悲劇を変えるために
僕の名前は奏江 蓮。二十歳の大学生で、誰にも言えない秘密を抱えている。
それは、人間が起こす悲劇が視えるということだ。
毎夜、僕は眠りにつくと必ず悪夢を見る。それは僕の知らない場所で起きた、あるいは起きる悲劇の光景だ。戦争、事故、殺人、自殺—人間の歴史に刻まれたあらゆる悲しみが、まるで映画のように僕の脳裏に流れ込んでくる。
時にはアウシュビッツの収容所で、骨と皮だけになった囚人たちが最期の息を引き取る瞬間を。時には広島の原爆投下直後で、炎に包まれた街を彷徨う人々の絶望を。時には見知らぬ誰かの最期の瞬間で、その人が人生で最も大切にしていたものを失う痛みを。
そのどれもが鮮明で、リアルで、まるで僕自身がその場にいるかのような臨場感を持っている。目を覚ました後も、その感覚は長時間にわたって僕の心を蝕み続ける。血の匂い、炎の熱さ、死への恐怖—すべてが僕の記憶に焼き付いて離れない。
そして日常生活でも、僕は悲劇の痕跡を見ることができる。事故現場を通りかかれば、そこで何が起きたのかが鮮明に視える。交通事故で命を落とした人の最期の瞬間、飛び降り自殺をした人の絶望、殺人現場に残された憎しみと恐怖—それらすべてが、まるでそこに映像が投影されているかのように僕の目に映る。
さらに厄介なことに、これから起こる悲劇まで視えてしまうのだ。まだ起きていない事故、まだ犯されていない犯罪、まだ失われていない命—未来の悲劇が、現在進行形で僕の意識に流れ込んでくる。
不思議なことに、僕の中では過去と未来の区別ははっきりとついている。過去の悲劇は重く沈んだ色彩で、セピア色のフィルターがかかったような古い映画のように感じられる。一方、未来の悲劇は鋭く光るような感覚で伝わってくる。まるで蛍光灯のような冷たい光に照らされた、鮮烈な映像として。
そして稀に、僕が介入して未来の悲劇を防げた時は、その光景が煙のように消えて、全身を包む深い安堵感を感じる。まるで重い荷物を下ろしたような、心の奥底からの解放感だ。でもそんな成功体験は、本当に稀なことでしかない。
この異常な能力に気づいたのは中学一年の時だった。当時僕は、まだこの力を完全には理解していなかった。ただ、時々変な夢を見るくらいの認識でしかなかった。
その日の朝、僕はクラスメイトの山田が翌日交通事故に遭う光景を視た。彼が通学路の角で、スピードを出しすぎたトラックに跳ね飛ばされる瞬間を。血まみれになって道路に倒れ、意識を失っていく様子を。そしてその後、病院に運ばれても意識が戻らないまま—
僕は慌てて山田に近づいた。
「山田君、明日は違う道で学校に来た方がいいよ。なんか、危険な気がするんだ」
でも山田は僕を奇怪そうに見つめるだけだった。
「何それ、占い?奏江って変なこと言うんだな」
僕は必死に説明しようとした。でも「夢で見たんだ」「予知夢だと思う」なんて言えば、完全に頭のおかしい奴だと思われるだけだ。結局、僕の言葉は山田には届かなかった。
翌日、事故現場に行って最悪身を挺して守ろうとしたのだが、足がすくんで動かず、悪夢はそのまま現実となった。
山田は僕が視た通りの場所で、視た通りの時刻に、視た通りの事故に遭い、戻らぬ人となった。
その事件以来、僕は自分の能力を恐れるようになった。そして何より、人との関わりを避けるようになった。
誰かと親しくなれば、その人の悲劇も視えてしまうかもしれない。友達になった相手が事故に遭う未来を見てしまったら、恋人ができてもその人の死を予知してしまったら—ー僕はそんな恐怖に支配されて、一人で生きることを選んだ。
中学、高校と、僕は意図的に人間関係を築かないように生活した。クラスメイトとは必要最小限の会話しかしない。部活動にも参加しない。放課後は誰とも関わらずに、まっすぐ家に帰る。
