異能力テロ ①
僕は夢を見ていた。
1995年3月20日、東京の地下鉄。朝の通勤ラッシュで満員電車に揺られる人々の中に、異様な液体が撒かれていく。最初は誰も気づかない。ただの水のようにも見える透明な液体が、車両の床に静かに広がっているだけだった。
でも数分後、地獄が始まった。
乗客たちが次々と倒れ始める。呼吸困難、痙攣、意識不明ーーそれは毒ガスによる無差別テロ。逃げ場のない密閉空間で、罪のない人々が苦しみながら命を落としていく。
そして僕は視た。犯人たちの狂信的な眼差しを。彼らは自分たちの行為を「聖なる使命」だと信じ込んでいた。歪んだ思想に支配され、人としての心を失った者たちの姿を。
この悲劇で13人が死亡し、数千人が被害を受けた。日本の平和な日常が、一瞬にして破られた瞬間だった
「うっ……」
僕は冷や汗をかいて目を覚ました。オウム真理教の地下鉄サリン事件。歴史の教科書でも習った、日本史上最悪のテロ事件の一つだ。
地獄のような光景だが、現代は戦争時代以前の悲劇に比べてしまうとまだマシーーそう思った自分に嫌悪する。
同じ人類史に刻まれた悲劇で、どれとしてマシな悲劇などないというのに。
時計を見ると、午前6時。今日はヴォルフさんたちと初めての任務に参加する日だった。
僕はなんとなく、天が「変えられなかった過去に起きたテロの悲劇を今度こそ変えなさい」と啓示しているように感じた。
ミッドタウン・プラザでのテロ事件まで、あと8時間。
***
午前10時、僕は指定された場所にいた。都心から少し離れた、古いオフィスビルの一角。表向きは「山田商事」という何の変哲もない貿易会社だが、実際は特対機関の秘密基地の一つだった。
建物の外観は確かに普通の会社に見える。1階には受付嬢らしき女性がいて、来客対応をしている。でもよく見ると、その女性の手元には小さな武器らしきものが置かれていた。そして何より、彼女の目つきが普通の事務員とは明らかに違う。訓練を受けた戦闘員の眼差しだった。
「蓮君、よく来てくれた」
ヴォルフさんが僕を迎えた。今日の彼はスーツではなく、動きやすそうな黒い戦闘服を着ている。胸部と肩部分には軽量の防弾素材らしきものが組み込まれていて、腰にはいくつかの小型機器がベルトに装着されていた。
「緊張しているか?」
「はい…正直、怖いです」
僕の声は震えていた。昨夜はほとんど眠れず、何度も予知した光景を思い出しては冷や汗をかいていた。200人以上の死者が出る可能性がある事件。そんな重大な任務に、僕のような素人が参加していいのだろうか。
「当然だ。初めての現場は誰でも緊張する。私も最初の任務の時は、君以上に震えていたものだ」
ヴォルフさんは苦笑いを浮かべた。
「でも君は戦う必要はない。我々が君を守る。君の仕事は、視たものを教えてくれることだけだ」
そう言いながら、彼は僕に小さな機器を手渡した。
「これは緊急時の発信機だ。危険を感じたらこのボタンを押してくれ。5秒以内に誰かが君のもとに駆けつける」
僕たちはエレベーターで地下に降りた。そこには想像以上に大規模な施設が広がっていた。
司令室には巨大なモニターが複数設置されていて、東京都内の様々な場所の映像がリアルタイムで表示されている。武器庫の前を通りかかると、中には見たこともないような高度な装備が整然と並んでいた。医療室では白衣を着た医師らしき人物が、何かの薬品を調合している。
そして何より驚いたのは、多くのスタッフが慌ただしく動き回っていることだった。彼らも皆、普通の人間とは思えない雰囲気を持っている。きっと全員が何らかの異能力を持った人たちなのだろう。
「皆さん、紹介します」
ヴォルフさんが声をかけると、数人の人物が集まってきた。彼らも全員戦闘服を着ていて、それぞれ異なる装備を身につけている。
「こちらが予知能力者の奏江蓮君だ。今回の作戦の要となる」
最初に紹介されたのは、昨夜会ったオラクルさん。今日は分厚いファイルを抱えていて、分析結果をまとめているようだった。彼の戦闘服には通信機器がいくつも装着されていて、常に情報が入ってきているようだった。
「昨夜の情報を基に、敵の作戦を詳細に分析しました。蓮君の予知は驚くほど正確です」
オラクルさんは僕に向かって深く頭を下げた。
「おかげで、我々は最適な対策を立てることができました。本当にありがとうございます」
