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迷い

また、あの夢が始まった。


今度は唐の時代。華清池の美しい宮殿で、一人の女性が鏡の前で髪を梳いている。

楊貴妃——歴史上最も美しいとされた女性の一人。

彼女の美貌は玄宗皇帝の心を奪い、国を傾けるほどの愛を受けた。


「陛下...」


楊貴妃の声が震えている。

外では安史の乱の戦火が迫っている。愛する人のために国が乱れ、民が苦しんでいる。

その責任の重さが、彼女の心を引き裂いていた。


玄宗皇帝が部屋に入ってくる。その顔には深い絶望が刻まれていた。


「貴妃...…許してくれ」


二人は抱き合った。

しかし、それは永遠の別れを告げる抱擁だった。

愛があまりにも深すぎたがゆえに、それは悲劇しか生まなかった。

楊貴妃は自らの命を絶つことで、皇帝への愛を証明しようとした。


愛とは何だろう。

夢の中で、僕は楊貴妃の感情を直接感じていた。

純粋な愛情、激しい情熱、そして底知れない絶望。

愛が深ければ深いほど、その破綻は激しく、周りの全てを巻き込んでいく。


夢が変わった。今度は別の時代、別の場所。

しかし、そこにあるのもまた、愛ゆえの悲劇だった。

男女の愛が狂気に変わり、純粋だったはずの感情が欲望に支配され、やがて暴力と陵辱に変わっていく場面が次々と現れた。


僕は目を逸らそうとしたが、夢の中では逃げることができない。歴史の中で繰り返された、愛の名の下に行われた数々の残酷な行為。女性たちの悲鳴、男性たちの狂気、そして最後に残る絶望。


