「終わらなかった物語」
~~~新堂新~~~
「なーなー。新ぁ」
「……」
「おーい、ちょっとそこのお兄さん」
「……」
「よっ、かっこいいよ。大統領!」
「……」
「……トワコさんとはもうヤッたの?」
「ヤッてねえよ!」
思わず大きな声で否定すると、
「おーおーおー。やーっと返事してくれた」
勝は満面の笑みで手を叩いた。
放課後である。トワコさんを先に帰してひとり気楽に下校しようとした矢先に、勝から声をかけられた。
フード付きのバイクには酒屋の屋号が記されている。
藍色の前掛けにも、同じく屋号が白抜きされている。
配達の途中の勝は、気楽な様子で俺と並走してきた。
「でもよう。あんな可愛い女の子と同棲してたら、男としちゃあいろいろと大変だべ?」
「……なんだよ。いろいろって」
「言って欲しい?」
口元をおさえ、わざとらしく辺りを見回す勝。
部活帰りの生徒たちが何人か、好奇心満点の目でこちらを見ている。
「……やめろ」
俺は瞑目した。きっとそれは、教師としての信用を失いかねない内容だ。
「で、なんだよ。用件はそれだけなのか?」
俺が察したことを察した勝は、にっと口元を綻ばせた。
「いやー、マジでさ。こんな面白え話、ほっとく手はねーべよ? どんなエッチな生活おくってんのか聞かせてもらおうかと思ってさぁ」
「……おまえは正直な性格でいいよな」
勝は俺を逃がすつもりはないらしく、バイクから降りて手で押して歩き始めた。
「……そりゃあさ。世間一般的に見りゃ異常だろうよ。トワコさんとの暮らしってのは。あんなに可愛くて、どこまでも俺を慕ってくれて……」
「頼めばヤラせてくれそうだしな?」
俺はため息ひとつ。
「……ああ。その気はないけどな」
「なんでよ? 頼めよ。最高じゃん。絶対脱いでもすごいって、あのコ」
それは知ってる。
「望み通りになっちまうからだよ。トワコさんは俺のいうことを聞いてくれる。なんだって聞いてしまう。そんなの、後宮の妾に言うこと聞かせる王様と変わらないじゃんか」
「いいじゃん。向こうもそれを望んでるんだろ? だったらそれでいいじゃんよ。なにが問題なのかわからねえな」
本気で首を傾げる勝。
「……おまえにはわかんねえよ」
これは倫理観の問題だ。理屈じゃない。
俺たちの話は平行線を辿ったまま、気がつけばファミレスの前に来ていた。
「あ、ここ……」
うわ、懐かしい。学校帰りによく利用したっけな。俺と勝のふたりで、ドリンクバーで粘りに粘ったっけ。
話た内容はほとんど覚えていないけど。男子学生がしがちな、きっとくだらない会話だったんだろうけど。
……でもきっと、楽しかった。そんな気がする。
じんわりと郷愁に浸りながら入店すると、勝が紅子に捕まった。俺は雛に捕まり、勝とは別の席に連行された。
「……ほら、予言通りでしょ?」
「すげーっすけど、ほんとにすげーんすけど……。鏡先輩はもっと他のことにこの能力を使ったほうがいいと思いますよ? それこそギャンブルとか……」
「こいつら基本、自分の描きたいことしか描かないからね……」
「うえ~?」
紅子と誰かが席を分けるつい立て越しに囁き合っているが、内容までは聞き取れない。
「──こんにちは、新くん」
「お、おうこんにちは、雛」
当たり前だけど、雛はあの夜みたいなドレスワンピースじゃなかった。生成りのスカートと黄色いシャツとカーディガン。自然素材っぽい柔らかな色調で統一された、昔のままのロハスなスタイルだ。
雛と会うのは、あの夜以来のことだった。
行き違ったまま、トワコさんとのことをうまく説明できないまま、連絡さえとれずにいた。メールも電話もすべて無視された。
「……新くん。わたしね……」
何度か逡巡した後、雛は決意を固めたように眼差しを強くして切り出した。
「トワコさんの存在を認めようと思う」
「え……」
「紅子から聞いたの。実物も見せてもらった。驚いたけど、衝撃だったけど、でももう、認めないわけにはいかない。IFはいる。トワコさんは昔、わたしたちが描いてたあのトワコさんなのね」
「……うん」
雛と紅子が、トワコさんのイラスト担当だった。
紅子は漫画チックに、雛は写実的に。それぞれにトワコさんの特徴をよく捉えた上手いイラストをつけてた。
紅子のタッチの延長線上がペーパートワコさんで、雛のタッチの延長線上がトワコさん。そう考えればわかりやすいか。
「……」
アイスコーヒーの入ったコップの水滴を見ながら、俺は少し悩んでいた。この話の終着点を考えていた。
「それでね、新くん。新くんはこの先、どうするつもりなの?」
