発端
ミステリーって何か難しそう。そう思っているアナタに捧げたい初心者用“本格ミステリー”
湯が沸いた、とヤカンが喧しく鳴く。黙らせるべく私は小走りでそこへ駆け寄り、火を止めた。大人しくなっていくヤカンから2つのカップに湯を注ぐと、嗅ぎ慣れた安いコーヒーの匂いが立ち上る。冷蔵庫から牛乳を取り出し、賞味期限を見てみると3日前に期限は切れていた。が、問題は無いだろう。構わずコーヒーに少量を注ぎ、かき混ぜる。我が家にトレイなどという洒落たものは無いので、そのまま2つのカップを手に持ち、キッチンを後にした。
「コーヒー出来たよ」
私にコーヒー作りを命じたこの家の主は机に組んだ脚を放り投げ、新聞を広げたまま一言も喋らない、表情も見えない。どうせいつも通り、面白くなさそうな顔をしているのだろう。山盛りになった灰皿、何日前の物か分からない新聞、読んだのかどうかすらも怪しい事件のファイル。挙げ始めればきりが無い程の物量(と、脚)に埋め尽くされた机に、どうにか隙間を作ってカップをねじ込んだ。
「この匂いは……ブルマンね」
やっと喋ったと思ったら面白くも無い冗談を飛ばす。相変わらず表情は新聞で見えない。
「この家にそんな物があるわけないだろう。馬鹿じゃないの」
「嫌だ、嫌だ。お姉ちゃんに向かって馬鹿だなんて……いつからそんな子になったのかしら」
私のこいつに対する態度は幼少の頃から変わってはいない筈だが。
「そんなことより私が何が一番嫌か、と言うと――」
面白くない家主は、読んでいた新聞を目の前の机に放り投げ、大げさに肩をすくめながら続けた。
「新聞の中は事件で溢れているのに、此処に依頼は一切入ってこない事ね」
大きく、垂れ目がちな眼を細くして溜息なぞをついている。茶色のセミロングの髪は……寝癖の所為だろう、右のサイドが重力に逆らい、正面から見るとアルファベットの「J」の様になっている。就職活動中の女子大生の様なスーツ姿は、このだらしの無い格好の為に台無しである。認めたくは無いが、このだらしなく面白くない家主が私の姉であり唯一の肉親、藤宮カナタ。“探偵”などという酔狂な商売をしている。
「そんなに仕事が欲しいなら、ビラ配りでもしたらいいじゃないか」
そう言うと私は二人掛けの合皮ソファに腰掛け、コーヒーをすすった。少し砂糖が少なかったかもしれない。
「あぁそれは良いアイディアね、さっそく行って配ってきて頂戴。3万枚くらい」
お互いに本気ではない。こんなやり取りは日常茶飯事である。
前回の依頼から既に1ヶ月が経とうとしていた。と言っても正式な依頼ではなく、殺人事件にたまたま遭遇し、カナタがたまたまその事件を解決し、その事件を担当していた刑事からたまたま表彰と金一封を貰った、というものだが。この事件の詳細は後に譲るとしよう。
「まったく……世の中が不幸な時ほど、私達みたいな商売は稼ぎ時なのにね」
「その台詞はもう100回位聞いたよ」
「あらそう、200回位は言ったと思ったのに」
面倒臭い姉である。最近はずっとこの調子で、カナタのぼやきも日を増すごとに増えていっている。私は小さな溜息をつき、またコーヒーをすすると、その音に聞きなれない音が雑じった。
「さて、依頼者様か、クソ勧誘の類か――」
つまらない上に面倒臭く、口まで悪いこの姉は、この異音が扉を叩くノックの音だとすぐ気が付いたようだ。いつの間にか立ち上がり、“J”になっている寝癖を手で撫で付けながら「どうぞお入り下さい」と扉に話しかける。
少し間の空いた後、扉は遠慮がちに開かれた。失礼します、と入ってきた女性は見慣れた衣服を身に纏い、困惑した表情でこちらを見つめている。少なくとも「クソ勧誘の類」ではなさそうだ。カナタの仏頂面がにやりと表情を変え、寝癖を撫で付けながらゆっくりと口を開く。
「ようこそ、藤宮探偵事務所へ」
この藤宮探偵事務所(兼、家)は5階建ての雑居ビルの3階にある。5階は空室、4階も空室、3階はこの事務所があり、2階が空室。1階には「スクランブル」という喫茶店が入っている。この喫茶店は私とカナタがよく利用する店で、特に朝11時までやっているモーニングセットはお手頃価格で味もよく、私達のお気に入りだ。
