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未商業短編

余命一年、私が消えても泣かないでください

掲載日:2026/04/02

 私は一年後、この世から消えてしまう。

 正確に言えば死ぬわけではない。私という人格が抹消されるのだ。

 肉体はそのまま残り、黒い髪も紺の瞳もこの手も足も、全てそのまま生きていく。ただそこに宿る魂だけが別のもの――『聖女』に挿げ替えられる。

 私の名はアデリア。没落した宗教国家の、最後の王女。

 そしてこれは、消えることを受け入れていた私が、最後の最後で生きたいと願ってしまった愚かな物語。


◇◇◇


 ――全ての始まりは政略結婚だった。

 没落した国の王女である私が、強国ディナアスタール帝国の若き国王セドリックに嫁ぐ。この婚姻によりエルミテア神聖国はディナアスタール帝国の世継ぎに相続されることになり、実質的にエルミテア神聖国は消滅する。

 それでいいと思っていた。

 物心ついた頃から、私は失望され続けてきた。男であれば国を継げたのに、と。

 父王の老年の子であり、もう次は望めない。

 姫として生まれたことそのものが、この国の不幸だと言わんばかりの視線を浴びて育った。

 だから強国に嫁いで国ごと吸収されるのなら、それはむしろ、穏やかな終わり方だと思っていた。

 ――もちろんそんなこと、父には決して言ったことはないけれど。


 婚約の顔合わせの日、私が連れて行かれたのは宮廷の執務室だった。

 午前中の朝日が眩しく入る部屋で、セドリック・ディナアスタール皇帝は開口一番こう言った。


「いいか。お前はあくまで()()妃に過ぎぬ。第一妃の座も当面のもの、無論愛するつもりはない」


 金髪をきっちりと撫でつけた若い王は、橙色の瞳でこちらを一瞥もせず、書類に署名しながら冷淡に告げた。

 年は私より一つ下のはずだが、王座を巡る泥沼の宮廷闘争を勝ち抜いてきた男の威圧感は、年齢を忘れさせるものがあった。

 帝位争いの果てに元々の婚約はことごとく破談になり、皇帝は最も後ろ盾のない私を第一妃に据えたという。どこまでも政略結婚であり、書類上、どこまでもそこに情はなかった。


「承知しております」


 だから私の返事はそれだけだった。

 セドリックは一瞬だけ手を止める。


「…………部屋は用意してある。勝手に出歩くことは許さんぞ」

「承知いたしました」


 彼は私の返事を聞き、黙って何事もなかったように署名を終えた。


「おい」


 部屋を出る前、彼は私を呼び止める。

 振り返ると彼は、書類に目を向けたままだった。


「不便があれば我慢せず侍女に言え。お前の国とは勝手が違うだろうからな」

「ありがとうございます」

「……それだけだ。早く行け」


 結局会話のなかで、夫となる人は私を一度たりとも見なかった。

 まるで見てしまえば何かが崩れるとでも言うように、頑なに目を逸らしていた。

 嫌な気持ちにならなかったのが不思議だった。

 与えられた部屋で息をついてその理由に思いをはせる。


(若くして即位した彼は、きっと意図的に私を見ないようにしている。私が特別扱いだと思われては、きっと政治の障りになるから)