次に現れたのは、小柄な女性だった。二十代後半くらいで、ショートカットの黒髪が印象的だ。彼女の戦闘服は他の人と少し違っていて、より軽量でフィット感のあるデザインになっている。きっと彼女の能力に合わせて特別に作られたものなのだろう。
「初めまして、サイです。念動力を使います」
彼女が手を軽く振ると、近くにあったコーヒーカップが宙に浮いた。僕が以前視た光景の中にいた人物だ。でも実際に会ってみると、予想以上に親しみやすい雰囲気の人だった。
「よろしくお願いします。蓮君の予知能力、本当にすごいって聞いてます。私たちも頑張りますから、安心してくださいね」
彼女の笑顔が、僕の緊張を少しほぐしてくれた。
最後に紹介されたのは、大柄な男性だった。身長は190センチ近くありそうで、筋肉質で、どこか軍人のような雰囲気を持っている。他の人たちと比べても、明らかに威圧感が違った。
「俺はファントムだ。瞬間移動が得意でな」
彼がそう言うと、一瞬で姿が消えた。空気がわずかに歪んだかと思うと、次の瞬間には僕の背後に現れて肩を叩く。
「びっくりしたか?まあ、今日はよろしく頼む」
その瞬間移動は、まるで魔法のようだった。物理法則を完全に無視している。異能力の恐ろしさと素晴らしさを、改めて実感した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そして最後に、今まで見たことのない人物が現れた。白いロングコートを着た、神秘的な雰囲気の女性だった。年齢は三十代前半くらいだろうか。長い銀髪を後ろで束ねていて、まるで西洋の貴族のような気品がある。
「私はミスティーです。情報収集と支援を担当しています」
彼女の瞳は深い紫色で、まるで宝石のように輝いていた。その目を見つめていると、なぜか心が落ち着いてくる。きっと彼女の能力の一部なのだろう。どんな能力を持っているのかは分からなかったが、ただ立っているだけで周囲の空気が変わるような存在感があった。
「初めまして。今日は大変な任務ですが、あなたの能力があれば必ず成功します。私たちを信じてください」
「はい、よろしくお願いします」
「では、作戦会議を始めよう」
オラクルさんがプロジェクターを起動した。スクリーンにミッドタウン・プラザの詳細な設計図が映し出される。建物の構造、各階のレイアウト、非常口の位置、全てが詳細に表示されている。
「蓮君の予知によると、敵は午後2時に3方向から同時に侵入します。1階エントランスから炎使い、非常階段から重力操作者、そして屋上から精神操作者が侵入予定です」
僕は昨夜視た光景を思い出しながら、詳細を補足した。
「炎使いは最初に大きな火球を放って、避難経路を塞ぎます。その炎は普通の火とは違って、水をかけても消えません。青白い炎で、触れたものを一瞬で燃やし尽くします」
オラクルさんが頷きながらメモを取る。
「重力操作者は建物の構造を破壊して、上階の人を閉じ込めます。柱や梁に重力をかけて、建物全体を不安定にするんです。そして精神操作者が人々を混乱させて、パニック状態にします。逃げ惑う人たちを、互いに争わせようとするんです」
僕が説明するたびに、皆の表情が険しくなっていく。それだけ深刻な事態だということだった。
「分かった」
ヴォルフさんが頷く。
「では我々はこう動く」
作戦が詳細に説明される。ヴォルフさんが炎使いを、サイさんが重力操作者を、ファントムさんが精神操作者を担当する。それぞれの敵の能力に対して、最適な対処法が検討されていた。
ヴォルフさんの身体強化能力なら、炎の中でも活動できる。サイさんの念動力なら、重力操作に対抗して建物を支えることができる。ファントムさんの瞬間移動なら、精神操作者の攻撃を回避しながら接近できる。
ミスティーさんは全体の支援と情報収集を担当し、僕は安全な場所から状況を監視し、予知で得た情報を無線で伝える役割だった。
「でも、もし僕の予知が間違っていたら…」
僕の心配に、ヴォルフさんが断言した。
「大丈夫だ。君の能力を信じている。我々も君を信じている」
その言葉が、僕の震える心を少し落ち着かせてくれた。
「それに」
ミスティーさんが優しい声で言った。
「予知能力は未来を『確定』させるものではありません。あなたの情報があることで、我々は最善の結果を選択できるのです」
「未来は変えられる」
オラクルさんも補足した。
「君の予知は『起こりうる可能性の一つ』を示している。我々がその情報を使って行動すれば、違う結果を生み出すことができる」
「そういうことです」
サイさんが微笑んだ。