話がズレてしまったので戻そう。依頼人は喫茶スクランブルのアルバイト、三輪アキナさん。年齢は18歳で私の4つ下という事になる。なるほど、見慣れた衣服だと思ったらあそこのバイトさんだったのか。背が高く、スラリとしたその肢体には思わず眼が行ってしまう。顔も小さく、ちょっと冷たい印象を持たせる切れ長の眼が非常に印象的だ。言うまでも無く、美人の部類に入るだろう。長い黒髪を後ろで1本に纏めたその髪形も非常に良く似合っている。喫茶スクランブルは店がそこまで大きくない割には従業員の数が多いらしく、人の顔を覚えるのが苦手な私でも彼女の事はよく覚えていた。
「さてと……あぁ、そんなに緊張しなくてもいいですよ」
お前はもう少し緊張しろ、と言いたい。寝癖を直すのは諦めたのか、もう触ろうともしない。もちろん“J”のままだ。カナタが脚を放り投げていた机とは別に、応接用の机を二人掛けのソファーが挟んでいて、三輪さんとカナタが向かい合って座っている。この所謂「応接セット」が普段、依頼を聞く場所である。私は手早く三輪さんの為にコーヒーを入れて彼女の前に置き、カナタの隣に腰掛けた。
「安くて大して美味しくもないコーヒーですが、どうぞ」
「俺が言う事だろそれ」
「この口と顔が悪いのが私の弟で、私の助手っぽい事をしています「藤宮ハルカ」です」
「おいなんだその紹介の仕方は。助手“っぽい”ってなんだ。というか口と顔が悪いって言う必要あるのか」
「そして今、喋っています美人がこの事務所の探偵であり、所長の藤宮カナタ」
「せめて寝癖を直してから美人とか言えよ」
「あぁもう隣からうるさいわね。ぶっ飛ばすわよ」
「美人は「ぶっ飛ばす」なんて言わねぇよ!」
とんだ茶番である。しかし幸いにもこの茶番は成功だった様だ。緊張に顔を張り詰めさせていた三輪さんの表情は、私達のやり取りを見て綻んでいる。とても愛嬌のあるその笑顔は、冷たい印象を受ける彼女の先程までの顔とはまるで別人のようだ。
「煙草、吸っても?」
カナタは三輪さんに問いかける。が、答えを聞く前に口に煙草を咥える。「ええ、どうぞ」と微笑みながら三輪さんは答えた。彼女の表情から緊張は無くなっていた。「どうも」と短く答え、即座に咥えたセブンスターに火を付ける。最初の一息をさも美味そうに肺一杯に吸い込み、天井に向かって大量の紫煙を吐き出した。紫煙は天井とカナタの間で緩慢に動き、渦を巻く。カナタは椅子に深く座り直し、煙草を口の端に咥えて両手を組んだ。
「さて、お仕事の話をしましょうかね」
ようやく本題に入るようだ。三輪さんは少し戸惑った様な仕草を見せたが、意を決したのかカナタの顔を見て話し始める。
「本当は探偵さんにご相談する様な事じゃないと思ったんですが……」
彼女はしきりに組み合わせた指を動かしている。どう切り出せば良いのか困っているのだろう。
「いつ見ても可愛い制服よね。私もあと6歳若かったら、着させてくれとせがんだでしょう」
確かに彼女が今、着ているスクランブルの制服は可愛い。黄色を基調としたシンプルなウェイトレスの制服――エプロンというのだろうか?スクランブルの明るい雰囲気にも、彼女のスタイルにもバッチリと合っている。しかしこの探偵はいきなり何を言い出すのだろう。当人は煙草を咥えたままくすくすと笑っている。三輪さんも、突然の別方向からの話題に苦笑いとも愛想笑いとも取れぬ表情をする他無い。
「現在時刻は10時。スクランブルは朝の7時から営業開始よね」
カナタの問いに彼女は黙って頷く。
「そして今アナタは制服姿。いくら同じテナントの2階にあるからと言って、業務中に来るとは考え難い。とするとアナタは今、休憩中。或いは既に今日の業務を終了したばかりと見るけど、どうかしら」
「はい、確かに今は休憩中ですが……」
「うんうん。そしてアナタのスクランブルでの休日は土曜と日曜だと記憶してるけど、合っているかしら」