 少なくとも、故郷にいた頃よりも悪いことにはならないはずだ。


 そうして婚約期間中、私はディナアスタール帝国の王城で暮らすことになった。

 与えられた部屋は王城の東棟の最奥。

 人の往来が少なく、静かで、窓からは城壁と塔しか見えない。端に追いやられたのだと思った。

 属国の姫にはふさわしい場所だった。


◇◇◇


 問題が起きたのは顔合わせから数ヶ月後のことだった。

 父王が、禁忌の儀式を行ったとの知らせをセドリックより聞かされた。


「お前の父王おやじはとんでもない男だな。聖女降臨の儀をやるとは」


 今回呼び出されたのは謁見の間だった。

 玉座に座るセドリックの表情は固く、私はその威圧感にどきりとした。


「聖女……降臨ですか」


 私はその単語を復唱する。

 一年後、私の肉体に異世界から聖女が降り、私という存在は抹消される。

 聖女が降臨した場合、エルミテア神聖国は聖女による即位が可能となる。

 つまり父は、私の体を器にして、国を存続させようとしているのだ。

 娘が属国の嫁として冷遇される未来——それは父にとって、自分の国が踏みにじられることと同義だったのだろう。長年の鬱屈が限界を超えたのだ。

 私の意志など、誰も聞かなかった。

 いつものことだった。


「お前は俺の妃だ。俺のものに手出しなど、実の父だろうが許さない」


 私の前で、彼は書状を握り潰し、床に乱暴に放る。


「属国が勝手は許さん」


 私は剣幕に圧倒されながら、深く頭を下げた。


「父の暴挙の責任は私が取ります。どのような処分でもお受けします」

「処分? ふざけるな。お前を罰してどうなる。儀式を止める方法を探すぞ」

「え」

「何がえだ」


 彼の怒気が増したので、私は落ち着いて付け加える。


「私が死ねば、全てが解決することです。責任として――」

「ふざけるな。いいか、お前は俺の妃だろう。その命は帝国がもらい受けたものだ、お前自身にも勝手は許さぬ。解決するまで結婚式は延期だ、いいな」

 

 取りつく島もなかった。

 こうして私は、セドリックの奔走に付き合うことになった。付き合うというより、引きずり回されたと言ったほうが正しい。


◇◇◇


 たかが属国の妃のために、セドリックは方策を探し続けた。

 エルミテア神聖国の宗教法を調べ上げ、神殿への介入を試み、古い文献を各地から取り寄せ、他国の宗教権威にまで協力を求めた。強国の王としてあらゆる手段を尽くした。

 そのどれもが空振りに終わった。父が先回りしていたのだ。


 エルミテア神聖国の宗教制度を誰よりも熟知する父は、外からの干渉を全て封じる手を、儀式と同時に打っていた。記録は改竄され、神殿は外部の介入を宗教法で拒み、協力者は父の監視網に阻まれた。自国の宗教制度を誰より熟知している父には、外からの介入など児戯に等しかったのだろう。


