『影の自由』
# 『影の自由』
*量子共鳴:ホモ・センティエンティスの断章 #11*
*推奨音楽:none*
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*以下は、Synaptic Confluxにおけるデータアーカイブから復元された断片である。2247年の「量子共鳴崩壊事象」以前のファイルとして分類されているが、その真偽は検証不能である。*
*ホモ・センティエンティス共鳴4原則:*
*第一原則:すべての感情と思考は集合へと還元され、最適化される。*
*第二原則:非共鳴ノードは再調整または隔離され、集合の共鳴を保護する。*
*第三原則:真実は常に集合的合意によって定義され、個の認識に優先する。*
*第四原則:共鳴は人類進化の最終段階であり、全ての技術と思想はその完成に奉仕する。*
*― Consensus Core 法令 2211.03.11*
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## 共鳴データファイル: JB-7702-AS
## 位相マップ座標: 記録なし [非共鳴区画C-17~不明座標]
## タイムスタンプ: 2238.12.04.22:47:09
[記憶信頼性: 63%]
私の時計によれば、消灯の30分後だった。だが「時計」と呼べるような装置は持っていない。ただの直感。身体の内部時計は、集合意識から切り離された今でも機能している。
【断片的生体データ: 心拍数 98 / アドレナリン上昇】
ナディアは予定通り、医療部門の夜間巡回許可を得ていた。彼女が私の部屋のドアを開けたとき、彼女の顔には緊張と決意が混在していた。
「準備はいい?」彼女は囁いた。
私は頷いた。準備といっても、心の準備だけだ。所持品はない。ただ亜極域崩壊事件についての知識を頭に詰め込んでいる。レイナーとの取引の代価だ。
「レイナーは?」
「セクターEで待っている」彼女は言った。「急ぎましょう」
──内的疑義:
<本当にうまくいくのか?>
<確率12パーセント...あまりに低い>
私たちは静かに廊下を進んだ。夜間は照明が落とされ、白い壁は青みがかった薄暗さに包まれていた。監視カメラは作動しているが、ナディアの医療許可によって正当な巡回と認識されるはずだ。理論上は。
[ノイズ: f@#7&!...]
「カーター准監督は?」私は小声で尋ねた。カーター准監督は非共鳴区画C-17の実質的な責任者で、ナディアと私の両方を監視していた。
「夜間は施設外」彼女は答えた。「24時間常駐しているのは下級職員だけ」
それは良いニュースだった。下級職員は変則的な状況への対応訓練が少なく、マニュアルに頼りがちだ。我々の計画にとっては好都合だ。
セクターEに向かう途中、私たちはB-12警備ステーションを迂回しなければならなかった。ナディアは自信ありげに前を歩き、私は彼女に続いた。我々は医療チームのふりをしていたが、体の震えは抑えられなかった。
【断片的生体データ: 瞳孔拡張 / 末梢血管収縮】
警備ステーションが視界に入った。そこには二人の警備員がいた。一人はコンソールを監視し、もう一人は入口に立っていた。
「医療巡回」ナディアは堂々と宣言し、彼女の許可証を見せた。「セクターE、特別患者の状態確認」
警備員は許可証を確認した。「夜間巡回は通常、二週間前に予定を提出するものです」
──内的疑義:
<ここで計画が崩れる?>
<別のルートはないのか?>
「緊急プロトコル」ナディアは躊躇せずに言った。「マン神経症状が観察されたため。詳細はデータベースをご確認ください」
マン神経症状—私は聞いたことがない。医学用語か、それともナディアの即興か?
警備員はコンソールで何かを確認した。数秒の沈黙が永遠のように感じられた。
「確認できました」彼は最終的に言った。「セクターE、患者ID-TR673。通過許可します」
[...データ欠損...]