「蓮君の予知能力は、悲劇を防ぐための『武器』なんです。私たちと組み合わせることで、最強の防御システムになるんですよ」
ファントムさんも頷いた。
「俺たちは今まで、敵の動きを完全に予測することはできなかった。でも蓮君がいれば、常に一歩先を行くことができる。これほど心強いことはない」
皆の言葉が、僕に勇気を与えてくれた。一人では無力だった僕の能力が、仲間がいることで大きな力になる。
午後1時、最終的な装備チェックが行われた。僕にも特製の防弾ベストと無線機、そして先ほどの緊急発信機が渡された。
「君は非戦闘員だが、万が一の時のための最低限の装備だ」
ヴォルフさんが説明してくれた。
午後1時30分、僕たちは現場に向かった。地下駐車場から専用の車両で移動する。車内では最後の確認が行われていた。
「敵の特徴をもう一度確認しよう」
オラクルさんが資料を読み上げる。
「炎使い『イフリート』ーー本名不明、年齢30代前半、青白い炎を操る能力。過去に3件の放火事件に関与。重力操作者『グラビティ』ーー本名不明、年齢20代後半、重力場を自在に操る。建物破壊のプロ。精神操作者『マインド』ーー本名不明、年齢40代前半、他人の感情や記憶に干渉可能。集団パニックの専門家……二つ名は我々のコードネームのようなものであくまで我々が呼んでいる仮称だ」
どれも恐ろしい能力ばかりだった。しかも彼らは「瀾」の中でも精鋭部隊らしい。
ミッドタウン・プラザが見えてきた。平日にも関わらず多くの人で賑わっていた。買い物客、観光客、ビジネスマンーーみんな普通の日常を過ごしている。子供連れの家族もいれば、恋人同士で手をつないでいる若いカップルもいる。年配のご夫婦が楽しそうに話しながら歩いている。
この人たちが、30分後に地獄を見ることになるなんて、誰も知らない。
「蓮君、大丈夫か?」
ヴォルフさんが心配そうに声をかけた。僕の顔が青ざめているのがわかったのだろう。
「はい…ただ、この人たちが傷つくのを想像すると…」
予知で視た光景が蘇ってくる。炎に包まれて逃げ惑う人々、崩れる建物の下敷きになる子供たち、パニックに陥って互いを傷つけ合う大人たち。
「だからこそ、我々がいるんだ。君の力で、この人たちを守ることができる」
「そうです」
サイさんも言った。
「今日私たちがここにいるのは、蓮君のおかげです。あなたがいなければ、この悲劇を防ぐことはできませんでした」
僕は近くの喫茶店に配置された。「カフェ・ドゥース」という、おしゃれな雰囲気の店だった。窓際の席からミッドタウン・プラザ全体を見渡すことができる。無線機を身につけ、いつでも仲間たちと連絡が取れる状態だった。
ミスティーさんも同じ店の別の席に座り、何かの機械を操作していた。それは小型のタブレット端末のようだったが、画面には見たことのない複雑な図形が表示されている。
「これは敵の能力の情報をシミュレートできる装置です」
彼女が説明してくれた。
「あなたの予知と合わせて、より正確な情報を得ることができます。敵の能力の強さ、射程距離、持続時間なども予測できるんです」
「すごいですね。そんな技術があるなんて」
「これも異能力を応用した技術の一つです。私の情報操作能力と、オラクルの分析能力を組み合わせて開発しました」
ミスティーさんの能力は情報操作だったのか。確かに、彼女の周囲にいると、なぜか安心感があった。きっと僕の不安な感情も、ある程度コントロールしてくれているのだろう。
午後1時50分。
店内の他の客たちは、まだ普通に会話を楽しんでいた。隣のテーブルでは女子大生らしき二人組が、ケーキを食べながら恋愛話をしている。奥の席では中年のサラリーマンが、資料を広げて仕事をしている。
でも5分後には、この平和な光景が一変する。
午後1時55分。
僕の心臓が激しく鼓動し始めた。予知で視た光景が、いよいよ現実になろうとしている。手のひらに汗がにじんできて、呼吸が浅くなってくる。
「全員、配置についた。蓮君、何か変化はあるか?」
ヴォルフさんの声が無線から聞こえる。
「まだです。でも…もうすぐです」
ミスティーさんの機械が赤く点滅し始めた。
「異能力の反応を複数感知しました。予想位置に敵が接近中です」
午後1時58分。
街の雑踏が、いつもより静かに感じられた。まるで嵐の前の静けさのように。
午後1時59分。
僕の予知能力が反応し始めた。頭の奥に、あの独特の感覚が戻ってくる。
午後2時0分。
時計の針が2時を指した瞬間、僕は視た。
