「みんなで美味しくいただきました」
~~~新堂新~~~
ファミレスの片隅で起きた、ちょっとした騒動。
それから少しした頃だった。
その日は休みで、俺はゆっくり遅寝を決めていた。
にもかかわらず、朝6時にインターホンの連打で叩き起こされた。
むっとした顔を隠しもせずに扉を開けると、そこには雛が立っていた。
朝の粒子をきらきらまとって、天使のようにそこにいた。
「おはよう! 新くん!」
「や、やあ。おはよう雛。今日はなんだってまたこんな時間に……?」
「お休みの日だからこそ1日大事に使わなきゃだよ新くん!」
「お、うん……?」
朝からテンションマックスな良い子の雛ちゃんにたじたじの俺。
聞けば、隣の部屋に越してきたという。
職業絵描きのまま、アトリエは実家のを使い、生活空間としてだけ1DKの安アパートを借りることにしたらしい。
昨日どたばたと引っ越し業者が出入りしてるなとは思ってたけど、それがまさか雛だったとは……。
……ん? あれ。雛が隣に越して来たということは、その目的は……?
背筋を粟立てていると、雛はぱたぱたと走り回って、自分の部屋から大きな鍋を抱えて戻ってきた。
にっこにっこ。
親に褒めてもらいたがる子供のような顔を浮かべたまま、俺を見ている。
「雛。それは……?」
「この前言ったでしょ? 新くんのそばにいさせてって。わたしを関わらせてって。だからね、さっそく新くんとトワコさんのために手料理を作ってきたの! 新くん、わたしの料理好きだったでしょ⁉」
「ああ……ああぁあ……⁉」
電光のように脳裏を走り抜けた記憶に――忘れたい記憶たちの洪水に追いかけられるようにして、俺は慌ててスニーカーを履いた。
雛を押しのけ、部屋を出る。
「あれ、新くんどこ行くの? これから朝ごはんだよ?」
「や、やあ雛。悪いけど、俺はこれから学校があるから!」
「うん……うん? 今日はお休みだよね? 朝食もまだでしょ? 一緒に食べようと思ってもってきたんだけど。新くん大きいし、いくらでもおかわりしていいようにたくさん!」
「生徒を待たせてるんだ! トワコさんと一緒に食べてくれ!」
あくまで外へ出ようとする俺を、奥から走り出てきたトワコさんが慌てて引き止めた。
「ちょっとちょっと新! 聞いてたわよ⁉ ふざけないでよ! わたしを生贄にして自分だけ逃げる気⁉」
「ええい離せ! なんのことだ! 俺は学校に行かねばならんのだ! 可愛い生徒が俺を待ってるんだ!」
「休日の朝6時からがっつり待ってる生徒なんていないわよ! 現実逃避するんじゃないわよ!」
「部活だよ! 朝練朝練!」
「あなた部活担当してないじゃない!」
「ええい離せ! きみはこうなった雛の怖さを知らないから言うんだ!」
「本音が出たわね⁉ あなたのリアクション見てたらわかるわよ! メシマズキャラなんでしょ⁉ 暗黒物質とか創り出しちゃうやつでしょ⁉」
俺の手を両手でつかみ全体重をかけるトワコさんの顔には、必死の色がある。
「だいたいあなたおかしいのよ! この前隣の部屋を借りる話してから1週間もたってないわよ⁉ まずその行動力が怖いわ! いいとこのお嬢様なんでしょ⁉ 両親にはなんて言って来たのよ!」
「えっと……将来の夫と娘のためにひとり暮らししますって……」
「それで納得する両親も怖いし、納得させられる環境も怖いわ! その『きゃっ、言っちゃった……はあと』みたいな顔を今すぐやめなさい! 自由すぎるのよ! リベラルってレベルじゃないわよ⁉」
「えっと……放任主義?」
「言い方の問題じゃないわ! 構造的におかしいって言ってるのよ! だいたい何を作って持って来たのよ!」
「ポトフだけど……」
「ポぉトぉフぅ~⁉」
ぞわぞわと寒気に耐えるようなしぐさをするトワコさん。
「あなたねぇ、言っておくけど、野菜煮込んだらポトフになるわけじゃないのよ⁉ きちんと出汁をとって、煮崩れないように根菜類の面取りして、ブーケガルニで香り付けしたり色々気を遣って手間をかけて、そこまでやって初めて、わたしはポトフを作りましたってサムズアップする権利があるのよ⁉ あなたにそれが出来てるっていうの⁉」
「うーん……?」
雛はしばらく考えこむようにしていたが、色々手間をかけてというフレーズにぴこんと反応して、ぱっと顔を明るくした。