これには私も三輪さんも驚いた。確かに私達はよくスクランブルを利用しているが、あの喫茶店はウェイトレスだけでも恐らく10人以上の人間がいる。まさかその一人ひとりのシフトを把握しているというのだろうか。三輪さんは目を大きく見開いて3度、頷いた。
「あぁ邪推しないでね。私の感覚ではアナタはスクランブルで一番の美形だから覚えていただけ」
三輪さんは少し頬を赤らめてカナタから目を逸らした。男性である私は何とも居辛い雰囲気である。
「でもこれらを踏まえると不思議よね。今日は金曜日で三輪さんは明日は休み。依頼があるならば仕事が終わってからゆっくりと此処を訪ねるか、明日来れば良い。もしアナタが今、休憩中じゃなく退勤した後だったとしても不思議だわ。せめて服は着替えて来る筈でしょう。その可愛らしい黄色いエプロンが私服だと言うのなら話は別だけどね」
カナタはニコニコと話しながら、吸っていた煙草を灰皿に擦り付けた。そう言われれば不思議である。カナタが言った事もごもっともだ。三輪さんは黙ってカナタの話を聞いている。
きっと三輪さんも分かっているのだ。この探偵は、既に「解」を持っている事に。
「考えられるパターンは幾つかあるわ。一つは、つい先程アナタの周りで大きな事件があった、というパターン。例えば強盗なんかがそうかしら。それならば今この瞬間、制服姿で来た理由は納得出来る。しかしこれはハズレ。何故だかは言うまでもないでしょう」
それくらいは私にも分かる。強盗なんかが押し入ったら、まずは警察へ通報するだろう。いくら近場にあると言っても探偵を頼るとはとても思えない。そして偶然休憩中のアルバイトを探偵に使わす店と言うのも考え難い。あまりにも突っ込み所の多いパターンだ。
「彼女の周りで大きな事件があった訳では無かった。でもそうするとまた不思議が増えるのよねぇ」
そう言って2本目の煙草に手を伸ばし、火を点けた。私と三輪さんは顔を見合わせ、首を捻った。
「さっきも言ったけどアナタは休憩中。大きな事件があった訳では無いのならば、退勤した後でも良い筈だわ」
煙を一杯に吸い込み、隣に座っている私に向かって吐き出してきた。いくらヘビースモーカーのカナタと一緒に住んでいて煙草の煙に慣れている私でも、この距離で大量の煙を浴びせられたら咳き込む。
「さてワトスン君。この不思議で不可解な彼女の行動を、論理的に推理してみなさい」
「ゲームじゃないんだぞ。真面目にやれよ」
「半人前を教育するのも、姉の勤めであり所長の勤めよ」
誰が半人前か。不幸な事に、三輪さんの目は期待に輝いている。いいだろう、その挑戦に乗ってやる。
「分かった。職場でセクハラを受けたってのはどうだ。それなら休憩中に来たことも納得出来るんじゃないか」
「ボツ。あそこの従業員は店長を含めてみんな女よ」
「そんな事知ってるし、理由になってないな。同姓同士でって話も今は全然珍しくないぜ」
「それは認めるわ。けど此処が何をする所かアンタ分かってるのかしら」
それを言われると痛い。普通は警察に届けるか、行っても法律相談所だ。「探偵事務所」に来る理由としては弱い。
「ちなみに三輪さん、アナタが此処に来た理由はそこにいるバカが言ったように、セクハラを受けたからかしら」
彼女は大きく首を振った。とんだ恥である。
「えーっと……じゃあ財布を盗られたってのはどうだ。いや、財布に限らなくても良い。なにか身の周りの物を盗られたんだ」
「良いセンいってると思うわ。しかしここは探偵事務所。これもやっぱり普通は警察に届けるんじゃないかしら」
「さっきのセクハラより可能性は高いと思うぞ。盗られた物を探すってのは、いかにも現実の探偵らしいじゃないか」
「悲しきかな、まったくその通りね。でも私は違うと思ってる。盗難説が的外れと言う訳じゃない。それよりも可能性がある考えがあるの」
三輪さんに何か物が無くなったのか、と聞いたら「違います」と即答された。踏んだり蹴ったりである。
「ギブアップ。お前の考えを聞かせてくれ」
私は両手を上げてうな垂れた。
「本当に使えないワトスンね。良いわ、私の考えはね……」