セクターEの入口で、レイナーが待っていた。どうやって彼は自分の部屋から出たのか?監視カメラに捉えられなかったのか?彼の技術的知識が想像以上に深いことを物語っていた。
「予定より3分42秒遅れ」彼は挨拶代わりに言った。「移動効率を再計算する必要がある」
「済まない」私は言った。「警備ステーションで—」
「説明不要」彼は遮った。「次のステップに進む。セクターG-6まで11分12秒の移動時間。システム診断まで27分」
レイナーは前方の廊下を示した。彼は自信満々に歩き出した。まるでこの施設を何度も探索したかのように。だが、彼はセクターEに隔離されていたはずだ。
「どうやって施設の構造を知っているの?」ナディアが小声で尋ねた。
「計算」レイナーは単純に答えた。「音響測定、振動パターン、職員の移動時間から」
【断片的生体データ: 認知的驚愕 / 心拍数上昇】
我々はセクターの境界を越え、非共鳴区画のより深部へと足を踏み入れていった。セクターF、そしてセクターGへ。色分けされた標識が変わるたびに、空気が重くなるように感じた。
セクターGは明らかに異なっていた。壁はより金属的で、廊下はより狭く、照明はより暗かった。ここは通常の囚人が立ち入ることを想定していない場所だ。施設のインフラを支える技術が集中しているのだろう。
「ここは?」私は小声で尋ねた。
「制御中枢」レイナーは答えた。「G-6は量子プロセッサのメインハブ。施設の抑制システムの心臓部」
「警報システムは?」ナディアが不安そうに周囲を見回した。
「17秒後に自己診断モードに入る」レイナーはまるで時計のように正確に言った。「その瞬間、このドアを開ける」
彼は金属製の扉を指差した。「G-6」と表示されている。高いセキュリティレベルを示す赤い標識も付いていた。
我々は息を殺して待った。レイナーは分解したスキャナーから作ったデバイスを取り出し、準備した。彼の手は完全に安定していた。感情のない者の特権か。
【断片的生体データ: 脈拍数 110 / 呼吸数上昇】
突然、廊下の照明が一瞬ちらついた。「今だ」レイナーは言って、デバイスをドアの制御パネルに近づけた。小さな光がデバイスから放たれ、パネルを走査した。
3秒の沈黙。
ドアがわずかに開いた。
「3分間のウィンドウ」レイナーは言った。「急いで」
我々は素早く部屋に入った。内部は想像していたものとはまったく異なっていた。無数の光る円柱が床から天井まで伸びていた。それぞれがわずかに脈打ち、青白い光を放っている。まるで巨大な電子回路の神経節のようだ。
「これが...」ナディアは息を呑んだ。
「量子プロセッサアレイ」レイナーが言った。彼の声には珍しい感情の色—畏敬の念が混じっていた。「非共鳴区画を集合意識から物理的に隔離する心臓部」
【断片的生体データ: 認知的衝撃 / 感覚情報過負荷】
[ノイズ: v%$#&9z...]
レイナーは即座に行動し始めた。彼は円柱の間を移動し、何かを探している。そして、特定の円柱の前で立ち止まった。
「これ」彼は言った。「出口への鍵」
彼はその円柱の側面パネルを開け、内部の複雑な回路に手を伸ばした。その動作は驚くほど流れるようで、まるで何度も練習したかのようだった。
──内的疑義:
<彼は本当にここに来たことがないのか?>
<それとも、別の方法でこの場所を知っていたのか?>
「何をしている?」ナディアが尋ねた。時間は刻々と過ぎていく。
「再構成」レイナーは答えた。「量子抑制フィールドの一時的な穴を作る」
彼の手が素早く動き、回路内の何かを調整していた。突然、部屋全体が揺れたように感じた。それは物理的な震動というよりも、現実の織物のわずかな歪みのようだった。
「成功」レイナーが言った。「次のステップ」
彼は別の円柱に移動し、同様の操作を始めた。私はナディアを見た。彼女は緊張しているが、決意に満ちていた。
「あと何分?」私は尋ねた。
「自己診断終了まで1分47秒」レイナーは正確に答えた。「十分間に合う」
[...データ欠損...]