時々、心優しいクラスメイトが僕に声をかけてくれることもあった。でも僕は必ずそっけない態度で応え、距離を置いた。相手を傷つけることになるとわかっていても、それが彼らを守ることになると信じていた。
大学でも僕は孤独だった。三年生になった今でも、親しい友人は一人もいない。授業には出席するが、誰とも話さない。グループワークが必要な時は、仕方なく近くの人と組むが、課題が終われば再び一人に戻る。昼食も一人で取り、放課後はまっすぐ家に帰る。
同じ学科の学生たちは、僕のことを「変わった奴」「近寄りがたい人」として認識しているようだった。でもそれで良かった。僕にとって、それが一番安全な関係性だった。
アパートでの一人の時間が、僕にとって唯一の安らぎだった。誰とも関わらず、誰の悲劇も視ることなく、ただ静かに過ごす時間。でもその平穏も、毎夜の悪夢によって破られる。
眠りにつけば、必ず世界のどこかで起きている、あるいは起きる予定の悲劇を視ることになる。目を覚ませば、心臓が激しく鼓動し、冷や汗が全身を覆っている。そんな日々を三年間続けていた。
時々、僕は自分の人生に絶望した。この能力がなければ、普通の大学生活を送れていたかもしれない。友達を作り、恋人を作り、みんなで笑い合える日々を過ごせていたかもしれない。
でも現実は違った。僕は一人で、いつも一人で、この重い秘密を抱えながら生きていくしかなかった。
十月の肌寒い夕方、僕はいつものように大学からの帰り道を歩いていた。講義が長引いて、いつもより遅い時間になっていた。夕日が建物の間に沈みかけ、街に長い影を落としている。
駅前の商店街は、仕事帰りの会社員や買い物客で賑わっていた。僕はその人込みを縫うように歩き、できるだけ他人と目を合わせないように注意していた。商店街を抜けて、住宅街に入ったところで—それは突然視えた。
一時間半後、この商店街で通り魔事件が起きる。
映像は鮮明だった。黒いパーカーを着た男が、手に包丁を握りしめて商店街に現れる。その男の顔は痩せこけていて、目には異常な光が宿っていた。薬物中毒者特有の、現実と妄想の境界が曖昧になった表情だった。
最初の被害者は買い物帰りの主婦。三十代後半くらいの女性で、手には夕食の材料が入ったスーパーの袋を持っていた。きっと家で家族が帰りを待っているのだろう。でも彼女は背後から襲われ、背中を深く刺される。
二人目は高校生の男の子。制服姿で、恐らく部活動の帰りだった。最初の被害を見て逃げようとしたが、犯人に追いつかれて腹部を刺される。彼の制服には学校の名前が刺繍されていた。近所の進学校の生徒だった。
三人目はーー僕の脳裏に映像が続いた。
老人、子供、通りがかった会社員……犯人は見境なく刃物を振り回し、逃げ惑う人々を次々と襲っていく。
血まみれの商店街、人々の悲鳴、救急車のサイレンーー
僕の頭の中で鮮明な映像が展開される。それは僕がこれまで視た中でも、特に残虐で無差別な事件だった。最終的に死者は五人、重軽傷者は十数人に上る予定だった。
犯人の顔もはっきりと視えた。二十代後半くらいの痩せた男性で、頬がこけて目の下にクマができていた。髪はボサボサで、明らかに身なりを整えていない。そして何より、その目に宿る狂気的な光が印象的だった。
いつもなら僕は見て見ぬふりをする。関わりたくない、巻き込まれたくない。これまでの七年間、僕は一貫してそうしてきた。でも今回は—なぜか足が動かなかった。
「また見殺しにするのか」
心の中で声がした。それは僕自身の声だった。山田のことを思い出す。あの時も僕は結局何もできなかった。そして中学生の時から今まで、僕は数え切れないほどの悲劇を視ながら、そのほとんどを見過ごしてきた。