そう言うとカナタは目を伏せ、人差し指をアゴに当てた。物を考えている時の昔からのクセである。
「明日は休日なのにも関わらず勤務日の今日、しかも休憩中に此処を尋ねた。しかし彼女の周りで大きな事件があった訳でもない。そして此処は探偵事務所。考えられる可能性は――」
ごくり、と生唾を飲む音が聞こえた。美和さんである。彼女は当然「解」を持っている。カナタは2本目の煙草を灰皿に押し付け、ゆっくりと歌うように呟いた。
「事件性があるのかどうか真意を確かめる身内の調査。その疑わしい行為は恐らく今日、これから行われる」
しばらく無音が続いた。私はカナタの言葉の意味を理解しようとしていた。美和さんは目を丸く見開いて、カナタの挑戦的な笑顔を見つめている。そしてようやく美和さんが口を開いた。
「そう…です。その通りです」
この二人はしっかりと話が通じ合っているらしい。私はすっかり蚊帳の外だ。
「おいカナタ、説明してくれよ。一体どういう事だ?」
たまらずカナタに「解」の意味を求むが、「それは相談者本人に聞きなさい」と一蹴される。私は未だに目を丸くしている三輪さんに問いかけた。
「コレの言った事はどういうことですか?」
彼女はビクっと身を震わせ、私の方を振り向いた。自分がこの場に居る事さえ忘れていたのだろう。
「あ…すいません、あまりにも正確に言い当てられてしまったもので動転してしまって…お話します」
「話の中に質問があるならばアンタがしなさいな」
カナタは手の中で一本の煙草を弄んでいる。昔から指先が器用でないのでその動きは少しぎこちない。
「気が付いた…いえ、おかしいなと思い始めたのは一ヶ月程前からでした。「スクランブル」のレジからお金が無くなるんです」
「それは釣銭の渡し間違え等ではなく?」
「最初はそうかとも思いました。けどやっぱりおかしいんです。ご存知かもしれませんが、私達のお店はお客さんの回転が遅くて」
確かにスクランブルは客の回転が悪い――つまり客が出て行かない。それはスクランブルの居心地が良いのと、出る料理の質が良いからだろう。
「ですので店長からは「レジでは絶対に会計を間違えないように、ゆっくり確実にやるように」と徹底されているんです。ウチのレジが混んでいるところって、見たことありますか?」
「そう言われてみればありませんね」
「ええ。滅多にないんです。だから従業員は皆、レジにはしっかりと気を使ってゆっくりと確実にやっているんです。ですが…」
そう言うと彼女はうつむいてしまった。ここで話を切られても困るので先を促す。
「それなのに、レジのお金が減っているんですね?」
彼女は「はい」とうつむいたまま答えた。
「最初はもちろん誰かの受け渡しミスだと思いました。だけど無くなる金額が毎回二千円、三千円とぴったりの金額ばっかりで」
なるほど確かにそれはおかしい。そんな都合の良い金額の受け渡しミスとは考え難い。彼女は更に続ける。
「あまりにもレジのお金が頻繁に無くなるので、店長と私が録画した監視カメラの映像を何日分か見たんです。でもレジの会計も、釣銭の受け渡しも全て完璧で…私、気味が悪くて…」
レジに不手際は無かった。とするとやはり考えられるのは――
「誰かがレジのお金を懐に入れている可能性はないんですか?」
「それは有り得ません!」
初めて彼女が大きな声を出したせいで私は驚き、思わず背を反らせた。
「あ…大声を出してすいません…でも、本当に有り得ないんです。さっきも言ったように監視カメラの映像を改めました。開店から閉店までをずっと。でも、そんな事をしている人なんて誰もいませんでした」
私は腕を組み、唸り声を上げる。レジのミスは無かった。しかし誰が盗んだ訳でもない。なのにレジのお金が減っている…言葉にすると単純明快だが、その実態は分からない事だらけである。
しばらく腕を組んだまま思考を巡らせていると隣のカナタが煙草に火を点け、悩み抜いている私に向かってまた紫煙を吐き出した。
「何だよ臭ぇな」
カナタを睨みつけると、煙草を咥えたままやれやれと肩をすくめて見せた。