「うん、それなら大丈夫。色々やったよ!」
幼い少女がそうするように、にっこにっこと邪気のない笑顔を浮かべる。
「色々……?」
「うん、色々っ!」
「色々やってしまったの間違いじゃなく……?」
微妙にずれたふたりのやりとりを眺めながら、俺はトラウマの扉が開く音を聞いた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
そんなオノマトペをつけたくなるような禍々(まがまが)しさで、雛作の鍋は我が家の卓上に置かれた。
見た目は普通の鍋だった。把手がふたつあって、空気抜きの穴がひとつある。蓋は耐熱ガラス。ただそれだけの普通の鍋だった。
「ポトフか……? ホントにポトフなんだよな……?」
ひとりごちる俺の傍らで、トワコさんは爪を噛みながらぶつぶつつぶやいている。
「なにこれ……ほんとにポトフ? 変な匂いがするんだけど……。甘ぁ~いシロップかなにかをベースにした鍋に、腐ったバナナとブルーベリーを大量にぶち込んだような……。色もひどい……。なにこれ、白みがかった紫色……? いったいなにを入れたらこうなるの……?」
「えー? 普通の材料だよ?」
可愛らしく小首をかしげる雛。
「普通の材料でこんな魔女のスープみたいなもんが出来るわけないでしょ⁉ バカも休み休み言いなさい!」
「えっと……愛情?」
えへ、と照れるしぐさがまた可愛い。
「新くんが風邪ひかないように、骨が丈夫になりますように、果物いっぱいとれますように、目がよくなりますようにって、いっぱいいっぱいお祈りしながら作ったんだぁ~」
「甘いシロップ……風邪をひかない……? あ……あなたまさか、本気でせき止めシロップ入れたわけじゃないでしょうね⁉ 違うから! それ用法を完っ全に間違ってるから! あれは予防するためのものじゃないから! 用法用量間違えたらやばいもののひとつだから! 牛乳とバナナとブルーベリーも入れたわね⁉ それもおかしいから! ひとつひとつはよくても、鍋の中でいっしょに煮たらダメなものだから!」
「――いや、トワコさん。俺はこのポトフ……的なものは美味しいと思う」
「ちょっと新……⁉」
裏切られたような顔でトワコさん。
「嘘でしょ⁉ 絶対嘘よね⁉ いまポトフ的なものって言ったじゃない! こんなダークマターをフランスの伝統的な家庭料理と認めたくないのよね⁉ ならなんでそんな嘘ついてまで……!」
「よかったぁ~。新くんならわかってくれると思ってたんだ~」
きゃっきゃと喜び、「ぱむっ」と胸の前で手を合わせる雛。
「わたしと新くんの味覚って、そっくり同じだもんね~」
「新……? 嘘よね……? 嘘だと言ってよ……っ」
――学生時代。楽しかったあの頃。
俺とつき合い始めた雛が最初にしてくれるようになったのが、弁当を作って来てくれることだった。
毎日毎日、一日も欠かさず……。
最初はうらやましがっていた周りの連中も、独創的な「愛情」の詰まったメニューの数々を見るうち、逆に励ましてくれるようになった。
肩を叩いて涙ながらにサムズアップされたり、「……体、壊すなよ? おまえにも両親がいるんだろう?」と家庭事情を心配されたりした。中には無言で胃薬をくれるやつもいた。
今となってはいい思い出だ。
……思い出のままにしておきたかった。
目の前には相変わらずオリジナリティー溢れる鍋がある。ご丁寧に取り皿とレンゲまで用意されている。
傍らには雛がいて、天使のような微笑を浮かべて俺を見ている。
そしてそして――俺は大変なことに気がついていた。
逃げられない。
男として、いまこの場から、トワコさんを置いて逃げるわけにはいかないのだ……!
拳に力を入れた。
肩をいからせ呪文のようにつぶやいた。
弱い自分に言い聞かせた。
「俺は雛の料理が好きだ……俺は雛の料理が好きだ……俺は雛の料理が好きだ……」
「ちょっと新⁉ 戻って来なさい!」
肩を激しく揺さぶられるが、俺の手は、もはや殺されたって止まらない。
ぷるぷるぷるぷると激しく震えながら、少しずつ、だが確実に口に近づいてくる。
白みがかった紫色の、極悪に甘く煮詰まったポトフ……ポトフってこんな色してたっけ
……?