気がつくと、僕は商店街を走っていた。息が切れ、心臓が激しく鼓動している。犯人を探して、何とか止めようと必死だった。でも一時間半という時間は思ったより短く、人混みの中で一人の男を見つけるのは困難を極めた。
僕は商店街の端から端まで、何度も往復した。コンビニ、書店、薬局、居酒屋—一軒一軒覗き込んで、犯人らしき男がいないか探した。でも見つからない。時計を見ると、もう三十分が経過していた。
焦りが募る。僕は住宅街にも足を向けた。もしかすると犯人は近くのアパートや一軒家にいるのかもしれない。でも個人の住居を一軒一軒回るわけにもいかない。
一時間が経過した。残り三十分。僕の額には汗が浮かんでいた。
「どこにいるんだ…」
僕は呟いた。視た映像では、犯人は確実にこの商店街に現れるはずだった。でも現在の時点では、まったく姿が見えない。
もしかして別の場所にいるのかもしれない。もしかして僕の見間違いなのかもしれないーーそんな希望的観測が頭をよぎった。でも僕の予知能力が外れることは滅多にない。視えた光景は確実に近づいている。
残り十分。
僕は半ば絶望していた。この能力があっても、結局何もできない。いつものように悲劇は起き、僕はただそれを視ているだけ。そして今回も、多くの人が傷つき、命を失うことになる。
「なんで僕なんかに、こんな能力があるんだ…」
僕は立ち止まり、空を見上げた。既に日は完全に沈み、街灯が点き始めている。商店街の雑踏は相変わらず続いていて、人々は何も知らずに普段通りの生活を送っている。
その時だった。
向こうから歩いてくる一人の男性と目が合った。三十代前半くらいだろうか、身長は180センチほどで、がっしりとした体格をしている。
スーツを着ているが、どこか軍人のような鋭い眼差しと、落ち着いた雰囲気を持っていた。そして何より、普通の人とは違うオーラを纏っていた。
そして僕は—この人を知っていた。
以前、視た悲劇の中に彼がいた。半年前の大規模な工場爆発事故。化学工場で起きた爆発により、建物が崩壊し、多くの作業員が取り残された事件だった。普通なら消防隊の到着を待つしかない状況で、彼は一人で現場に向かった。
その時の光景を、僕は鮮明に覚えている。彼は炎に包まれた建物の壁を、まるで重力を無視するかのように垂直に駆け上がった。人間離れした速度で移動し、崩れ落ちる瓦礫を素手で押しのけ、取り残された人々を次々と救出していった。
一人で十数人の命を救ったのだ。彼の活躍がなければ、あの事故の死者は三倍以上になっていただろう。
「お願いします!」
僕は彼に駆け寄った。もう時間がない。残り十分を切っている。
男性は一歩後ろに下がった。警戒するような眼差しで僕を見つめている。その瞳は深い青色で、まるで氷のように冷たく光っていた。
「君は誰だ?」
その声には明らかに疑いの色があった。低くて落ち着いた声だが、同時に有無を言わさぬ威圧感もあった。
「僕は奏江蓮といいます。あなたのことを視たんです。半年前の工場爆発事故の時に」
「視た?」
男性の表情が変わった。眉がわずかに動き、僕を見つめる目が鋭くなる。
「まさか君は……」
「お願いします、話を聞いてください!」
僕は必死に続けた。もう時間がない。今すぐにでも行動を起こさなければ。
「あと十分もしないうちに、ここで通り魔事件が起きます。黒いパーカーを着た男が刃物で無差別に人を襲います。最初の被害者は買い物帰りの主婦で、二人目は高校生でーー」
「待て」
男性は手を上げて僕を制した。その手は大きくて、指が長かった。格闘技の経験がありそうな、鍛えられた手だった。
「落ち着いて話せ。まず、君がなぜそんなことを知っているのか説明してもらおう」
時間がないのに。僕は焦った。でも彼の目は真剣だった。完全に疑っているわけではない。何かを確かめようとしているようなーーまるで僕のような存在を、以前から知っているかのような反応だった。