「質問はアンタの仕事だと言ったでしょう。職務放棄してるんじゃないわよ」
「放棄してるわけじゃない。考えてるんじゃないか」
私がそう言うとカナタはハッと一度だけ笑った。
「考えるぅ?何を?たったこれだけの情報で?悪いけどこれっぽっちの情報じゃあ私だって正解を導けやしないわ。アンタが私以上の推理力と直感を持ち合わせているのなら話は別だけどね。そんなアタマじゃ無いっていうのはアンタが一番よく知ってるんじゃないのかしら」
言い切るとカナタは三輪さんに向き直る。
「レジは一台だけなのかしら」
「はい、一台だけです」
「毎回お金が無い、と気付くのはいつ?」
「えっと、閉店してからレジを締めるんです。そのレジから売り上げを引いて、開店した時のレジの金額と合っていればOKなんですけど…」
「その閉店後の締め作業のときに気が付く訳ね。締めをするのは閉店後だけ?」
「はい、そうです」
「その締めは誰がするのかしら。店長が一人で?」
「基本的には店長がお金を数えて、あと一人誰か手の空いてる人が付き添います。不正が無いように、ということで」
「そこまで徹底しているのなら立派だわ。監視カメラの映像を改めたって言っていたけど、何日分もぶっ通しで見たのかしら」
「いえ、お金が無くなった日のビデオを二本、誰かがレジに立ったところだけを見ました。それ以外は早送りで…」
「賢明でしょうね。開店前のレジの金額は毎日同じなの?」
「はい、毎日同じです。夜の締めの時に過不足分は金庫へ。朝の確認作業も店長の他に一人が立ち会います。集金と両替の業者さんがちょうどその時に来るので、不正のし様がありません」
「私の記憶だと監視カメラがあるのはレジの上、それと入り口の前だけだと思ったけど、他にもあるのかしら」
「ご存知の通り小さい店です。店のカメラはその二つだけです」
「レジと入ってきた客しか映さないカメラ…ふん、喫茶店ならそれだけで十分でしょうね。締め作業はどこでするのかしら」
「レジにお金が入った状態でやります。その日一日分の売り上げをジャーナル…レシートに印刷して、電卓で」
「あのお店のレジは自動じゃないものね。なるほど、なるほど。確認が終わったお金はそのままレジに入れっぱなしなのかしら」
「いえ、お金は裏の事務所の金庫に店長がしまいます。その金庫の鍵は店長しか持っていないし、常に肌身離さず持っているので他の人が触れる機会はありません」
「店長が裏に持って行き、店長がしまう、と」
ここまで矢継ぎ早に質問をしたカナタは燃え尽きかけた煙草を大きく一度だけ吸い、灰皿に押し付けた。
「これが最後の質問。アナタの目から見て、店長は不正をする人かしら」
「有り得ません!…すいません、また大きな声を出してしまいました。考えられません。絶対にそんな人ではありません。店長は皆から信用されています」
「ありがとう」
そう言うとカナタは腕を組み、ソファーの背にもたれて脚を組み直した。
「さてワトスン君。正解を導きたまえ」
唐突に話を振られた。しかし今までで得た情報を頭の中で整理してみてもおかしな所が無い。いや、おかしな所が無い事がおかしいのだ。一体いつ犯人は金を盗むことが出来た?いや、出来ない。一人でレジのチェックをするならばまだしも、常に店長が見張っている。売り上げ自体を誤魔化そうにも監視カメラで不正はバレてしまう。八方塞だ。
「八方塞だって顔ね」
私の胸中を読むのは簡便願いたい。図星なだけに尚更だ。
「しょうがない子だわ。じゃあ特別に、私と彼女から最大のヒントをあげましょう」
カナタと三輪さんから?一体どういう事だ?ますます私の頭は混乱していくばかりである。
「ねぇ三輪さん、教えてちょうだいな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お金を盗まれた日にレジのチェックを行っているのは、開店前も閉店後も毎回同じ人でしょう?」
「どうして…それを」
ようやく三輪さんが発した言葉は短いものだった。しかし短くともそれは肯定の言葉だ。しかしそれだとどうなる?何が変わる?何が分かる?