「新! 新ぁー!」
極限の集中力が、すべての動きを緩慢に見せる。
トワコさんの叫び声がゆっくりと大気中に拡散していく。
水の中にいるようにぼんやりと聞こえる。
――ちゅ……ぷ……。
それは静かに侵入してきた。白いレンゲの上の危険物質が、唇を割るように入ってきた。
まだ味は感じない。
レンゲは舌と上口腔の間にあって、水平均等を保っている。
匂いだけを感じた。むわっと鼻から抜けるブーケガルニの香気と、それを台無しにするせき止めシロップの香り。
衝撃的なフレグランスに体が危険を察したのか、歯の根が合わないほどに震え出した。
がちがちがちがち、震えた歯がレンゲに当たる。フラットな体勢がひずみ歪み傾いて、やがて数滴――舌に落ちた。
「――⁉」
甘かった。不自然に甘かった。苦味成分をごまかすために過剰に投入されている糖分が果糖や牛乳と複雑に絡み合って咆哮を上げた。
「んもぁ――⁉」
ま、から始まる何かを言おうとしたのだ。たぶん。
だけどレンゲを咥えたままではきちんと発音できなかった。
舌を動かしたせいで、レンゲが大きく傾いだ。
内容物が縁を越え、口の中に放流された。
「がむん……⁉」
今度も言葉にはならなかった。
勢いで噛み締めてしまった大根には、その「成分」が大量に染みこんでいた。
ぶわり、吸収してはいけない何かが口内に広がる。飲み下してはいけない何かが食道を流れ落ちる。
喪失感とともに、俺は膝をついた。
吐き出しそうになって、慌てて口もとを押さえる。
吐き出せという体からの命令に、だが俺は抗わなければならない。
「新! 吐き出しなさい! 吐くのよ!」
トワコさんが背中を叩いてくれる。
戻ってこいと、俺の名を呼ぶ。
ああ……だけど……だけど……。
「おいしい? 新くんっ」
目をキラキラさせる雛に、ホントの事は言えない。
ごくん。無理やり呑み込んだ。
「逃げるんだ……トワコさん……」
最後の力を振り絞る。
「新……! あなたまさかわたしのために……?」
トワコさんが目を見開く。
――トワコさんは料理を残さない。
俺が決めた「設定」だ。
なんでも食べる元気な女性になってほしかったから。
他意はなかった。悪意もなかった。
だけどそれがいま、彼女の身に牙を立てようとしている。
同窓会の夜、呑み過ぎでへろへろになったあの時のように。
ひとりで完食すれば致死量にもなりかねない危険な鍋となって。
「トワコさん。きみだけは生き延びるんだ――」
その言葉を最後に、俺の意識はぶつりと途絶える。
「新ぁー!」
どこか遠く、トワコさんの悲鳴が聞こえたような気がした。
~~~~~トワコさん~~~~~
「新……新……!」
頬を叩いても、体を揺さぶっても、新は目を覚まそうとしない。
いや、こういう場合は下手に動かさないほうがいいのかしら?
かえって毒の周りが良くなってしまうのかしら?
「あれ? 新くん寝ちゃった? 朝早かったからかな~?」
雛はまったく悪びれない。
「この女……よくも新を……!」
激して手を振り上げたわたしは、しかし頬に手を当て本当に不思議そうな顔をしている雛を見て、初めてその可能性に気がついた。
いや……おそらくはこれが正解だろう。
ここまでやっておいて、この女――雛には、まったく悪気がないのだ。
すべての行動は善意から発生している。
目的は高潔で、手段が狂的で、その乖離に気づいてないだけなのだ。
いままで誰もそれを指摘できず呑み込んできたから、気づかないまま大人になったのだ。
ならまだ、なんとか修正できる……!
他ならぬわたしになら……!
「……雛! あなたねぇ!」
叱り飛ばしてやろうと拳を握り締めたわたしは、なぜかその手にレンゲを握っていることに気がついた。
「――⁉」
愕然と見下ろす。
いつの間に……⁉
まったく記憶になかった。
気づいたらそこにあった。
床を見渡すと、新の分のレンゲがなかった。
ということは、これは新のだ。落ちてたのを拾ったのだ。
こんな状況で、よく気のつくわたし……ってそうじゃない!
