「マリーさんは認めない」
~~~トワコさん~~~
マリーさんが居着いてから少したった。
文字通り瞬く間に、彼女はこっちの生活に慣れ親しんだ。
IFのメンターとしての役割というのは本来ならもっと殺伐で緊張を強いるもののはずなのだが、とてもそのような重責を担っているとは思えない姿だった。
フリルのたくさんついた日傘をくるくる回しながら鼻歌交じりに散歩する姿は平和そのもので、牧歌的な幼女の情景そのもので――当初身構えていたわたしとしては、なんというか気が抜けた。
「……にしてもあなた。どこまでついて来る気よ」
「そりゃーお役目じゃからの。どこまでもついて行くぞ」
「お役目……に本当になっているのかしら。ずいぶんとお気楽で極楽で、とてもそんな風には見えないんだけど。ほとんど散歩してるみたい。そもそもわたしの前を歩いていていいの?」
「刑事ドラマっぽく尾行しろと? 牛乳とあんぱん持参せよと? なんならそこにトレンチコートもつけるか? たぬき蕎麦と稲荷ずしも入り用か?」
「……いつの時代の刑事ドラマよ。別にそこまでしろとは言わないけど、ちょっと堂々としすぎなんじゃないかって話」
「本来の目付けというのはそういう役職じゃよ。そりゃー中にはスパイみたいな役どころの者もおったじゃろうがの。本来はもっとオープンで、対象がおかしなことをしでかさないか、しっかりじっくり見張る役割のことなのじゃ。――どうじゃ、勉強になったか?」
日傘を肩に担ぎ、にやにやにやにや、小馬鹿にするような表情になるマリーさん。
「……し、知ってるわよそれくらい」
「ほーんふーんはーん」
「やなヤツ……」
「まあわたしについて来るぶんにはいいか……」
ぼそりとつぶやいた独り言に、マリーさんは目をキラキラさせて食いついて来た。
「お、お、お? なんじゃなんじゃ? やきもちか? 嫉妬しとるのか?」
「なによ急に。わたしは別になにも……」
「いやいやいや。言ったじゃろ『わたしについて来るぶんにはいいか』って。聞いたぞ。しかとこの耳で」
「だ、だったらなによ。別にそれだけのことでしょ? 独り言でしょ?」
「――じゃあ、『誰について行くぶんには悪い』んじゃ?」
「……っ!」
見透かされた。わたしは瞬時に赤くなった。耳まで染まった。
「っかー! よいのうよいうの! 初々しいのう! なんじゃなんじゃ、新にくっつかれるのがそんなに嫌か! とられそうで気になるか⁉ よいのう、若いのう!」
マリーさんはものすごい楽しそうな顔で、べたべたとまとわりついてくる。
「べ、べつにそんなこと……」
しょうがないじゃない……、ぼそぼそとわたしはつぶやく。
どうしようもなく、わたしは嫉妬深い。
クールなふりをしているが、平静を装っているが、実際には胸の内は大火事だ。
問題は、新にわたしの想いが届いていないことなのだ。
新がしっかり受け止めてくれてさえいれば、ここまで身を焦がすことはなかった。
わからないわけじゃない。
新はおそらく、わたしに気を遣っているのだ。自ら創り出した者を自ら愛することに、引っ掛かりと罪悪感を覚えている。
父親が実の娘に手を出さないように、わたしに手を出さない。指一本触れようとしない。
スキンシップを求めれば多少は反応があるが、一線を超えることはついにない。
それがわたしの一番の望みなのに……。
あなたがわたしをそうしたのに……。
疼痛を感じて胸を押さえると、マリーさんが下から覗き込むようにしてきた。
「自分の生活スペースに紛れ込んできた闖入者に居場所をとられようとしてる。そう思って怯えてるんじゃろ? 一緒に寝起きして、食卓を共にして、学校までも一緒に通って、多くのものを共有してる。新の気持ちがわらわに向くんじゃないかと不安になってる。自分の望みが叶ってもいないうちに」
「……っ!」
「よいよい。わかっておる。何と言ってもわらわは経験者じゃ。その道の先達じゃ。そなたの気持ちは手に取るようによくわかる。掌の内じゃ。――不安なのじゃよなあ? 新の気持ちが他に向くことが。わらわや、雛や、そのほか数多の教え子どもとの交流にも不安があることじゃろう」
マリーさんはうんうんとひとりでうなずく。
「う……うるさいわねっ。べつにそんなんじゃないわよ!」
置いて行こうと早足で歩くが、マリーさんは容易くついてくる。体重がないかのように地面を蹴り、壁を蹴り、塀の上を走っては忍者のようにサササとついて来る。
「だいたいなんだっていうのよ。あなた、なんでいきなり馴染んでるのよ。新とも雛ともいきなり打ち解けちゃって……わたしだって、最初はけっこう手間取ったのに……!」
「……ふうん、ずいぶん率直になったの」
マリーさんはすとんと身軽に着地すると、「ひひ」といやらしい笑いを浮かべた。
「まあよかろう。若者はそれぐらい素直なほうがよろしい」
「若者若者って……あんただってせいぜい十歳とかそれぐらいでしょ? 小学校中学年が関の山って外見のくせに、なにを年上ぶってるのよ」
「じゃから言うておるじゃろ。わらわはフランス革命の折に……」
「設定でしょ?」
「バカか。IFにとっては設定がすべてじゃ。設定が強ければ強く、弱ければ弱い。それだけのこと。そなたがしょせんはいち女子高生にすぎぬのに引き換え、わらわはお姫様じゃ。永き時を生きるプリンセスじゃ。偉いんじゃぞ? 高貴なんじゃぞ? ほれ、敬えJK」
「むむむ……」
「お? なんじゃその拳は? やるのか? 戦争か? 千軍万馬を引きつれた、血で血を洗う大戦争をおっぱじめるつもりか? わらわは構わんぞ? とはいえしょせんそなたのような弱そうなメスガキひとり――ぬおっ⁉」
ブゥンッ!