「アンタはまだ分からないの?言ったじゃない。「事件性があるのかどうか真意を確かめる身内の調査。その疑わしい行為は恐らく今日、これから行われる」って」
「それは覚えてる。それがどうして――」
「彼女は始めから犯人にある程度のアタリを付けていたのよ。それも彼女なりに確固たる証拠があった」
「な…なんで分かる?」
「こんな若い子がなんの証拠も無しにこんな所に来るもんですかい」
言われてみれば確かにそうだ。こいつは、カナタは三輪さんがここに来た時点で、彼女が何かしらの犯人に心当たりがある事を見抜いていたんだ。
「彼女が休憩中にここに来たということは、これから犯行が行われるという事。そしてその犯行はどうやら特徴がある。お金が無くなる時は必ず同じ人物がレジ金をチェックする、というね。一つ一つを綺麗に積み上げていけば、道理に適ったモノが出来上がるものよ」
そう、道理に適っている。しかしちょっと待て…納得出来無い事が一つある。
「いや、待ってくれ。確かに最初の部分は納得出来る。しかし」
「しかしレジのお金が無くなる時の人物が毎回同じとは誰もまだ言ってはいなかった――かしら?」
「…そう…だ」
カナタはまた新たな煙草に火を付け、大きく一息を吐いた。その顔には笑みすら浮かんでいる。
「だって、そうとしか考えられないんですもの」
「説明を求める」
「わ…私も聞きたいです!どうしてそれが分かったのか!」
バン、と三輪さんが机に身を乗り出してカナタに詰め寄った。さすがのカナタもこれには面食らった様で、煙草を咥えたまま大きく仰け反った。
「わ…分かった。説明する程の事でもないけど、説明しましょう。まぁ座ってちょうだい」
三輪さんは大人しくソファーに腰を落としたが先程よりも大分、前傾姿勢だ。
「簡単な事なのよ、本当にね。三輪さんがしっかりとレジの監視カメラの映像を見ていたとしたら、業務中にお金を盗む事は不可能なの。もう一度確認するわ。レジは完璧だったのね?」
「完璧です」
間髪入れずに三輪さんが答えた。
「さっきは最後と言ったけど、これが本当に最後の質問。レジの映像を改めようと言ったのはアナタね?」
三輪さんはまた目を丸く見開いた。言葉は必要ない。その表情が答えだった。その顔を見てカナタは満足そうに頷いた。
「そう、三輪さんがそれを言い出した。逆に言いましょう。店長は映像を改めようとは言い出さなかった」
待て、待て、待て。確かにカナタの言ってる事は理に適っている。だが、しかしそれは同時に――
「もう二人共分かったでしょう。犯人は店長と共犯だとしか考えられないわ」
時間が止まった様な気がした。しかし時計が時を刻む音が「それは気のせいだ」と規則正しく耳打ちする。三輪さんの表情は凍っている。
「美和さんの「店長は信用できる」と言う言葉をこの際全て信用してしまえば、もしかしたら店長は何か弱みを握られているのかもしれない。手順は簡単よね?最初から二人の犯行なんだから。朝の段階でレジのお金を二、三千円少なくしておけば済む話よ。そうすればどうやっても最終的には誤差が出る」
「ちょっと待ってくれ!」
私は反射的に叫んだ。
「わざわざレジのお金を少なくしておいた? なんでそんな手間を? 店長との二人の犯行なら金庫から直接抜けばいいじゃないか!」
「忘れたの?金庫にはある事情で触れなかったの」
あぁ、そうだ。朝の確認作業のときは――
「集金と両替の業者がいるんだ…」
「その通り。恐らくそこで業者には見えないように数千円を「もう片方の人物」に渡しているんでしょうね」
まだ終わりじゃない。まだ納得できない所はある。
「犯人は何故、店のお金を狙う?もし弱みを握っているとしたら、直接店長を強請ればいいんじゃないのか?」
意外な事にそれを聞いた途端、カナタはアゴに人差し指を置いた。その仕草は普段の思考を巡らせているポーズと言うよりは、何かを言い淀んでいる様に見えた。
「三輪さんの「店長は皆から信用されています」という言葉を完全に信用した上で、全く根拠の無い憶測になってしまけれど」