「僕には悲劇が視える能力があります。過去に起きたことも、これから起きることも。あなたのことも以前視ました。あの工場で、あなたは普通じゃない力を使って人を救っていた」
男性の目が鋭く光った。まるでレーザーのような視線が僕を貫く。
「普通じゃない力、とは?」
「重力を無視して壁を駆け上がったり、人間離れした速度で動いたり、素手で鉄骨を曲げたり—」
その瞬間、男性の体から淡い青白い光が立ち上った。それは一瞬のことで、一般人なら気づかなかっただろう。でも僕には視えた。彼の周囲に纏わりつく、異能の力の光を。それは炎のように揺らめいていて、同時に電気のように鋭い輝きを放っていた。
「君は、本物のようだな」
男性は呟いた。その声は先ほどの警戒心を含んだものとは違い、どこか安堵したような響きがあった。
「私の名前はヴォルフだ。詳しく聞かせてくれ」
僕は震えながら説明した。通り魔事件のこと、犯人の特徴のこと、被害者のことを。犯人が現れる場所、襲撃の順序、使用する凶器の種類、すべてを詳細に伝えた。
ヴォルフさんは今度は一言も疑わず、真剣に聞いてくれた。時々質問を挟みながら、僕の話を漏らさず記憶しているようだった。
「分かった。任せろ」
彼は何かの通信機器を取り出した。それは普通の携帯電話とは違う、軍用のような無線機だった。短く指示を出す声が聞こえる。
「コード・レッド。商店街北部で無差別襲撃予定。鎮圧に向かう。時間がない。援護は不要、俺が一人でやる」
そして僕に向かって言った。
「君の名前は?」
「奏江、奏江蓮です」
「蓮君、君の能力は決して呪いなんかじゃない。それは多くの人を救うことができる、かけがえのない力だ」
その言葉が、僕の心に深く響いた。これまで七年間、この能力を呪いだと思い続けてきた。でも初めて、それを「力」だと言ってくれる人に出会った。
残り五分を切った時、商店街の向こうから黒いパーカーの男が現れた。僕が視た通りの顔、僕が視た通りの凶器を持って。男は右手に包丁を握りしめ、左右を見回しながらゆっくりと歩いてくる。
だが今度は違った。
ヴォルフさんは一瞬で姿を消した。いや、消えたのではない。人間の目では追えないほどの速度で移動したのだ。空気が僅かに歪んで見えたかと思うと、次の瞬間には犯人の背後に立っていた。
犯人が最初の標的の買い物帰りの主婦に向かって刃を振り上げた瞬間、ヴォルフさんが背後に現れた。彼の手から放たれた青い光が犯人を包み、男はその場に崩れ落ちた。気を失っていた。包丁は地面に落ち、金属音を響かせる。
事件は一分も経たずに制圧された。犯人は意識を失い、周囲の人々は何が起きたのかさえ理解していない。まるで魔法のような手際の良さだった。
僕の中で、あの光景が消えた。未来の悲劇を示していた鋭い光が煙のように消え去り、代わりに深い安堵感が全身を包んだ。
事件の後、ヴォルフさんは僕を近くのカフェに連れて行った。その店は商店街の奥にある小さな喫茶店で、年配のマスターが一人で切り盛りしている落ち着いた雰囲気の場所だった。
僕たちは奥の席に座った。ヴォルフさんはブラックコーヒー、僕はホットココアを注文した。温かい飲み物が、震えている僕の心を少し落ち着かせてくれた。
「君のような能力を持つ人間は、非常に稀だ」
ヴォルフさんは静かに口を開いた。コーヒーカップを両手で包み込みながら、真剣な表情で僕を見つめている。
「私たちは、表向きは存在しない組織で活動している。正式名称は『特殊事態対処機関』。略して『特対機関』と呼んでいる。日本の秩序と平和を守るのが我々の使命だ。そして私たちは皆、君が視たような特殊な能力ーー異能力を持っている」
「異能力…」
僕は呟いた。自分以外にも特殊な力を持つ人がいる。それも組織として活動している。今まで一人で抱え込んできた秘密が、実はそれほど珍しいことではないのかもしれない。