サッカーボールキックの要領で思い切り蹴り上げると、マリーさんはすんでのところで躱した。
完全に不意打ちだったのに仕留め損ねた。
油断していたマリーさんの髪の毛が何本か散っただけだった。
「な、な、な、なにをするんじゃ貴様!」
一瞬の跳躍で塀の上に跳び移ったマリーさんは、猫科の肉食獣のように髪の毛を逆立てた。
「――ごめんなさい。足が滑ったの」
「な――」
マリーさんは大口を開けた後、「……ははーん」と、得心したかのようにうなずいた。
日傘を目の前で垂直に立て、眼光を鋭くする。
「そうかそうか、奇遇じゃのう。わらわも今日はなんだか手足の滑る日だと思っておったところじゃ。なんじゃろうのう。気候かのう――」
「おおっと、足と手が……」
マリーさんは着地すると、地面を這うように低空で走った。
日傘を薙いで両足を刈りに来た――と思ったら、いきなり軌道を変えて、わたしの顔面に突き込んできた。
「――滑ったあっ!」
予想外の鋭い攻撃だった。外見が外見なだけに油断してた。
頭を倒してぎりぎりのところで突きを避けた。
頬にちくりと痛みが走った。傷がついたかもしれない。新の創ってくれた体に傷が……!
「よくもやってくれたわね……っ」
わたしの憤りをよそに、マリーさんの攻撃は続く。
突き込んだ日傘を水平に振ってきた。
テイクバックは一切ない。斜め後方へ引き切るように戻した。
わたしは身を沈めてこれを躱すと、崩れた姿勢ながら、マリーさんの手元を狙って足を跳ね上げた――だがその時には、マリーさんはそこにいなかった。素早いステップバックで間合いの外に出て、すでに身構えている。
中段の構えだ。左足を後ろに引き、右足を前にして重心を低く構えている。
日傘の根本は右足の少し先、左手は腰の後ろに当てている。切っ先を擬すのはわたしの首元。
「……」
いまさらながら、わたしは気づいた。
見た目は日傘だけれど、刃のついた鋭い武器を想定しているのだ。設定の年代を考えれば、おそらくはレイピア状の軽い武器。
切れ味はさっきの通りだ。突けば刺さるし、薙げば斬れる。
――やりづらいわね……。
わたしは内心で唸った。鎧は当然、武器だって持っていないわたしにとって、レイピアはものすごくやりづらい相手だ。
取り回しの良さもあるが、武術として見ても間合いの取り方が洗練されているし、防御が固い。
スピードが速く、連続攻撃があるので捌きづらい。
――隙をついて捌く。ついでに武器を飛ばす。まずはそこから。
とくに構えはしなかった。両脚を前後に軽く開き、両腕はすとんと自然に垂らした。
「ほっほっ、どうした。顔色が悪いぞ? びびっておるのか?」
煽り終えるのと同時に、マリーさんの姿は消えた。
と思った瞬間、足元に鋭い刺突が飛んできた。
しかしこれは読んでいた。
わたしはマリーさんの踏み込みに合わせて後方へ退いていた。
「猪口才な!」
マリーさんは小刻みにステップを踏み、追撃を加えてきた。2撃、3撃。どれも足元への突きだ。
お子様体型の悲しさ。胴を狙うにはリーチが足りない。
追撃の息が続かなくなるタイミングを見極め、突きを躱すと同時に斜め前方へ――マリーさんの内懐へ踏み込んだ。
「――ちっ!」
日傘を引く暇は与えない。
踏み込みと同時に、わたしはすでに足を飛ばしていた。マリーさんの手元へ蹴りを放った。
実際のレイピアのように護拳のない日傘では、この攻撃は防げない。
手を潰されないため、マリーさんは日傘を手離した。
わたしは構わず、思い切り日傘を蹴飛ばした。遠く、手の届かないところまでそれは飛んだ。
勝った、と思っていた。
レイピアを持たないレイピア使いになにができるか、そう侮っていた。
しゅるり――マリーさんの手が油断していたわたしの軸足に絡みつく。
「――っ⁉」
「……蹴り足を戻すのが遅れたのう」
マリーさんはにやりと笑い、わたしはぞっとした。
そうだ。比較的武術の継承の薄い西洋剣術の中でも、レイピアは別格だ。
何百年もの歴史があり、伝統がある。
派手な決闘用武器としてのイメージが強いが、実際には実戦の中で育まれ洗練された武器なのだ。鍔迫り合いの状態からの派生技だって数限りなくある。
中には無手の状態からの技もある――。
いけない――!
