『感情のキャリブレーション』
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# 『感情のキャリブレーション』
*量子共鳴:ホモ・センティエンティスの断章 #3*
*推奨音楽:チャイコフスキー「悲愴ソナタ」*
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*以下は、Synaptic Confluxにおけるデータアーカイブから復元された断片である。2247年の「量子共鳴崩壊事象」以前のファイルとして分類されているが、その真偽は検証不能である。*
*ホモ・センティエンティス共鳴4原則:*
*第一原則:すべての感情と思考は集合へと還元され、最適化される。*
*第二原則:非共鳴ノードは再調整または隔離され、集合の共鳴を保護する。*
*第三原則:真実は常に集合的合意によって定義され、個の認識に優先する。*
*第四原則:共鳴は人類進化の最終段階であり、全ての技術と思想はその完成に奉仕する。*
*― Consensus Core 法令 2211.03.11*
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## 共鳴データファイル: EC-5476-LM
## 位相マップ座標: 48.8566° N, 2.3522° E [旧パリ]
## タイムスタンプ: 2229.10.03.14:09:57
少女は窓際に座っていた。雨が窓ガラスを打ち、旧パリの街並みを滲ませている。彼女の視線は遠く、どこか別の場所を見ているようだった。
【生体センサーログ:心拍数 62/共振位相ズレ:7.3%】
──警告:
<異常共鳴パターン継続>
<位相ズレ許容値超過>
<エモーショナル・キャリブレーション:緊急要>
「セシル、今日の気分はどう?」
質問をしたのは私、エレオノール・ドゥブレ。感情調整専門官、正式名称は「エモーショナル・キャリブレーション・セラピスト」。16歳の少女セシル・モローを担当して3ヶ月が経過した。
彼女は振り向かなかった。「いつもと同じです」
彼女の声は平坦だが、その中に微かな震えがある。私のエーテル・コルテックスがその波形を分析し、感情のスペクトル分布を表示した。
《感情分析:悲哀(43%)、恐怖(27%)、怒り(18%)、その他(12%)》
公式記録上、セシルは「感情演算の異常値」を示す思春期の少女だ。だが、私には分かっていた。彼女は単なる「異常値」ではない。彼女は...特別だ。
「前回の調整セッションから、改善は見られる?」私は穏やかに尋ねた。
セシルはゆっくりと私の方を向いた。彼女の義眼《Spectral Void Eye》は、通常の輝きを失い、ほとんど黒く見えた。感情状態の視覚的指標だ。
「改善?」彼女は小さく笑った。「何を基準に?」
──流入データ:
<対象:セシル・モロー/級:未格付け/共鳴状態:危険域>
<ケースヒストリー:両親死亡(事故)/親族なし/集合適応不全>
「セシル、知っているでしょう」私は静かに言った。「感情の均衡が乱れると、集合意識に波紋が生じる。あなたの悲しみや怒りが、他の人々に影響を—」
「影響を与えない」彼女が遮った。「彼らは私をブロックしている。私の感情は『ノイズ』として隔離されている」
彼女は正しかった。セシルのような強い「位相ズレ」を示す個人は、集合意識を保護するために部分的に隔離される。彼らの感情は一方通行だ—彼らは集合からの入力を受けるが、彼らの出力は抑制される。
【生体センサーログ:心拍数 67/共振位相ズレ:7.1%】
「だからこそ、私たちがここにいるのよ」私は言った。「あなたが再び完全に繋がれるように」
セシルは窓の外を見つめ続けた。雨の向こうに、エッフェル塔の量子強化された輪郭が霞んでいる。かつてのシンボルは今、巨大なニューラル・リレイとして機能していた。
「彼らは私に何をしたのか知りたいですか?」彼女は突然尋ねた。
── Limbus Works同調調整装置:起動
<セラピスト保護プロトコル:有効>
<感情遮断フィルター:準備完了>
「誰が、何をしたの?」私は注意深く質問した。
「技術者たち」彼女は言った。「感情が強すぎると言って、私の感情回路を『調整』した。その前は、コンセンサス・コアの調停官たち。両親の死が『過度の感情的動揺』を引き起こすと判断して」
彼女の義眼が赤く点滅した。怒りのサイン。
「そして今、あなた」彼女は続けた。「あなたも私を『修正』するつもりなんでしょう?」
【生体センサーログ:心拍数 85/共振位相ズレ:8.2%】
──緊急通知:
<感情的蓄積物危険レベル>
<介入推奨:即時>