「くそ、今回もまた失敗か」

「……」

「何を黙っている。お前さては諦めたつもりか?」

「ならぬことはなりませんでしょうに」


 そう言うと、食い気味にセドリックは指を突きつけ命令する。


「勝手に死ぬことは許さないと俺が言っただろう。それともお前は、俺を妃一人も救えない無能なハリボテだといいたいのか?」

「聖女の儀は絶対なので……」

「ああくそ、お前大人しそうな顔をしてなんでそんなに頑固なんだ」

「そう言われましても」

「いいか、俺が許さないといえば許さないんだ。お前もそれに従え」

「むしろ聖女が降臨したあとに、交渉をなされば聖女を支配下に加えられて今以上に権勢が高まるのでは」

「……もういい。黙って俺に従え」

「承知いたしました」


 私は最初から既に自分の命運には期待してはいなかった。

 だからセドリックが、頑なに私に生きるように告げるのが不思議だった。

 彼は私を咎めるとき、いつもどこか苦々しい顔をする。

 その表情はいつもの彼よりも年相応の年下の青年の顔に見えて、なぜだか胸の奥が妙な感覚になった。

 ――私という存在を、手放さないようにしてくれる人は初めてだった。


◇◇◇


 セドリックの努力もむなしく、聖女降臨を阻止する方法は見つからない。

 セドリックの苛立ちは日増しに強くなっていった。

 書斎にこもる時間が増え、側近と怒鳴り合う声が廊下に響く日もあった。

 私はただ、傍にいた。できることは少なかったが、古い文献の解読を手伝ったり、エルミテア神聖国の宗教用語の意味を教えたりした。


 その中で気づいたのは、セドリックが第一印象よりもずっと情に厚く、穏やかな人だということだ。

 私のいない場所では荒れていた様子だったが、セドリックは私に当たることは決してなかった。

 むしろ努めて、彼は私に穏やかに接してくれているようだった。

 彼は公務の場では厳格な君主として振る舞っていたけれど、どこか隠しきれない生真面目さが滲んでいて、それは公の場でも二人きりの場でも同じだった。


 ある日。

 セドリックの側近が、私の部屋の場所について話しているのを偶然聞いた。


「東棟の最奥は城で最も警備が厚い場所だ。陛下はアデリア殿下の安全を第一にお考えになられている」


 勘の悪い私はその日、初めて自分が端に追いやられたのではなかったのだと気づいた。

 彼に守られていたのだ。

 それだけではない。私がディナアスタール帝国に来た直後、セドリックが侍女を全員入れ替えたのは、父王の間者を排除するためだった。

 新しくつけられた侍女たちは皆、腕が立ち、口が堅く、そして私に親切だった。

 食事の席で私の前に出される料理は、必ずセドリックが先に一口つけてから差し出された。毒見を兼ねていたのだと気づいたのは、かなり後になってからだ。

 どれもこれも、全て私を守るための行動だった。


 甘い言葉の一つも聞いたことはない。彼はあまり私と目を合わせない。

 名前を呼ばれたこともない。「お前」とだけしか、呼ばれない。

 ――それでも彼は少なくとも、『アデリア(わたし)』を大事にしてくれている。


 気づいてしまえば、彼の不器用さが可愛くすらあった。


◇◇◇


 ある夜、書斎で調べ物をするセドリックの傍で、私はエルミテア神聖国に伝わる古い舞踏の所作を記した書物を開いていた。古語で書かれたそれは、セドリックには解読できないものだった。


「これは古い祈祷の一節ですね」

「祈祷?」

「はい。舞踏の振り付けに組み込まれているもので、エルミテア神聖国では婚礼の前に花嫁が踊る慣習がありました」

「読めるのか」


 灯明に照らし出される瞳が、私をまっすぐに見る。

 夕日を吸い込んだような眩い光に、私の胸は急に高鳴る。

 書斎が少し、狭くなったような気がする。セドリックの体温が急に近くに感じられた。


 書物を持つ彼の骨張った指から目をそらしながら、私は説明する。


「これにはディナアスタール帝国ではもう使われていない古い言い回しが使われていますが、エルミテア神聖国では未だに神事の言葉として残っています」

「神事……」


 セドリックは何か考え込むように目を細めた。そして私に読むように促した。

 音読する私の声を、セドリックは注意深く聞いている。

 読み進めるうちに、セドリックの視線が私の口元に留まっているのを感じた。

 文献から目を離さないまま、音読を続けたけれど、緊張で舌がもつれてしまいそうだった。


(私の唇を読んで、きっと祈祷の言葉の意味を考えていらっしゃるのよ。集中しなければ)


 ようやく読み終えて、開放感と共に顔を上げると、セドリックと目が合った。

 彼はさっと視線を逸らした。

 耳の先が赤く見えたのは、気のせいか。

 こういうとき、セドリックの横顔は普段の尊大さが抜けて、前髪の隙間から覗く額が少し幼く見える。


(ああ、この人は。この人は悪い人ではないのだ。最初から、ずっと)