レンゲを持ったわたしの手は自動的に動き、まっすぐに鍋の中身に向かっていた。
「あ、トワコさんも食べてくれるのね、よかった」
きゃっきゃっ、素直に喜ぶ雛。
「違う、違うのよ……!」
「今日のはとくに力を入れたからね。自信作なんだぁ」
「力の入れどこ間違ってるのよ! 自信をもって人を殺せますって意味の自信作になってるじゃない!」
「あー、ひっどーい」
ぷうと頬を膨らませる雛。
だが、次の瞬間には笑顔になっていた。
「なーんて。ホントにトワコさんは冗談が好きね」
「く……あなたなに言って……⁉」
「だってぇ」
雛の指さした先には……。
「そんなにいっぱい、すくってくれてるじゃない」
「――⁉」
まただ。また意識しないうちに、手が勝手に動いていた。
レンゲにはすり切りいっぱいきっちりと、ポトフと名乗る何ものかがすくわれていた。
紫色のまだらを被ったニンジンが、おどろおどろしく浮き沈みを繰り返していた。
「違う……これは違うの……!」
「なにが違うの? ふふ、わたし知ってるよ? そういうの。のりつっこみっていうんでしょ? 『こんなの食べるわけないでしょ……ってもう食べてるやないかーい』って」
びしいっと平手ツッコミのしぐさもつけて、ご機嫌な雛。
「く……いい加減にしなさいよ……!」
どこまでも陽気な顔に腹がたつ。
腹がたつが、どうにもならない。わたしの手は止まらない。
――トワコさんは料理を残さない。
「設定」がわたしを縛る。
食べたくないのに止まらない。
微かに気泡を発する、禍々しい何か。
あれを鍋いっぱいに食べる……?
「いや……いやよ……」
背筋に寒気が走る。がちがちと体が震える。
涙の滲んだ目で、雛を見た。
「お願い……助けて……」
精一杯の懇願。
恥も外聞もない。わたしは雛に救いを求めていた。
「たすける……?」
雛はきょとんとした顔でその言葉を咀嚼したあと、おもむろに手を打った。
「そっか。震えて食べられないんだね。よぅし、ママが食べさせてあげちゃうぞー」
「へ……? え……? やだ、うそ、違う……っ」
必死にかぶりを振って否定するわたしの手からレンゲを取り上げると、雛は「ふーふー」
と息を吹きかけて冷ました。
甘い匂いが鼻先をかすめ、一瞬気が遠くなった。
「はい、あ~ん♪」
迫るレンゲ。
わたしは必死に口を閉じて抵抗するが、わたしの中の「設定」がそれを許さない。
意思とは逆にじわりじわりと唇はこじ開けられ、歯列が開いていく。
「ああ……あああ……あ……が……!」
歯科医に施術されている時のように、うめき声しか出せない。
助けて! 新!
心中で叫ぶと、奇跡が起こった。
ゆらぁり、ゆらぁり……。
雛の後ろに新が立っていた。
新! よかった、生きてた!
新の無事を喜んでいたわたしだが、ふとおかしなことに気がついた。
半眼に開かれた新の目が、笑っていた。
あんなものを食べて無事なわけがないのに、苦しんでいて然るべきなのに、新は笑っていた。
あえていうならば狂信者の目だった。自らの神を信じ疑わず、それを他者に教え広めることを善とする者の目。
――リン酸コデイン
――塩酸エフェドリン。
唐突に、その単語が脳裏をよぎった。
市販のせき止めシロップに含まれる成分。
麻薬成分を含み、集めて飲めばドラッグとなる、合法ドラッグの走り――。
いや……いや……!
目で訴えるが、薬効に支配された新は聞いてくれない。
悪魔教の宣教師となって、逃げようとするわたしの手首を掴む。
「トワコさん、大丈夫。恐くない……俺も一緒だ……」
新は雛からレンゲを奪うと、わたしの口内にゆっくりとゆっくりと差し入れた。
「……みんなで幸せになろうよ」
肩を抱かれた。甘噛みするように耳元で囁かれた。
限りない優しさと慈しみを湛えた、わたしの大好きな声で。
――つ……ぷ……んっ。
「もぅ……ぐあ……っ⁉」
口もとを押さえる。スローモーションのようにレンゲがわたしから離れていく。
助かったのではない。毒はすでに口中にあった。
殺人的な甘味が爆発するように拡散する。体中が悲鳴を上げている。
「ひぐ……んうっ……⁉」
新は再び鍋に向かっている。
悪魔の物質をすくい、次なる標的を探す。
その目が、まったく状況の呑みこめていない雛を捉えた。
そうだ朝食は、まだ始まったばかりなのだ……。