ゴクリと三輪さんが生唾を飲み込んだ音が聞こえた。彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「犯人は…店長の事が好きだったんじゃないのかしら。しかし弱みを握った優越感とお金の欲しさに勝てず、葛藤して――「店長ではなく店のお金を盗む」という行為に至ったのかもしれない」
カナタのその言葉には明らかに苛立ちが篭っていた。それは自身の曖昧な推理に向けたものなのか、理解不能な犯人に向けたものなのか、あるいはその両方なのか、それ以外か。私と三輪さんには分からない。
カナタの指に挟まれた煙草から長い灰が床へと落ちた。その音が聞こえる程に室内は静かだった。時を刻む音が、また私の耳元で囁いた。
安いコーヒーを入れて私はソファーに腰を下ろした。猫舌の為にあまり熱いものは飲み食い出来ないのだが…どうにもやり切れない気持ちを押さえ込むために、思い切って口へとそれを流し込む。味なんて分かったものじゃなかった。まるで高熱で溶けた鉛が喉を侵していくような感覚を覚え、たまらず咳き込む。
「汚いわね。いや、それ以上に馬鹿だわ」
「ほっとけ」
いつもと変わらぬ格好で新聞を読むカナタが「そういえば」と気だるそうに話し始めた。もちろん、新聞を開いたままだ。その表情は窺い知れない。
「ちょうど一週間前にスクランブルの子が依頼に来たでしょう」
「あぁ、三輪さんな」
今度は慎重にコーヒーをすすった。しかし喉が麻痺してしまったのか、味が分からない。
「犯人はやっぱり店長と例の子だったらしいわ。主犯の子は責任を取って退職。店長は――やっぱり皆の信頼が厚かったみたいね。従業員皆に土下座して、「そんなことしないで」って皆に泣かれてしまったそうよ。警察には届けなかったみたいだし、あまり内情は変わっていないようね」
それは幸い、と言って良いのだろうか。判断が難しい所である。バサリとカナタが机に新聞を放り投げた。その顔はいかにもつまらなさそうだ。
「スクランブルに行きましょうか。三輪さんにも会いたいわ」
事件があった為に、スクランブルに行くのは少し憚られていた。しかしある程度の収集が付いた今、もう良いだろう。
「そうだな、モーニングセットが恋しいぜ」
「彼女におごってもらいましょう。報酬はいらないとは言ったけど、それくらいたかっても罰は当たらないわ」
「お前な、いくらなんでもそれは――」
私の言葉は遮られた。聞きなれない音、と言うのはあまりにも悲しいがノックの音だ。
カナタが「どうぞ」とぶっきらぼうに言うと扉は遠慮がちに開く。噂をすれば何とやらで、三輪さんがそには立っていた。
「お忙しいところすいません」
「いや、全くそんな事はないんですよ本当に。あ痛、殴るなよ」
「ヘラヘラ能天気な顔で不景気な事言うんじゃないわよ」
クスクスと笑う美和さんの顔にはもう、一週間前の張り詰めた緊張は無い。
「お礼に来るのが遅れてしまって申し訳ありません」
深々と頭を下げる彼女にカナタは「お礼なんていいのよ」と言う。先程は彼女に朝ごはんをたかろうと策略していた奴がえらく早い身の変わり様だ。
「こっちこそ休憩時間に悪いわね。気を使わせて」
三輪さんは前回と同じくエプロン姿だった。
「なるべく早くにここへ来ようと思って。こんな格好で申し訳ありません」
また深く頭を下げる彼女をカナタは険しい目で見ている。何か気に障ったことでも彼女が言っただろうか。思い当たる節が無い。
「その手に持っている封筒は何かしら」
封筒?そういえば黒い封筒が美和さんの手にはある。彼女は忘れてたと言わんばかりに慌ててそれをカナタに渡す。
「この事務所の前に落ちていました。なんだか真っ黒で不気味な封筒ですね」
カナタは表、裏とまじまじ観察してから封を切った。中に入っていた手紙を引っ張り出すと、空の封筒を私に寄越す。手触りは普通の封筒と変わりないが、異質なのはその色だ。まるで闇から切り取ったように、見ていると吸い込まれそうなほどの黒。こんなもの何処で売っているのだろう。売っていたとしてこの封筒で手紙を送るというのは、私は少し気が引ける。カナタはざっと手紙に目を通すと、静かにそれを朗読した。
「拝啓、藤宮カナタ様。貴女をこの度の邂逅にご招待致します。是非ともご参加ください。」
時を刻む音も、今度は静寂を守った。