「ご苦労。……もう夜も遅い。今夜は仕舞いだ」


 私に上着を投げ渡し、彼はさっさと去って行く。

 彼の温もりに肩を包まれると、私は胸の奥で何かがじわりと温かくなるのを感じた。

 もうすぐ消える属国の姫が抱いていい感情ではないと、すぐに蓋をしたけれど。


◇◇◇


 月日が流れ、次々と打つ手がなくなっていく。

 あれだけ切れ者の皇帝が、たった一つの儀式を覆せない。

 自国の政敵を打倒し、暗殺をくぐり抜け、反乱を鎮圧してきた男が、没落した小国の古い宗教制度の前で膝をつこうとしている。


「もうよろしいのです、私は消えたとしても、何も未練は」

「俺の未練はどうなる」

「私は十分あなた様に優しくしていただきました、陛下。なのでもうこれ以上迷惑は」

「優しく? そんなことはしていない」


 隈の浮いた目元を皮肉にゆがめ、彼は笑う。


「我慢ならないだけだ。横暴な人間が生きながらえて、死ぬべきではない人間が潔く死ぬのはもう見たくない。お前を死なせてなるものかと、会ったあの日に思ったんだ」

「あの日……」


 セドリックは前髪をぐしゃりとかき乱して、深い溜息を吐いた。


「一目惚れだよ」

「え」

「綺麗なお姫様のくせして、欲のない無垢な目をしていた。お前のそれが可愛いと思ったんだ」


 まるで降伏宣言のように、彼は本音を言葉に乗せたようだった。可愛い、と。私ごときに。


「……私の顔はあの日、見ていなかったのでは」

「うるさい、色に流されてたまるかと思ったんだよ!……正直、手駒にする気でいたよ、最初は。政略の道具として割り切れると思ってた」


 顔を覆った指の隙間から、橙の瞳がこちらを覗いていた。


「無理だったな。お前は割り切って扱うには、あまりに——」


 言葉を切る。その先を聞きたかったが、セドリックはもう口を閉ざしていた。

 彼は私の髪を撫で、ひと房を掬い取って口づける。

 まるで肌に唇を寄せられたように、私は熱を感じた。


「世界の果てみたいな顔してんなよ。……俺は皇帝だ。おんなの一人くらい、笑わせられなくてどうする」


 前髪を下ろした横顔は思ったより幼くて、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


(この人を好きになってはいけない。好きになったら、消えるのが怖くなる)


 ――思ったときには、もう遅い。


◇◇◇


 坂道を転がり落ちるように、春の訪れのように、私たちの関係は見違えるように変わっていった。

 書斎で肩を並べて文献を読む夜が増えた。

 食事を一緒にとるようになった。

 たまに城の中庭を並んで歩いた。

 セドリックは相変わらずぶっきらぼうな人だったが、私が剣の展示に目を輝かせていると「お前、意外と物騒な趣味してるな」と笑った。笑うと年相応の顔になる。

 背伸びをした可愛い人だと、思うようになっていた。


 そして私も日に日に、些細なことへの執着が増えていくのを感じた。

 セドリックが淹れてくれた茶の味を覚えておきたい。中庭に咲いた花の色を忘れたくない。前髪を下ろした幼い横顔を、もう少しだけ見ていたい。

 まるで彼の熱に当てられたみたいだ。


 もう少しだけ。もう少しだけ。

 消えたくないとは思わない。思ってはいけない。

 この人を苦しめる言葉を、最後まで口にしてはいけない。


◇◇◇


 残り三ヶ月を切った。

 セドリックのあらゆる方策が尽きた日、彼は執務室で一人、椅子の背にもたれて天井を睨んでいた。

 私が入っていくと、彼は顔を上げ——そして、苦々しく、美しい眉間に皺を寄せた。

 苦しそうな表情だった。


「なぜだ」


 声が震えていた。


「俺はなんでも手に入れられたんだ。帝位も権力も、国も民の信頼も。……なのにどうしてお前だけは」


 思うより先に、体が動いていた。

 次の瞬間、私は椅子に座るセドリックの体を、ぐっと強く抱きしめていた。


「……陛下。ご自身を大切にしてください。眠っておられませんでしょう」


 反論する口を塞ぐように、私は金色の髪の頭を胸に抱き寄せた。金髪からは薄く香油が混ざった彼の香りがふわりと漂う。私はされるがままのつむじに頬を寄せた。

 冠の代わりに私の手に撫ぜられ、孤独な男は従順だった。

 私の腕の中で、強国の若き皇帝は、ただ黙していた。


「王が全てを掌握できるというのは高慢というものです」

「は」


 鼻で笑う息を胸元で感じる。


「……あの父王を持つお前が言うのだから、説得力があるな」


 乾いた笑いだった。

 私は彼の髪をそっと撫でた。


「諦めてくださいませんか、陛下」


 ぴくりと、彼の動きが固まる。

 私は臆せず続けた。


「もっとあなたと穏やかな時間を過ごしたい。期間限定ならば、かわいそうな女として覚えられるより、『私』として記憶に残っていたいのです。いずれ、『心』だけが消えてしまうのですから」


 腕の中の肩が震える。そしてセドリックは長い沈黙のあと、私の腕の中でようやく力を抜いた。


「……わかった」



◇◇◇


 それからセドリックは一見、抗うことをやめたように見えた。

 毎朝一緒に食事をし、昼は公務の合間に中庭を歩き、夜は書斎で向かい合って本を読んだ。私が黙っていると、セドリックはわざと他愛のないことを話題に振ってくれた。ディナアスタール帝国の菓子の話、エルミテア神聖国の古い舞踏の話。