やはりそう来たか……。
「トワコさんに行き場がないことはわかった。でも、本当に新くんが世話しなきゃいけないの? 一緒に寝起きして、ご飯を食べて、ずっとずっと、暮らしていかなきゃいけないの? おじいちゃんになるまで? そんなのおかしいよ。トワコさんはいままでずっとひとりでやって来たんでしょ? だったら……」
「──できない」
予想外の俺の強い語気に、雛は目を丸くした。
「それはできないよ、雛」
柔らかく言い直す。
「どうして……?」
むむ……、と不満げにうなり、雛は上目づかいで俺を見る。
「彼女は俺たちが創ったんだ。勝手に想像して勝手に創造して、この世に産み落としたんだ。それを自分たちの都合で捨てるなんてことできない。少なくとも俺には、それをする権利がない」
「……どういうこと?」
説明してくれる? と雛。
「この前の夜、言いかけたんだけどさ。俺、ずっとトワコさんのことを書いてた。雛たちがやめたあとも、こっそりひとりで書き続けた。高校の時だって、涼しい顔して実は男の妄想の限りを書きつけてた。他人には言えないようなエッチなしぐさをさせて、都合のいい行動をさせた。……今思い出しても、恥ずかしくて死にたくなるくらいに」
空調の効きが悪い。
肌寒くなってきた俺は、手と手を擦り合わせた。
「……昔さ、こんな想像をしたことがあるんだ。世の中には幾万幾億の物語があるけど、終わったあとはどうなるんだろうって。ゲームのエンディング。小説の読了。漫画の最終回。その後の語られていない部分はどうなるんだろうって。──小さい頃さ、人間は死んだらどうなるんだろうっていうの、考えたりしたことなかった? 俺の場合はそれなんだ。物語の終わりについて考えてた」
青臭い妄想を、雛はバカにせず、真剣な面持ちで聞いてくれている。
寒がっているのを察してか、俺の手に手を重ねてくれた。
「ハッピーエンドならいいだろうさ。でもそうじゃなかったらどうする? 魔王を倒したけど自分の村は壊滅してた。真犯人を暴いたけどそれは自分の恋人だった。……そんなの地獄じゃないか。県大会に勝ったけど全国大会には行けなかった。来年は頑張ろう。俺たちの戦いはこれからだ。──おいどうなるんだよ。どうなったんだよって……」
雛と手を重ねるのはひさしぶりのことだった。柔らかくて温かかった。最後にこうしていたのはいつのことか考えた。
……ああそうだ。
家が焼け落ちた後、家族をすべて失った後、病院の長椅子に放心して座り込んでいた俺のことを、雛はずっと慰めてくれてた。
固く握りしめた手を、いつまでもいつまでも、優しくもみほぐしてくれてた。
「この先どうなるんだよ。それで本当にいいのかよ。いったい誰が幸せになれるんだよ。そんなことを考えてた。例えば今この瞬間にさ、世界でどれだけの物語が創られてると思う? 何万か、何億か、あるいはもっともっとたくさんあるのかもしれない。その中で、無事最後を迎えられる物語はどれだけある? 小説、漫画、ゲーム……終わらなかった物語たちは、どうすればいいんだよ?」
雛が心配そうにまつ毛を震わして、俺の手を擦ってくれる。
……いいやつだ。本当に。今も昔も。
「創造する者には責任がある。俺はそう思う。創った者に、創られなかった者に対して責任がある」
ペーパートワコさんを紅子が受け入れた時に、トワコさんは言ってた。
──ほんとに良かったわ……あたしみたいに捨てられなくて。
トワコさんは知ってる。自分が俺たちに捨てられたことを。
だから4人の中の最後のひとりである俺にしがみついてる。
お願いだから捨てないでって。ずっと傍に置いてって。
「……だから俺だけでも、トワコさんの面倒を見なきゃ……そう思うんだ」
話し終わったあと、しばらくの間があった。
どちらも何も言わなかった。
手と手を重ね合わせたままふたり、じっとしていた。
最初に口を開いたのは雛だった。
「………………わかった」
強い光を放つ目で俺を見た。
「でもわかってあげない」
「え……」
「トワコさんのことも、トワコさんをなんとかしてあげなきゃって新くんの優しさもわかった。でもそれと、自分自身の人生を縛ることとはまったく別。近くにいればいいんでしょ? アパートの隣の部屋でいいじゃない」
「そ、それはそうだけど……」
「ひとりでふたりぶんのアパート代まで稼ぐのはきつい? 大丈夫。──わたしが手伝ってあげるから」
ぐ、と雛がテーブルの上に身を乗り出してきた。
「わたしが一緒に養ってあげる。だってわたしは、新くんの恋人だから」
きらきら光る瞳が眩しい。