足を引く暇はすでにない。片足立ちになったわたしの軸足ごと押し倒すように、マリーさんは片足タックルの要領で地面を蹴った。
「――つっ!」
バランスを崩され、わたしはみっともなく後ろに倒れた。
素早く体の上で蠢くマリーさんを左の掌底で打とうとするが、あっさりと躱された。
逆に腕を掴まれ、ねじるように逆技を仕掛けられた。
逆技、つまり関節技だ。
左の腕にマリーさんが絡みつき、本来なら曲がってはいけない方向へ腕を曲げられた。
テコの原理で肩関節が締め上げられる。息がつまり、血が止まった。
「ああ……ぐぅっ!」
声が出た。
マリーさんはニタニタと笑っている。
「くっくっく……最近の格闘術は洗練されているのう。これはV1アームロックといったか。相手の苦しむ顔を腹で圧迫しながら腕を締め上げるとは、なんともサディスティックな技じゃて」
柔道でいうところの横四方固め(仰向けになった相手の側面から押さえつける固め技)から技に入るのがV1アームロックの基本だ。
有名な技で、返し技も無数にある。日本古流が基礎となっているわたしには、もちろんいくつもの手がある。
繰り返すが、V1アームロックは横四方固めから入る技だ。小さなマリーさんの体はわたしの上に乗っている。臀部は、わたしの右腕の届く位置にある。
「へえ、そりゃたいしたもんね」
今度はこっちが笑う番だ。
わたしは中指を立てた手を、マリーさんのスカートをかき分けるように潜りこませ、ぶすりとひと思いに穴を突いた――
「な――ふぁ⁉」
あまりのことに目を見開いたマリーさんが、わたしの腕を解放し、慌てて自分の尻を押さえた。
わたしはマリーさんの腰と足を掴み、同時に床を蹴ってブリッジの要領で腰を持ち上げた。
体重の軽いマリーさんを勢いでひっくり返し、逆にマウントをとった。
瞬く間の形勢逆転。
仰向けに寝た幼女の上に馬乗りになる女子高生という図式はどうかと思うが、相手が相手だ。しかたない。
「――油断したわね。いいえ、現代に毒されすぎたわね。そんな眠たい技でわたしを倒せると思うなんて……」
西洋剣術の伝統をさかのぼるなら、たぶん押し倒された時点で殺し技をくらっていた。古流武術もそうだが、合戦の中で磨かれるというのはそういうことだ。
「き、貴様……わらわの……を! 乙女の純潔を……⁉」
マリーさんは涙ぐんでいる。体捌きも口先も大したものだが、しょせん幼女には違いない。
「しかたないでしょ? 戦争なんだから。……それに、まだ終わったわけじゃないのよ? この程度で済ますつもりはないんだから」
「な……なんじゃと……? バカな……嘘じゃろ? こ、これはただのレクリエーションじゃぞ? 幼女の無邪気なスキンシップじゃ。まさか本気で殺そうなどと……」
「ただの? 無邪気? ふうん……まあいいわ。そういうことなら大丈夫。これからわたしが行うのも、無邪気なスキンシップの一種だから。ただのレクリエーションだから。ただしわたしが一方的に楽しむための、ね」
「ちょ……おいまさか、その手は……⁉」
わたしは無慈悲に両手をわきわきさせると、それをそのままマリーさんの両脇に突っ込んだ。
「そ~れ、こちょこちょこちょこちょこちょこちょ~♪」
「あ……わひゃっ、や、やめろおおおおおぉっ!」
身も世もない表情でわめき苦しむマリーさんを、どこまでも容赦なく追い込む。
「ひ……ひぃっ⁉ お、お願いじゃからやめてくれぇ……もう……堪忍してくれぇ……!」
両脚をじたばたさせ、涙を流して笑い苦しむマリーさん。
「――だーめ、勘弁してあげない♪ どっちが上かはっきりさせたら解放してあげる」
「へ、へえぅ⁉」
「言いなさい。わたしのほうが上だって。あなたはわたしの下僕だって、人畜だって。ねえ、わかった? わからないなら、笑い死にするまで止めないわよ? ねえ、腸ねん転の痛みってどんなものなのかしら? わたしには想像もつかないけれど……」
「わ、わかった……わらわはそなたの奴隷じゃ! 卑しき下僕じゃ……なんなりと、好きにするがいい……!」
――勝った。言質をとった。この女はもうわたしのしもべだ……!