「恋はよくわからないし、怖い」


夢の中で、僕は呟いていた。


「一歩間違えば肉欲になるし、実際夢でいくつもの陵辱の歴史を見てきた。特にモンゴル帝国は酷かったな……」


そう言った瞬間、夢が終わった。













午前七時。アラームが鳴る前に目が覚めた。最近、この時間に自然と起きるようになった。夢の影響だろうか。


シャワーを浴びながら、先ほどの夢について考えた。楊貴妃と玄宗皇帝の悲恋は有名な話だが、夢の中で感じた感情の生々しさは異常だった。

まるで自分がその場にいたかのような、リアルな感覚。


「能力が強化されているのか...」


最近、夢の内容がより鮮明になり、感情の流入も激しくなっている。

ヴォルフたちには報告していないが、正直、少し不安だった。


大学への電車の中で、昨日の訓練を思い出した。

サイの念動力との組み合わせ練習で、僕の予知能力は確実に向上している。

しかし、それと同時に副作用のような現象も現れ始めていた。


夢の中の感情が、現実に持ち越されることがある。特に恋愛に関する感情は混乱を招いた。

夢の中で体験した激しい愛情や欲望、そして裏切りや絶望。

それらが自分の感情なのか、夢の中の人物の感情なのか、境界線が曖昧になることがあった。














「奏江くん!」


文学部の中庭で、明るい声に呼び止められた。振り返ると、見たことのない女の子が立っていた。


身長は160センチほど。肩にかかる長さの栗色の髪が春風に揺れている。

大きな瞳は澄んだ茶色で、少し上がり気味の口元に愛らしい笑みを浮かべていた。

白いブラウスに紺のカーディガン、膝丈のスカートという清楚な装いが、彼女の可愛らしさを引き立てている。


「えっと...」


「桜井美月です!同じ文学部の二年生です」


彼女は人懐っこい笑顔を向けた。

確かに可愛い子だった。

しかし、なぜ僕の名前を知っているのだろう。


「あの、どうして僕の名前を...」


「文学部では有名人ですよ。成績優秀で、でもちょっとミステリアスな雰囲気の奏江蓮さんって」


美月は小首を傾げながら言った。

その仕草が無邪気で、見ているだけで心が和んだ。


「そんなことないですよ。ただの普通の学生です」


「謙遜しないでください。僕、実は奏江さんにお話ししたいことがあって」


美月は少し声を落とした。周りを見回してから、僕の腕を軽く引いた。


「もう少し静かなところで話しませんか?」


彼女に導かれて、中庭の端にあるベンチに座った。

桜の木の下で、花びらが時折風に舞っていた。

美月は僕の隣に座り、膝の上で手を組んだ。


「実は...奏江さんって、普通の人じゃないですよね?」


その言葉に、僕の心臓が跳ね上がった。

しかし、表情には出さないように気をつけた。


「何のことですか?」


「とぼけなくてもいいです」


美月の声音が変わった。

さっきまでの無邪気な雰囲気が消え、どこか大人びた、計算された口調になった。


「悲劇を予知する能力者、奏江蓮。特対機関のメンバーでもありますね」


僕は立ち上がろうとしたが、美月が手を伸ばして僕の手首を掴んだ。

その手は見た目とは違って、驚くほど強かった。


「逃げないでください。話があります」


「君は...」


「瀾のメンバーです」


美月はあっけらかんと言った。まるで天気の話をするかのような軽い口調で。


「エージェント・サクラ。それが僕のコードネームです」


僕の脳裏に警告が走った。

しかし、不思議なことに恐怖は感じなかった。

むしろ、好奇心の方が勝っていた。

この少女が敵だということが、現実感を持って迫ってこない。


「なぜ正体を明かすんです?」


「だって、隠していても意味がないじゃないですか。あなたの能力なら、いずれ僕たちの正体に気づくでしょうし」


美月——サクラは微笑んだ。

その笑顔は先ほどまでと変わらず愛らしかったが、今度は底知れない何かを感じさせた。


「それに、僕はあなたを殺しに来たわけじゃありません」


「じゃあ、何のために?」


「勧誘です」


予想外の答えだった。僕は彼女を見つめ返した。


「瀾があなたを欲しがっています。あなたの能力は、僕たちの組織にとって非常に価値のあるものです」


「断ります」


即答した。しかし、サクラは全く動じなかった。


「そう簡単に答えを出さないでください。まだ僕の話を聞いていないじゃないですか」


「聞く必要はありません。僕は特対機関のメンバーですから」


「特対機関...…」


サクラは少し考えるような素振りを見せた。


「あの組織が、あなたにとって本当に良い場所だと思いますか?」


「どういう意味です?」


「あなたの能力のこと、彼らはどこまで理解していますか?夜毎に歴史の悲劇を見て、その感情を直接体験する辛さを、彼らは分かってくれているんですか?」


その言葉に、僕は言葉を失った。確かに、ヴォルフたちには能力の詳細は話していない。

夢の内容や、それに伴う感情の流入については、説明したところで理解してもらえるとは思えなかった。


「僕たちは違います」


サクラは僕の手を両手で包んだ。その手は温かかった。


「瀾には、あなたと似たような能力を持つメンバーがたくさんいます。過去を視る者、未来を視る者、そして感情を読み取る者。みんな、普通の人には理解されない辛さを抱えています」


