく起きたか」
少女は笑いながら振り返った。
「まったくこんな時間から寝ておるとは、わらわの来世のくせに、自制が足らんぞ」
青い瞳がきらきらと輝いていた。ふっくらした頬に、隠しきれない喜色があった。
「まぁだ寝ぼけておるのか? しょうがないのう。どれ、ひとつ気付けの一発をくれてやろう」
歳に似合わない尊大な口調で、少女は告げた。
「わらわの名はマリー。マリー・テントワール・ド・リジャン、じゃ」
――その日から、世界が変わった。
大げさでなくわたしの人生観を変えた。
マリーさんがわたしの部屋に住み着いた。
食卓を家族と囲むわけにもいかないから、自分用のを部屋に持ち帰ってふたりで食べた。
どこかの青ダヌキみたいに押し入れに寝かせるわけにはいかないから、ベッドで一緒に横になった。
マリーさんは勉強が嫌いだったから学校へは通わず、ずっと家で待っててくれた。
マリーさんがいる生活。家に帰れば笑って迎えてくれる暮らし。
ふつふつと喜びが沸きあがってきた。
願えばかなうのだ。信じれば通じるのだ。わたしは本当に、マリーさんの生まれ変わりだったのだ。
IFだとかメンターだとかしち面倒くさいことを騒ぎ立てる人がいたけど、無視していたらいつの間にか姿を見なくなった。
小学校を卒業し中学校に入ると、事情が変わった。
制服を着なければいけないという。以前みたいにマリーさんの衣装では通えないという。
でもわたしは言うことを聞かなかった。
だいたい日本の教育がおかしいのだ。
十把一からげにお仕着せの制服を着せ、狭い校舎に詰め込んで、画一的な子供を育ててる。
そのくせ夢だ個性だなんて、ちゃんちゃらおかしい。
わたしは小学校の時と変わらず、マリーさんの衣装を着て通った。
怒られても注意されてもバカにされても、なんだそんなのと鼻で笑っていた。フランス革命の折に受けたいわれない暴力に比べれば、全然大したことない。
家に帰ればマリーさんが待っている。楽しくおしゃべりが出来る。
それだけで幸せだった。すべてを許すことができた。
――中学校と小学校の違いは、でもそれだけじゃなかった。
嫌がらせのレベルが格段にアップした。
体格が良くなり、頭が良くなり、それでいて人間としての質はさほど変わらない。
悪い意味での成長をした人たちが徒党を組み、わたしをいじめた。
下駄箱から靴がなくなり、すれ違いざまにドレスの裾を踏まれて突き飛ばされ、昼食時に誤ったふりをして牛乳をかけられた。
誰も注意する人はいなかった。存在感のない新任女教師のせいで、わたしのクラスは学級崩壊していたのだ。
一番堪えたのはノートを奪われたことだ。クラスで一番体格のいい男子がわたしの鞄を漁り、マリーさんの描かれたノートを見つけて騒ぎ立てた。
返してくれと頼んだが返してくれなかった。頭上で男子同士のパスが始まり、それをみんなが笑って見てた。
パス回しは校庭にまで及び、最終的には焼却炉にシュートされた。
灰になったノートを胸に抱き、とぼとぼと家に帰った。
マリーさんに会いたい。マリーさんと話しがしたい。
その気持ちだけがわたしを支えていた。
温かい言葉、優しい笑顔。それだけが頼みの綱だった。
でないと、くじけてしまう――
だけど家に帰ったわたしを待ち受けていたのは、情け容赦のない叱咤だった。
窓枠に座ったマリーさんは、「なんじゃ、いじめられておめおめと帰って来おって、情けない。わらわの転生体ならその男子と決闘するぐらいの気概がなぜ持てん」と不満そうに腕組みした。
――最初で最後のケンカだった。
今考えてみれば、あれはマリーさんなりの発破のかけ方だったのだろうと思える。弱いわたしを励まし強くするために、あえて突き放した。
でもその時はわからなかった。
驚いて、悲しくて、悔しくて、憤って――わたしは衝動のままにマリーさんを罵った。負の感情を叩きつけた。
――助けてくれないなら……わたしのこと嫌いならもういらない!
――そのためだけに存在してるくせに……!
――あんたなんかもう……いなくなってよ!
……その時のマリーさんの顔を、わたしは今でも思い出せる。
痛みで泣き出しそうな顔をしてた。
あんな悲しい顔を、わたしは見たことがない。
そしてそれ以来、わたしはマリーさんの姿を見ていない。
いつの間にかベッドで寝ていた。
ぴよちゃんにからかわれて頭の中が真っ白になって学校から帰って──そのままふて寝していた。
傍らにはノートがあった。
あの後――マリーさんがいなくなってしばらくしてから再開したものだ。失ったものを取り戻そうと頑張ったものだ。
ノートの表面を撫でた。なんの変哲もない大学ノート。通しナンバーは60。
「……」
ページを開けばマリーさんがそこにいる。つい何年か前までは一緒に寝起きしていた存在がそこにいる。
……そこにいた。
マリーさんはもういない。
もう二度と戻って来ない。
全部すべて失われた。わたしがバカだったから──。
「……っ」
もうやめよう。
捨ててしまおう。
緩やかに決意を固め、上体を起こした。
春の夕陽が窓から差し込んできていた。カーテンが風に揺れていた。
――誰かがそこにいた。
どきりと心臓が跳ねた。
窓枠に腰掛けているのはしかし、マリーさんじゃなかった。
男の子みたいなベリーショートで、お年寄りみたないべっこう縁のメガネをかけてた。
産毛が夕陽で赤く染まってた。
彼女は生命としての自信に満ち溢れた目で、わたしを見ていた。
「ぴよ……ちゃん?」
声をかけると、ぴよちゃんは顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「よーやく起きたっすか。まったくどこの眠り姫かと思ったっすよ」
窓枠からひょいと身軽に飛び降り、まっすぐわたしに手を差し伸べてきた。
「なんで、ここに……? なにしに……?」
夢かと思いながら、わたしも手を伸ばす。
ぎゅっと握りしめられた。力強く暖かい手だった。
「そんなの決まってるでしょう! 漫画を描きに来たんすよ!」