勝利の感慨に沸くわたしの耳に、乾いた声が届いた。
聞きなれた声だった。
「……トワコさん、なにやってんの?」
「――っ⁉」
びっくりした。
びっくりしたが、態度には出さなかった。
ゆっくりと平然と体を起こした。同時にマリーさんを解放した。
動き回って汚れた身体や、乱れた裾を直した。
髪の毛を軽く手で梳いて、冷や汗が見えないように拭って、改めて新を見た。
「どうしたの新。そんなに慌てて」
「――いやいやいや、そんなわけにいかないよね⁉ この状況でなんの言い訳も立たないよね⁉ 何事もなかったみたいに言ってるけどさ⁉」
マリーさんは座り込んだまま、けほけほとわざとらしくせき込みながら、目に涙を浮かべている。
「ううぅ……わらわは何もしてないのに、この女が無理やり攻撃してきて……わらわの……わらわの中に指を……!」
さながら可憐なお姫様のように、よよと泣き崩れる。
「中に……指を……?」
新の顔に戦慄が走る。
「ちょ……新! 勘違いしないでよ⁉ わたしはただこいつに物事の順序ってものをわからせるために……」
「だから中に……指を……?」
「違うんだってば! もう! 指にこだわらないで!」
今度涙ぐむのはわたしの番だった。
なんでもない理由で幼女の……中に指を突っ込む女だとは思われたくない。苛烈な攻撃を受けたから、あくまで反撃の一環で行ったことなのだ。
「トワコさん……」
新はわたしとマリーさんを見比べて、力なくかぶりを振った。
「……きみとはもうちょっと話し合う必要がありそうだ。今後のことについて」
「新ぁっ⁉」
わたしが悲鳴を上げると、新の後ろから雛がひょこりと顔を出した。
「ひ――⁉」
マリーさんの顔に動揺が走った。
「あっれー? トワコさん? どうしたの? え、なに、マリーさんもいるの?」
マリーさんがことのほかお気に入りの雛は、きょろきょろと周囲に視線を走らせている。
「あ、ああ……そこに……」
新が指さした方向に目を向けると、雛は改めて笑顔を浮かべた。
手に下げていた買い物袋を持ち上げた。
「マリーさん♪ わたし今日ね、マリーさんのために買い物して来たんだよ⁉ 前に言ったでしょ⁉ マリーさん用の食器を一通りそろえるって! ほらほら、ね。可愛い⁉ 可愛いよね⁉」
「あ……うう……あう……?」
有無を言わせぬ雛のテンションにたじたじのマリーさんは、さきほどまで火花を散らしていたのも忘れ、盾にするようにわたしの後ろに隠れた。
そんなことにも気づかずに、雛は誰もいない空間に食器のセットを見せつけている。
「兎さんでしょー? 熊さんでしょー? キリンさんにペンギンさん♪ ね? ね? 可愛いでしょー?」
兎柄の茶碗に熊柄の箸にキリン柄の皿にペンギン柄のフォーク。とにかくファンシーで、アニマルプリントで、子供騙しな食器群……。
だけどマリーさんはがっかりしていない。顔を真っ赤にして唇を噛んでいる。
……どうあれ彼女は嬉しいのだ。
前の主人に捨てられたIFには、関係のない他人に労わられる、愛されるという経験が絶対的に少ない。だって見えないし、聞こえないのだから。
だから、雛のようなまっすぐな愛情を向けられると戸惑ってしまう。嬉しすぎて、そしてたぶん、切なすぎて……。
「わらわは別に……そんなの頼んでないのじゃ……」
マリーさんはわたしの足にすがりついてしゃがみこんで、必死に感情を殺し続ける。
「……」
わたしはただ黙って、その光景を眺めていた。IFの終末を。たぶんわたしの行く先を……。