「でも、君たちは悪の組織でしょう?」


「悪?」


サクラは首を振った。


「善悪なんて、立場によって変わるものです。僕たちは、この世界の真実を知ろうとしているだけです。そして、特殊能力者が迫害されない世界を作ろうとしているだけです」


彼女の言葉には、確かに一理あった。特対機関の任務で戦ってきた相手たちも、彼らなりの正義があったのかもしれない。


「考えてみてください」


サクラは立ち上がった。


「あなたが本当に守りたいものは何ですか?組織の命令ですか?それとも、自分自身の信念ですか?」


桜の花びらが舞い散った。美月の髪に一枚の花びらが止まり、彼女はそれを手に取った。


「綺麗ですね、桜って。でも、散るのも早い」


彼女は花びらを風に飛ばした。


「美しいものほど、儚いものです。あなたの今の平穏も、いつまで続くか分からない」


「脅しですか?」


「忠告です」


サクラは振り返った。


「特対機関は、あなたが思っているほど善良な組織ではありません。いずれ、あなたは真実を知ることになる。その時、僕たちのことを思い出してください」


彼女はポケットから小さなカードを取り出し、僕に手渡した。


「連絡先です。心が変わったら、いつでも連絡してください」


カードには桜の花のマークと、電話番号だけが書かれていた。


「さようなら、奏江さん。また会いましょう」


サクラは微笑みを残して立ち去った。その後ろ姿は、どこからどう見ても普通の女子大生だった。しかし、僕の心には深い疑問が残った。











特対機関の基地に向かう電車の中で、僕はサクラとの会話を反芻していた。彼女の言葉は、確かに僕の心の一部に響いていた。


特対機関のメンバーたちは良い人たちだ。しかし、彼らが僕の能力の本質を本当に理解しているかと言われると、疑問だった。夜毎に見る悲劇の夢、そこで体験する激しい感情の嵐。それらを説明しても、実際に体験していない人には分からないだろう。


基地に着くと、ヴォルフが待っていた。


「蓮、今日の調子はどうだ?」


「普通です」


「そうか。それなら良いが..….」


ヴォルフは僕の顔を見つめた。


「何か変わったことはなかったか?」


僕は一瞬迷った。サクラとの遭遇を報告すべきだろうか。しかし、なぜか口に出すことができなかった。


「特にありません」


「そうか…...。まあ、何かあったらすぐに報告してくれ」


ヴォルフは去っていった。彼の後ろ姿を見ながら、僕は自分の判断が正しかったのか疑問に思った。


訓練室で一人になると、僕はサクラのカードを取り出した。桜のマークが、夕日に照らされて薄紅色に見えた。


「瀾のメンバーか..….」


彼女の言葉を思い出した。特対機関についての警告、そして瀾の目的について。本当に、僕は正しい選択をしているのだろうか。


その時、予知能力が働いた。断片的なビジョンが頭に浮かんだ。サクラが何者かと電話で話している場面。そして、特対機関の基地を見つめる複数の人影。


「まずい…...」


僕は慌ててヴォルフのもとに向かった。しかし、廊下で足が止まった。


もし、これがサクラの罠だったら?彼女との遭遇を隠していたことがバレれば、僕は疑われるかもしれない。しかし、予知した危険が本当なら、仲間たちが危険にさらされる。


僕は迷いながら、カードを握りしめた。桜のマークが手のひらに食い込んだ。


夜が深まっていく中で、僕は自分がどちらの道を選ぶべきか、まだ決めかねていた。しかし、一つだけ確かなことがあった。


この出会いが、僕の運命を大きく変えることになるだろうということだった。










夜が更けて、僕は一人自分のアパートにいた。机の上には、サクラから渡されたカードが置かれている。桜のマークが、デスクライトの光を受けて淡く光って見えた。


「本当に連絡すべきなのか...」


僕は何度も電話に手を伸ばしかけては、止めることを繰り返していた。サクラの言葉が頭から離れない。


『特対機関は、あなたが思っているほど善良な組織ではありません』


あの時の彼女の表情は、真剣そのものだった。ただの敵の策略にしては、あまりにも切実な響きがあった。


そして何より、僕自身も感じていた違和感があった。特対機関のメンバーたちは確かに良い人たちだ。でも、僕の能力の本質的な苦しみを、彼らは本当に理解しているのだろうか。


夢の中で体験する歴史上の悲劇。その時に感じる絶望、恐怖、怒り、そして愛憎。それらの感情が現実に持ち越され、時として僕自身の感情と区別がつかなくなる苦しみ。


「彼らには、分からないんだ...」


僕は呟いた。ヴォルフたちに相談したことはあったが、「大変だな」「慣れるよ」程度の反応しか返ってこなかった。それは仕方のないことだった。体験していない人に、理解しろという方が無理な話だ。