「来ます!エントランスから黒いコートの男性、非常階段に赤い帽子の女性、そして屋上にーー」
その時だった。
ミッドタウン・プラザのエントランスから現れた男性が、手のひらから巨大な火球を放った。まさに僕が予知した通りの展開だった。青白い炎が建物内部に広がっていく。
「ヴォルフさん、1階です!イフリートが火球をーー」
「了解」
ヴォルフさんが超人的な速度で移動するのが見えた。まるで青い稲妻のように、炎の中を駆け抜けていく。炎使いと格闘を始める。青い光が炎を打ち消していく。
同時に、非常階段ではサイさんが重力操作者と対峙していた。建物が不自然に揺れ始めるが、サイさんの念動力がそれを支えている。彼女の周囲には青白いオーラが立ち上っていて、建物全体を包み込んでいるようだった。
「ファントムさん、屋上の敵が動きます!マインドが精神攻撃をーー」
「わかった」
ファントムさんが瞬間移動で屋上に現れる。一瞬で距離を詰めて、精神操作者との戦闘に入った。
作戦は順調に進んでいるように見えた。僕の予知通りに敵が現れ、仲間たちが的確に対処している。建物内の一般人たちも、まだパニックに陥ることなく、比較的冷静に避難を開始していた。
「素晴らしい連携ですね」
ミスティーさんが微笑んだ。
「あなたの予知能力のおかげです。敵の動きを完全に読めています」
僕も少し安心した。このまま行けば、大きな被害を出すことなく事件を解決できるかもしれない。
でも、その時だった。
ミスティーさんの機械が突然激しく鳴り始めた。警告音のような、甲高い電子音が響く。
「これは…予想外の反応です!」
彼女の顔が青ざめた。
「新たな異能力の反応を感知しました。しかも非常に強力なーー」
その瞬間、僕の脳裏に新しい映像が浮かんだ。予知していなかった、四人目の敵。地下駐車場から現れる、爆発物を操る能力者の姿がーー
彼は『ボマー』というコードネームで呼ばれる男で、手のひらから爆弾を生成する能力を持っていた。そして今、建物の地下に複数の爆弾を設置している最中だった。
「みんな、危険です!地下に四人目の敵が!」
僕は慌てて無線に向かって叫んだ。
「何だって?」
ヴォルフさんの声に動揺が見える。
「地下駐車場に爆弾を仕掛けています!建物全体がーー」
その瞬間、地面が激しく揺れた。地下で爆発が起きたのだ。爆発の衝撃で、喫茶店の窓ガラスが全て割れた。僕とミスティーさんは慌てて身を伏せる。
僕の予知能力は完璧ではなかった。すべてを視ることはできない。そして今、その限界が露呈してしまった。
「蓮君、君はそこにいろ!」
ヴォルフさんの声が聞こえたが、僕はもう立ち上がっていた。ガラスの破片で頬を切ったのか、血が流れているのを感じた。
「待って」
ミスティーさんが僕の腕を掴んだ。
「危険すぎます」
「でもこのままじゃ…」
このまま安全な場所にいることはできない。予知しきれなかった敵がいる以上、僕も行動を起こさなければならない。建物が崩壊すれば、避難中の一般人たちが巻き込まれてしまう。
「あなたの気持ちはわかります」
ミスティーさんが真剣な表情で言った。
「でもあなたが危険に晒されれば、仲間たちはあなたを守ることに集中してしまう。それでは本末転倒です」
「でも…」
その時、新たな予知が僕の脳裏に浮かんだ。地下の爆発で建物の構造が不安定になり、5分後に一部が崩壊する映像がーー東側の3階部分が崩れ落ち、中にいた数十人の人々がーー
「みんな、建物が崩れます!東側の3階部分が5分後に崩壊します!避難誘導を急いでください!」
この情報が、戦況を大きく変えることになった。
「了解した」
ヴォルフさんの声が聞こえる。
「サイ、建物の東側を念動力で支えてくれ。ファントム、3階の避難誘導を頼む」
「わかりました」
「了解」
仲間たちが連携して動き始める。僕の情報によって、最悪の事態を回避できるかもしれない。
でも同時に、僕は自分の無力さを痛感していた。予知能力があっても、すべてを視ることはできない。そして視ることができても、直接的に人を救うことはできない。
「蓮君」
ミスティーさんが僕の肩に手を置いた。
「あなたは十分に頑張っています。完璧な能力なんて存在しません。でも仲間がいれば、お互いの不足を補い合うことができるんです」
「それに」
彼女は続けた。
「あなたの予知があったからこそ、我々は準備ができました。もしあなたがいなければ、この時点で数百人の犠牲者が出ていたでしょう」
その言葉が、僕の心を少し落ち着かせてくれた。