「そうだ。私の能力は身体能力の極限的な強化。筋力、反射神経、運動能力のすべてを人間の限界を超えて向上させることができる。重力に逆らい、光の速度に近づくことも可能だ。先ほど君が見た通りにね」
ヴォルフさんは手のひらを僕に向けた。すると、その手から再び青白い光が立ち上る。今度は先ほどより強く、より鮮明に。まるで手の中に小さな星が宿っているかのようだった。
「仲間たちもそれぞれ違う力を持っている。念動力で物体を操る者、瞬間移動で空間を移動する者、他人の記憶や感情に干渉する者—様々な能力者が集まって組織を構成している」
「でもーー」
僕は言葉を選びながら続けた。
「なぜそんな組織が必要なんですか?」
ヴォルフさんの表情が少し暗くなった。
「異能力は、必ずしも善良な人間だけが持つものではない。中には能力を悪用し、一般人を害する者もいる。今日君が視た通り魔事件の犯人も、実は軽度の精神操作能力を持っていた。だからこそ、あれほど多くの人を襲うことができる計画を立てられたのだ」
僕は驚いた。あの犯人も異能力者だったのか。
「近年、そうした悪質な異能力犯罪が増加している。警察や自衛隊では対処しきれない事件が多発しているのが現状だ。だからこそ、我々のような組織が必要になる」
ヴォルフさんはコーヒーを一口飲んだ。
「だが君の力は特別だ。未来を視ることができる能力者は、この国に君一人しかいない。いや、世界的に見ても極めて稀な能力だ。君の予知能力があれば、事件を未然に防ぐことができる。多くの命を救うことができるんだ」
僕は驚いていた。自分以外にも特殊な力を持つ人がいることに。そして僕の能力が、それほど貴重なものだということに。
「僕は、ずっとこの能力を呪いだと思ってきました」
僕の声は小さかった。
「毎夜悪夢に苦しめられて、人との関わりを避けて、一人で生きてきました。この力があるせいで、普通の生活を送ることができなかった」
「確かに辛いだろう」
ヴォルフさんは優しい声で言った。
「異能力を持つ者は皆、同じような苦悩を抱えている。力があるがゆえの孤独、責任、そして恐怖—我々も同じ道を歩んできた」
「でも今日、君は多くの人の命を救った。君がいなければ、あの悲劇は現実になっていた。五人の尊い命が失われ、十数人が傷つくことになっていたんだ」
ヴォルフさんの言葉が、僕の心に深く響いた。初めて、この能力が誰かの役に立ったのだ。初めて、僕の存在に意味があると感じることができた。
「そしてーー」
ヴォルフさんは少し表情を曇らせた。
「実は最近、従来よりも大規模で凶悪な事件が多発している。背後には『瀾』と呼ばれる異能力犯罪集団がいる。彼らは組織的に犯罪を計画し、その名の通り一般社会に大波をもたらそうとしている」
「瀾……」
「彼らの目的は、異能力者による新しい社会秩序の構築だ。一般人を支配し、異能力者が頂点に立つ世界を作ろうとしている。そのために、無差別テロや大規模な破壊活動を繰り返している」
僕は震え上がった。そんな恐ろしい組織が存在するなんて。
「我々の力だけでは限界がある。彼らの計画を事前に察知することができれば……君の予知能力があれば、多くの悲劇を防ぐことができるんだ」
ヴォルフさんは僕を真剣に見つめた。
「もし良ければ、我々と一緒に働かないか?君の力で、もっと多くの人を救うことができる。そして君自身も、一人で抱え込んできた重荷を分かち合うことができる」
僕は長い間考えた。ヴォルフさんの提案は魅力的だった。一人で抱え込んできた秘密を理解してくれる人たち。この能力を活かして、人の役に立てる可能性。
でも同時に、恐怖もあった。もし失敗したら?もし僕のせいで誰かが傷ついたら?もし僕の能力が役に立たなかったら?