でも、サクラは違った。まるで僕の苦しみを実際に体験したことがあるかのような口調で話していた。


『瀾には、あなたと似たような能力を持つメンバーがたくさんいます』


もし本当なら、僕のような能力者が他にもいるということだ。同じ苦しみを分かち合える人たちが。


その時、携帯電話が鳴った。ヴォルフからだった。


「蓮、すまん。夜遅くに」


「いえ、まだ起きていました。どうしました?」


「実は、君に確認したいことがある。今日、大学で何か変わったことはなかったか?」


僕の心臓が跳ね上がった。まさか、サクラとの遭遇がバレたのだろうか。


「変わったこと、ですか?」


「ああ。我々の情報網で、君の大学周辺で怪しい人物が目撃されたという報告があった。瀾のメンバーの可能性がある」


僕は息を呑んだ。やはり、監視されていたのか。


「特に何も…...」


「そうか。まあ、もし何かあったら必ず連絡してくれ。君の安全が最優先だ」


「はい、分かりました」


電話を切った後、僕は深いため息をついた。嘘をついてしまった。しかし、今サクラとの遭遇を報告すれば、なぜその時に報告しなかったのかを問われるだろう。そして、僕自身がサクラの言葉に動揺していることも知られてしまう。


「どうすればいいんだ...」


僕は頭を抱えた。そして、ふと思い出した。今朝見た夢のことを。楊貴妃と玄宗皇帝の悲恋。愛が深すぎたがゆえに起きた悲劇。


愛とは何だろう。信頼とは何だろう。僕は本当にヴォルフたちを信頼しているのか。それとも、ただ居場所があることに安心しているだけなのか。


「どうすれば..….」


僕は机の引き出しを開け、そこに隠してあったもう一枚のカードを取り出した。ヴォルフから最初に渡された、特対機関の緊急連絡先だった。


二枚のカードが並んでいる。一つは特対機関、もう一つは瀾。僕の人生を決める選択が、この小さなカードに込められていた。


時計は午前2時を回っていた。あと数時間もすれば朝が来て、僕は決断を迫られることになる。


「どちらが正しいんだ..….」


僕は両方のカードを手に取った。そして、ふと気づいた。どちらのカードも、僕にとっては同じようなものなのかもしれない。


特対機関は僕に居場所を与えてくれた。でも、それは僕の能力が必要だからだ。瀾も同じ。僕の能力を欲しがっている。


結局、僕という人間ではなく、僕の持つ悲劇を視る能力が必要とされているだけなのかもしれない。


その時、三度目の悲劇の光景が浮かんだ。今度は、もっと遠い未来の光景だった。


大規模な戦闘が起きている。特対機関と瀾の全面戦争。そして、その戦いの中心で、僕が苦悩している姿があった。どちらの陣営にも大切な人がいて、選択することができずに立ち尽くしている。


そして、その迷いが多くの人の命を奪う結果につながっていく光景も見えた。


「僕が...…みんなを不幸にするのか.…..」


僕は愕然とした。自分の優柔不断が、最悪の結果を招くことになるのか。


しかし、その時、悲劇の光景が変わった。今度は、僕が明確な意志を持って行動している場面だった。特対機関でも瀾でもない、第三の道を選択している姿が見えた。


「第三の道...?」


その詳細は見えなかった。しかし、一つだけ確かなことがあった。僕が自分自身の信念に従って行動した時、最も多くの人を救うことができるということだった。


僕は立ち上がった。そして、両方のカードを机の引き出しにしまった。


「まだ決める時じゃない」


僕は呟いた。もう少し情報が必要だった。特対機関の真の目的、瀾の本当の狙い、そして僕自身が本当に守りたいもの。


それらを見極めるまでは、どちらの道も選ばない。


でも、時間はあまりない。悲劇として視た通りなら、明日の夕方には決断を迫られることになる。


僕は窓の外を見た。東の空がわずかに白み始めている。新しい一日が始まろうとしていた。そして、その一日の終わりに、僕の運命が決まることになる。


「自分の信念...」


僕は自分に問いかけた。僕が本当に守りたいものは何なのか。ヴォルフたちとの友情か、サクラの言う理解か、それとも別の何かなのか。


答えは、まだ見つからなかった。でも、きっと今日一日の間に見つけることができる。そう信じて、僕は新しい朝を迎えることにした。


そして、僕の能力が示した「第三の道」とは何なのか、それも今日中に明らかになるだろう。


悲劇を視る能力者奏江蓮の、最も重要な選択の日が始まろうとしていた。








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