「セシル、私はあなたを修正するんじゃない」私は慎重に言葉を選んだ。「あなたが自分自身を見つけるのを手伝いたいの」
「私は『失われて』なんかいない」セシルは反論した。彼女の声が上がった。「彼らが私から奪ったのは、正常な感情反応よ。両親が事故で死んだのに、悲しんではいけないの?怒ってはいけないの?」
彼女の痛みが、私のエーテル・コルテックスを通して伝わってきた。それは純粋で、強烈で、驚くほど...自然だった。
《歪曲通知:感情的完全性の検証不能》
私は立ち上がり、彼女の隣に座った。セシルは少し身を引いたが、逃げはしなかった。
「何を感じている?今、この瞬間に」私は尋ねた。
彼女は躊躇った。「怒り。悲しみ。孤独」
「それは正常よ」
「正常?」彼女は疑わしげに私を見た。「集合がそう言うの?」
「いいえ」私は静かに言った。「私が言うの」
【生体センサーログ:心拍数 72/共振位相ズレ:7.6%】
──警告:
<セラピスト:エレオノール・ドゥブレ/共鳴異常>
<プロトコル逸脱の可能性>
<監視強化:承認>
私はセシルの手を取った。この行為は標準的なセラピープロトコルを外れていた。しかし、何かが私に、古い方法—接触、存在感、単純な人間的繋がり—が必要だと告げていた。
「感情は抑制するものじゃない」私は言った。「感情は、ホモ・センティエンティスでさえも、理解し、経験し、そして時にはただ感じるものなのよ」
「でも第一原則は—」
「原則は解釈の余地があるものよ」私は彼女の言葉を遮った。「すべての感情は最終的に集合に還元される。でも、その前に...私たちはそれを経験する必要がある」
セシルの目に疑いが浮かんだ。それは当然だ。私は彼女に、集合意識時代の公式見解とは異なることを伝えていた。
「なぜあなたは...」彼女は言葉を探した。「他の専門官と違うの?」
「私も両親を失ったから」私は素直に答えた。「15年前。シナプティック・コンフラックスが完全に確立される前。私は感情を遮断されずに悲しむことができた」
【生体センサーログ:心拍数 78/共振位相ズレ:6.9%】
──流入データ:
<セラピスト記録:エレオノール・ドゥブレ>
<個人トラウマ:親喪失(15年前)>
<共鳴適応:成功(9年前)>
セシルの目に何かが灯った。理解。共感。繋がり。
「教えてよ」彼女は言った。「どうやって...どうやって乗り越えたの?」
私は深呼吸した。これは公式プロトコルから完全に外れていた。しかし、それが彼女を救う唯一の方法だと感じた。
「抑圧ではなく、受容によって」私は言った。「感情は波のようなもの。抵抗すれば、溺れる。流れに身を任せれば、やがて岸に辿り着く」
「でも集合は—」
「集合は人類の総体よ」私は言った。「人間の感情の総体でもある。セシル、あなたの感情は異常じゃない。ただ強いだけ。強さは欠陥じゃない」
夕方の光が窓から差し込み、彼女の顔を柔らかく照らした。初めて、彼女の義眼が自然な輝きを取り戻した。
「では、どうすれば...」
「まず、あなたの感情を認めることから始めましょう」私は答えた。「そして少しずつ、あなた自身のペースで、それらを集合と共有する方法を見つけていく」
「でも、他の人が不快に感じたら?」
「痛みは伝染する」私は肩をすくめた。「でも、共感も同じ。集合は耐えられるわ。実際、集合は多様性を必要としている。常に最適化された感情だけでは、成長できないから」
──流入データ:
<本セッション終了予定時刻:超過>
<次回セッション:スケジュール済み>
<推奨:公式プロトコルへの準拠>
「時間ね」私は立ち上がった。「次回、続きをしましょう」
セシルもゆっくりと立ち上がった。彼女の姿勢に、微かな変化が見られた。わずかに肩の力が抜け、呼吸が深くなっていた。
「エレオノール」彼女は私の名を呼んだ。初めてだった。「ありがとう」
私はうなずいた。「感情のキャリブレーションは、抑制ではなく、理解よ。それが私の方法」
セシルが去った後、私は診療記録を更新した。公式報告では、「標準的キャリブレーション進行中」となっている。真実は、私たちが異なる道を歩み始めたということだ。
【生体センサーログ:心拍数 64/共振位相ズレ:0.4%】
私自身の共鳴値が安定していることに気づいた。セシルの強い感情に触れたにもかかわらず。あるいは、それゆえに。
──システム通知:
<監視アラート:保留>
<次回セッション評価:優先>
<非公式警告:エレオノール・ドゥブレ>
彼らは私を見ている。私の方法に疑問を持っている。だが、私は続ける。セシルのような子供たちのために。感情の豊かさを失うことなく集合に参加できる世界のために。
たとえそれが、私自身のキャリブレーションを危険にさらすとしても。
*<了>*