そして何より、僕は七年間も一人で生きてきた。人との関わりを避け続けてきた。今更、組織の一員として働くことができるのだろうか。
答えは最初から決まっていた。
「すみません」
僕は頭を下げた。
「僕には、無理です」
「蓮君……」
「僕は今日、たまたま運良く間に合っただけです。でもいつもはそうじゃない。山田の時も、他にも何度もあった。けれど僕は結局、誰も救えなかった」
僕の声は震えていた。これまで抑え込んできた感情が、一気に溢れ出してきた。
「今日だって、僕一人じゃ何もできませんでした。犯人を見つけることもできず、ただ右往左往していただけです。あなたたちがいなければ、結局同じことになっていた」
ヴォルフさんは何も言わずに聞いていた。
「僕は……僕は弱いんです。人と関わるのが怖くて、七年間も一人で逃げ続けてきたような人間なんです。責任を背負うことも、誰かと協力することも、できません」
僕は声を詰まらせながら続けた。
「あなたたちは強い。一人でも戦える力を持っている。でも僕は違う。視ることしかできないんです。そして視たところで、ほとんどの場合何もできない。こんな僕が組織の一員になったって、きっと足手まといになるだけです」
僕は立ち上がった。
「今日は、ありがとうございました。僕の能力を認めてくれて、初めて誰かの役に立てて、それだけで十分です。でも僕は—普通に生きていきます」
ヴォルフさんは最後まで引き止めなかった。ただ、僕が店を出る時に一言だけ言った。
「君が気が変わったら、いつでも連絡してくれ」
彼は名刺を差し出した。それは普通の名刺とは違い、特殊な材質で作られているようだった。表面には「ヴォルフ善一 特殊事態対処機関」とだけ印刷されていて、裏面には24時間対応の連絡先が記されていた。
「君の力は、確実に必要とされている」
僕はその名刺を受け取ったが、使うつもりはなかった。家に帰って、机の引き出しの奥にしまい込んだ。そして二度と取り出すことはないだろうと思っていた。
それから一週間、僕はいつもの日常に戻った。大学に行き、授業を受け、一人で昼食を取り、まっすぐ家に帰る。表面的には何も変わらない生活だった。
でも内心では、大きな変化が起きていた。
ヴォルフさんとの出会い、初めて能力を認めてもらえたこと、そして実際に人の命を救えたという事実—それらが僕の心に深い影響を与えていた。
同時に、断ってしまったことへの後悔もあった。本当にあのままで良かったのか。僕にもできることがあったのではないか。そんな思いが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
そして何より、あの日以来、悪夢の質が変わったのだ。以前よりも鮮明に、そして頻繁に視えるようになった。まるで僕の能力が覚醒したかのように。
毎夜、世界各地で起きる悲劇が次々と僕の脳裏に流れ込んでくる。戦争、テロ、事故、殺人ーーそのすべてが以前より詳細に、リアルに感じられた。目を覚ますたびに、全身が汗でびっしょりになっていた。
そして三日前の夜、僕は恐ろしいものを視た。
それは今まで見た中でも、最も大規模で恐ろしい悲劇だった。
都心の高層ビル—東京の中心部にある、40階建ての複合商業施設。その名前は「ミッドタウン・プラザ」。僕も何度か訪れたことがある、有名なショッピングモールだった。
平日の午後、多くの買い物客で賑わう時間帯。そこに異能力を持った犯罪者たち—「瀾」のメンバーが襲撃をかける光景が展開された。
最初に現れたのは炎を操る能力者だった。彼は1階のエントランスで手のひらから巨大な火球を放ち、建物内部を火の海に変えた。避難しようとする人々が、炎に包まれて次々と倒れていく。
次に現れたのは重力を操る能力者。彼は建物の構造そのものに干渉し、柱や梁を破壊していく。ビルが崩れ始め、上階にいた人々が閉じ込められる。
そして最後に現れたのは、精神操作系の能力者だった。彼は逃げ惑う人々の心を支配し、互いに争わせ始めた。パニック状態の中で、人々が傷つけ合う地獄絵図が展開される。
最終的な被害予測は—死者200人以上、負傷者500人以上。日本の異能力犯罪史上、最悪の大惨事になるはずだった。
そしてその事件は、二日後—明日の午後2時に起きる予定だった。