「わたしだってトワコさんを描いてたもん。みんなで創り出した、みんなの子供だもん。だったらわたしたちが両親代わりになって……」
「や、さすがにそれは……」
小鳥遊家は、東北はおろか日本でも有数の資産家だ。正直お金の問題に関してはどうとでもなる。
だけどそれは筋が違う。独力で養わなければ意味がない。
どう説得していいのか考えていると……。
「大丈夫。わたしが稼いだお金だもん。使い道はわたしが決めるの」
「え? 雛が……稼いだ?」
雛ほど労働という言葉が似合わない人物を俺は他に知らない。
本気で、家事手伝いという名の無職だと思ってた。
「あー、バカにしてぇ」
雛は「ふふっ」と春の陽ざしのように温かく笑った。
「聞いて聞いて。わたしね、3年前の秋の院展で入賞したの」
「い、院展……⁉ す、すごいじゃんか」
院展というのは日本美術院主催の権威ある絵画の展覧会だ。市や県のそれとはレベルの違う展覧会だ。入賞するってのはイコールプロの証だ。
「ふふふ、そうなのよー。すごいのですよー。わたくし画家でございますから。いつまでたっても親のお金で暮らしてるわけじゃないのですよー」
おどけてカニみたいなダブルピースをする雛。
すごいな。やったな。いくら投げても賞賛の言葉は足りない。
「やっぱり知らなかったんだね。けっこう話題になったんだけどなー」
雛は「ざーんねん」と唇を尖らせた。
「……ごめん。あまりこっちのニュースを頭に入れないようにしてたから」
東京にいる時は、あまりこっちのことを思い出さないようにしてた。
ニュースもなるべく見ないようにしてた。
それはどうしても辛い思い出に直結するから。
今こうしてここにいられるのは、年月が解決してくれたからだ。
自分の中で折り合いをつけることが出来るようになったからだ。
「いいのいいの。変なこといってごめんね」
雛はひらひら手を振って、おかしな空気を吹き飛ばしてくれた。
「では改めて言わせていただきます。新くん」
コホン、雛は咳払いし、居住まいを正した。
「わたしに関わらせて。責任をとらせて。新くんのそばにいさせて。わたしたちが創った子供のために、何かさせて」
ちら、と俺の背後に目を向ける。
「──ね、トワコさん。決めたの。わたし、あなたのママになる。あなたを否定せず受け入れて、なおかつ新くんのそばにいようと思う」
「……トワコさん?」
振り向くと、トワコさんがそこにいた。
どうやって俺たちがここにいるのを知ったのかわからない。だけどなんでか彼女はそこにいた。
拳を握り締め、身を震わせていた。
「勝手なこと言わないでよ……っ! あなたもわたしのことを捨てたくせに! 紅子や勝と同じように、飽きた玩具みたいに! わたしのこと捨てたくせに! いなかったことにしてせいせいして、何事もなかったみたいに平和に暮らしてたくせに!」
普段のクールな彼女はどこにもいなかった。全身で怒りを表していた。
その姿はまるで、親と衝突する子供みたいに見えた。
「──わたしを見ててくれたのは新だけだった! 最後まで付き合ってくれたのは新だけ! 愛してくれたのは新だけ! いまさらよ! いまさらじゃない! なんでいまさら……あなたなんかが母親面……して……!」
ふらついたトワコさんを支えた。
積み重なった想いの重量に耐えかねたように、彼女は俺の胸に顔を埋めてきた。
雛は優しい顔をしていた。まっすぐ真摯な瞳で、トワコさんを見た。
「──ごめんね、トワコさん。知らなかった。あなたがそんな風に思ってたなんて、想像もつかなかった。今さら許してなんて虫が良すぎるかもしれない。あなたの傷を思えば、手遅れなのかもしれない。でも……お願い。わたしはもっと、あなたのことを知りたいの。あなたが今までどうしていたのか。これからどうしていきたいのか知りたいの。そのうえで、一緒にいたいの。──だからお願い。もう一度だけ、チャンスをくれないかな?」
──逃げない。曲げない。
いつもそうだった。昔から、雛はちっとも変わっていない。
遥か高いところにいて、聖者のような聖母のような眼差しを向けてくる。
そこには一切の嘘がない。真剣に、真っ向から愛してくれる。
俺たち常人は、その圧倒的な包容力の前になすすべがない。
「……っ」
トワコさんの肩がぶるりと震えた。
彼女は答えを返さなかった。良いも悪いも言わなかった。
ただ俺にくっついていた。
激流に流されまいとするかのように、俺の体に必死でしがみついた。
彼女は指先の力がとにかく強くて、俺の腕にはしばらく跡が残った。