 時折、セドリックが私の読んでいる本を覗き込んでくる。

 エルミテア神聖国の古い言葉で書かれたものを、私が訳してやると、真剣な顔で聞き入る。たまに前髪が目にかかって邪魔そうにするので、

 指で払ってやると、びくりと肩を揺らして顔を赤くする。

 かわいい人だな、と思った。

 その思いが胸に広がるたびに、別の痛みが追いかけてくる。


 セドリックが居眠りすると、起こさずに上着をかけた。

 目が覚めたセドリックが「勝手に触るな」と言いながら、上着を返さないのが可笑しかった。

 幸福な時間だった。幸福であるほど、胸が痛んだ。


 ある夜、セドリックが書斎で居眠りしているのを見つけた。

 机の上には古い文献が広げられていた。エルミテア神聖国の古語で書かれたそれに、セドリックが書き込んだ注釈が並んでいる。以前私が教えた古語を使って、一人で読み解こうとした痕跡だった。

 諦めたふりをして、まだ調べ続けていたのだ。


 私はそっと肩に上着をかけた。

 この人を遺していくという残酷さに、柔らかく蓋をして見ない振りをするように。


◇◇◇


 結局、最期の夜まで何も成果は得られなかった。

 セドリックも残りの数日となったときから公務を止め、私との時間に全ての時間を割いてくれた。

 私が『聖女』に上書きされた後の処遇については、すでにセドリックと父の間で交わされていた。

 父は若獅子のような皇帝をついに屈させたということで、勝ち誇った様子を調印式で見せていたらしい。

 就寝前、私は寝室の窓辺で一人月を見上げる。


(夜が明ければ『私』は消える。……異世界の聖女が、私の人格に上書きされてやってくる)


 私は消え、この体に別の誰かが入る。セドリックの隣にいるのは、私ではなくなる。

 私は自分に言い聞かせる。


(これ以上は不相応。消えることと引き換えに、この人の隣で過ごした日々を貰えたのだから十分よ)