僕は冷や汗をかいて目を覚ました。布団は汗でびっしょりになり、心臓が激しく鼓動していた。あまりにもリアルで、あまりにも恐ろしい光景だった。
それはヴォルフさんが言っていた、「瀾」による大規模テロだったのだ。今度はヴォルフさんたちだけでは対処しきれないほどの規模で、計画的に実行される犯罪だった。
僕は机の引き出しを開けた。ヴォルフさんの名刺がそこにあった。
電話をかけるべきか。でも僕が伝えたところで、今度はうまくいくとは限らない。あれほど大規模な事件を、本当に防ぐことができるのだろうか。
それに僕は一度断っているのだ。今更連絡を取ったって、都合の良い奴だと思われるだけかもしれない。
僕は弱虫だ。いつも逃げてばかりいる。今回だって、きっと同じことになる。
でも、視てしまった以上、何もしないわけにはいかなかった。200人以上の人が死ぬ光景を、ただ黙って見過ごすことはできない。その中には、子供や老人も含まれていた。罪のない人々が、理不尽な暴力によって命を奪われることになるのだ。
僕は一晩中悩み続けた。朝になっても答えは出なかった。大学に行っても、授業に集中することができなかった。頭の中では、あの恐ろしい光景が繰り返し再生されていた。
そして夕方、僕はついに決心した。
翌日の夜、僕は電話をかけた。手が震えて、何度もダイヤルを間違えそうになった。
「ヴォルフです」
いつもの落ち着いた声が聞こえた。
「あの、奏江です。一週間前の」
「蓮君か。どうした?」
ヴォルフさんの声には、僕が断ったことへの恨みや失望は感じられなかった。むしろ、心配するような響きがあった。
僕は震え声で、視た光景を説明した。ミッドタウン・プラザでのテロ事件、犯人たちの能力、被害の規模、すべてを詳細に伝えた。
ヴォルフさんは黙って聞いていたが、途中で息を呑む音が聞こえた。
「それは想像以上に深刻な事態だ」
「分かった。詳しく話を聞かせてほしい。今から君のところに向かう」
一時間後、ヴォルフさんは僕のアパートにいた。今度は一人ではなく、もう一人の男性を連れてきていた。
「こちらはオラクルだ。我々の組織の分析官をしている」
オラクルと紹介された男性は、三十代半ばくらいで、眼鏡をかけた知的な印象の人だった。手にはタブレット端末を持っていて、僕の話を記録する準備をしているようだった。
僕は再び、視た光景を詳細に説明した。犯人の人数、それぞれの能力の種類、攻撃の手順、時刻、被害規模—記憶している限りのすべてを伝えた。
オラクルさんは僕の話を聞きながら、タブレットに詳細なメモを取っていた。時々質問を挟み、より正確な情報を引き出そうとしていた。
「これは—想像以上に厄介だ」
話を聞き終えた後、ヴォルフさんは眉をひそめた。
「君の情報がなければ、確実に多くの犠牲者が出ていただろう。いや、日本の異能力者社会そのものが、致命的な打撃を受けることになっていたかもしれない」
「でも僕はーー」
僕は言いかけたが、ヴォルフさんが手を上げて制した。
「蓮君」
ヴォルフさんは僕を真剣に見つめた。
「君が弱いと思うなら、それでもいい。君が不安を感じるのも当然だ。我々だって、毎回完璧に任務を遂行できるわけではない。失敗することもあるし、力不足を感じることもある」
「でも今、君の力を必要としている人がいる。200人以上の命が、君の情報にかかっているんだ。君にしかできないことがある」
僕は俯いた。あの恐ろしい光景が、再び頭の中に蘇ってくる。
「一度だけでいい。我々と一緒に来てくれないか。現場で君の目を通して状況を把握できれば、作戦の成功率は格段に上がる。君は戦う必要はない。ただ、視たものを教えてくれればいい」
長い沈黙の後、僕は小さく頷いた。
「分かりました。でも—僕は足手まといになるかもしれません」
「それでも構わない」
ヴォルフさんは言った。
「君がいるだけで、救える命がある。それだけで十分だ。そして約束しよう。君は私達が身を挺してでも守ると」
それが僕の真の始まりだった。
自分を弱いと思っている主人公が、それでも行動を起こさざるを得ない状況。多くの命がかかった重要な任務への参加。
明日、僕は初めて戦いの現場に向かうことになる。恐怖と不安でいっぱいだったが、同時に、初めて自分の存在に意味があると感じることができた。
この選択が正しかったのか、僕にはまだわからない。でも少なくとも、一人で抱え込み続ける日々は終わりを告げようとしていた。