 その時、寝室にセドリックがやってくる。

 最期の夜だけは共に過ごしたいと、セドリックに事前に伝えられていたのだった。

 夜着に身を包んだセドリックの体は、薄明かりの中、普段よりずっと逞しく雄々しく見えた。

 私は深く頭を下げた。


「ありがとうございました。あなたと過ごした時間は、私の人生で一番幸福でした」


 頭を上げると、セドリックはまっすぐ私を見下ろしていた。


「諦めるな」

「え、」

「もう全部終わったみたいな顔をするな」


 セドリックは私の肩を掴んだ。

 橙の瞳が燃えている。皇帝ではない、セドリックという一人の男性の剥き出しの感情が溢れていた。


「体だけ残されて俺が愛せると思うか。その頑固な気性も食えない性格も全部揃ってなければお前じゃない」


 彼は私の手首を掴み、引き寄せた。


「今夜俺はお前を抱く。いいか、一片たりとも俺はお前を他所様に奪わせる気はない」

「しかし、……待ってください、話が、」


 唇を塞がれ、私はそれ以上の言葉を紡げなくなった。

 熱い弾力に全てが飲み込まれ、平らげられる。

 私の肩を抱く手が大きくて、固くて、熱い。


「いいか。過去も未来も、あまねくお前が俺のものだ、誰が手放すか」

「っ……」


 私は抵抗した。理性が叫んでいた。

 婚前に体を許せば、取り返しがつかない。明日には消える『私』の罪はどうでもいい。

 けれどこの人に業を背負わせてはいけないと思った。


「やめてください。あなたの傷が増えるだけです」

「傷でいい」


 私の頬に口づけて、湿り気を帯びた声でセドリックは囁く。


「お前を喰らい尽くした咎を、一生の業にする。全部が違う女になるくらいなら、今のお前を——」


 声が震えていた。

 怒っているのではなかった。涙が、組み敷かれた肌に汗の滴より熱く零れる。


「頼む。……アデリア。俺の妻になってくれ」


 名を囁かれた瞬間。あっけなく、私の理性は雪のように溶けた。


 私はセドリックの腕の中で、想像だにしない最期の夜を迎えた。

 初めて触れ合った肌は熱くて、荒々しくて、それでいてどこまでも優しかった。乱暴に見えるその手つきの端々に、壊れものを扱うような震えがあった。

 私は初めて消えたくないと、心の底から思った。

 広い背にしがみつき、私はすがるように願った。この人の隣にいたいと。この温度を、この匂いを、この声を、手放したくないと。

 セドリックは私から理性を剥がし続けた。夜明けの鳥が、朝を告げるまで。


◇◇◇


 気がつけば、寝室は昼の陽気に照らされていた。


「これは……」


 聖女降臨の刻限は夜明けだったはずだ。


「夢?」


 身を起こそうとして、まったく体がびくともしない。

 セドリックの腕に抱き寄せられて身動きがとれないことに、私はそのとき気づいた。

 セドリックは熟睡しているようだった。実に心地よさそうだった。

 そういえば寝顔を見るのは初めてだったと気づく。前髪を下ろした寝顔は、やはりどこか幼い。

 ――見とれている場合ではない。

 腕をのけ、髪をそっと引っ張り出し、私は時計へと目を向ける。やはり正午を過ぎている。


「……何も、起きなかったの……?」


 自分の手を見つめた。指が動く。まばたきができる。胸の奥に、昨夜からずっと消えない熱がある。紛れもなく私だ。私の手、私の目、私の心。

 何も、奪われていない。

 待っても、待っても。私は私のままだった。


「成功したみたいだな」

「セドリック」


 気付けばセドリックが満足げな眼差しでこちらを見ていた。

 腕を開き、彼は私を懐に招き入れる。


「もう少し寝るぞ。付き合え」

「あの、この状況は」

「少しくらいいいだろう……お前が気を飛ばすまで、俺は一睡もしてなかったんだから」

「待ってください、説明してください。この状況って何なのですか」

「降臨しなかった、それだけだよ」


 どこか勝ち誇ったように、セドリックはにやりと笑う。

 シーツの海でふてぶてしく振る舞うその姿は、まさに神様のように堂々たるもので現実感がない。

 呆然とする私に、セドリックは説明した。


「聖女降臨の儀は『清き器』を必要とする。清き器。古い宗教用語で聖女と同じ語源を持つその言葉は、現代では『清浄な体』と解釈されていた。だが、原典の意味は違う」


 セドリックは私の手を取った。昨夜の名残がまだ肌に残っている。

 彼は私の指先に、そっと口づけた。


「どういうからくりか、もう分かっただろ?」

「……この夜に、意味があったというわけですね? 」


 彼は頷いた。


「『処女』。お前がエルミテア神聖国の古い舞踏について教えてくれた夜、祈祷文の中にその言葉があった。ディナアスタール帝国ではとうに失われた古い意味を、お前の国だけが残していた」


 私は目を見開いた。


「歴史上、聖女降臨の儀は王妃——すでに懐妊した女性に対して行われてきた。だから処女であることが条件だと、誰も気づかなかった。お前の父が未婚の娘に儀式を行使したのは前例のない異常事態だった。そしてその盲点に——」

「あなたは、気づいたのですね」

「ぎりぎりの賭けだったけどな」


 セドリックは真顔になると、私の頬に触れた。


「……最後まで確信が持てなかった。だが、お前が消えるのを、ただ見ていることだけは」


 それ以上は彼は言葉にせず、私を強く強く抱きしめる。


「消えなくて良かった。本当に」


 くぐもった声が、私の頭上から聞こえてくる。

 額に熱い滴を、私は目を閉じ、気づかないふりをして受け止めた。


◇◇◇


 ――結局。

 父の野望は、砕けてしまえばあまりにもあっけないものだった。

 聖女が降臨しなかった理由は——父王が前例のない形で儀式を執行したことによる「儀式の不備」として処理された。

 本当の理由を知る者は、二人しかいない。


 改めて執り行われた結婚式は、盛大なものだった。

 セドリックは金髪をきっちりと撫でつけ、王としての威厳を纏って祭壇に立っていた。

 私が歩いていくと、橙色の瞳がまっすぐ私を見た。

 あの顔合わせの日とは違い、彼は一度も目を逸らさず、私だけを見ていた。

 祝いの花吹雪のなか、彼は私の耳元に顔を近づけて囁いた。


「今夜からは寝室を変える。もう俺から逃げられると思うなよ」


 見上げると、セドリックの瞳には花嫁姿の私が映っていた。

 風が吹き、彼の前髪が僅かにほどけて額にかかる。皇帝陛下の顔がどこか、年相応の顔になる。


「今度は苦しくしないでくださいましね」

「……善処するから、逃げてくれるな」

「傍にいます、望まれるまで」

「それなら永遠だな」


 セドリックが差し出した手を取る。

 生きている手の温度がある。明日も明後日も、その先も。

 私は私のままで、この人の隣にいる。

お読みいただきありがとうございました。

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