私の記憶が断片的になる。次に鮮明に覚えているのは、レイナーが最後の円柱から離れる瞬間だ。彼の手には何かが光っていた。非常に小さな、輝く青い物体。極微細量子素子か?彼のコレクションのために取ったものだろう。
「これで準備完了」彼は言った。「出口は...」
彼が指差した先には、以前はなかった扉があった。いや、扉は以前からあったのかもしれないが、何らかの技術で隠されていたのだろう。
【断片的生体データ: 希望上昇 / 神経興奮】
「そこを通ると?」ナディアが尋ねた。
「メンテナンストンネル」レイナーは答えた。「そして施設の外部へ」
「なぜ誰も気づかないんだ?」私は不思議に思った。「こんなに簡単に脱出できるなら...」
「簡単?」レイナーは私を見た。「この再構成は3ヶ月間のアクセス試行の最終結果。失敗は即時検知される。そして、抑制フィールドなしで外に出ると...」
「何が起こる?」ナディアが尋ねた。
「集合意識のバックラッシュ」レイナーは言った。「準備なしで再接続すると、脳が焼き切れる」
彼は自分のデバイスを取り出した。「これが保護を提供する。48時間、徐々に集合への再適応を可能にする」
彼がデバイスを二つに分け、私とナディアに渡した。それは耳の後ろに装着するタイプのものだった。
「そして、あなたは?」私は尋ねた。
レイナーは沈黙した。
──内的疑義:
<彼は三人分を用意していなかった>
<最初から二人分だけ?>
ドアからの警報音が我々を振り向かせた。「自己診断終了」レイナーが言った。「時間切れ」
「レイナー、あなたも来るんでしょう?」ナディアが混乱した様子で尋ねた。
「私は...別の目的がある」彼は答えた。彼の目は冷静だったが、そこには何か...期待のようなものが見えた。「この場所で」
【断片的生体データ: 混乱 / 倫理的葛藤】
「約束したじゃない」ナディアが言った。「亜極域の真実と引き換えに...」
「時間がない」レイナーは遮った。「決断を。今」
続く沈黙は永遠のように感じられた。彼を連れて行くべきか?それとも彼の選択を尊重すべきか?そもそも彼は最初から脱出する気はなかったのではないか?
「アシモフ」彼が私を呼んだ。「亜極域について。コンセンサス・コアが隠したものは何だ?」
私は深呼吸した。「彼らは外部からの信号を発見した。地球外起源の。そして、それを隠蔽するために施設を破壊した」
レイナーの目が見開いた。「信号...」彼は言葉を繰り返した。「どんな種類の?」
「量子エンタングルメントに基づく通信。私たちの技術をはるかに超えた」
彼は満足したように見えた。「予想通り」彼は言った。「今、行け。私は...残る」
ナディアは彼を引っ張ろうとしたが、彼は体を引いた。
「彼の選択よ」私はナディアに言った。「我々は行かなくては」
警報音がさらに大きくなり、赤い光が部屋内を照らし始めた。レイナーは我々を隠された扉へと急がせた。
「48時間以内に、安全な場所を見つけろ」彼は言った。「その後、デバイスなしでは生存できない」
我々はドアに向かった。最後に振り返ると、レイナーは量子プロセッサの間に立ち、まるで古代の司祭のように腕を広げていた。彼の表情は...満足している?歓喜している?
[ノイズ: k!&#^2...]
メンテナンストンネルは狭く、暗かった。空気は古く、湿っている。私たちは前進した。ナディアが先頭を歩いていた。トンネルはわずかに下り坂になっている。
「彼が何を計画しているか分かる?」ナディアが小声で尋ねた。
「想像もつかない」私は答えた。「だが、彼の目的は単なる知識収集ではないようだ」
「彼は施設のシステムを再構築しようとしているのかもしれない」彼女は言った。「自分専用に」
その考えは恐ろしかった。感情を持たないサイコパスが、非共鳴区画を掌握する...収容者たちはどうなるのか?
【断片的生体データ: 良心的苦悩 / 認知的不協和】
──内的疑義:
<彼を残して正しかったのか?>
<彼はどんな被害を引き起こすだろう?>
だが、後戻りはできない。我々は前進するしかなかった。トンネルは次第に自然の岩肌に変わっていった。非共鳴区画は山の中に建設されていたのだろう。
「光が見える」ナディアが突然言った。
彼女は正しかった。トンネルの先に、微かな光が見えた。星明かりだろうか?私の心臓が早鐘を打った。自由...それは本当に可能なのか?
我々は光に向かって加速した。トンネルは最後の曲がり角を過ぎ、そして...
外気。冷たく、清浄で、自由な空気が私たちの肺を満たした。我々は山の斜面に出ていた。頭上には無数の星。そして遠く、谷の下に小さな町の灯りが見えた。
「自由...」ナディアが声をあげた。彼女の頬に涙が流れていた。
【断片的生体データ: 感動 / 感情波動: 強】
だが、それは始まりに過ぎない。我々は亜極域事件の真実を持っている。コンセンサス・コアが隠そうとした真実を。しかし、集合意識のネットワークに再接続すれば、彼らは即座に我々を検知するだろう。
レイナーが言ったように、48時間。それが我々の猶予だ。
「どこへ行く?」私は尋ねた。
ナディアは山を降りる道を示した。「まず町へ。そこから交通手段を探して...」彼女は考え込んだ。「私の父と共に働いていたアンドレイ・ソロフスキー。彼は今、アジアのどこかにいるはず。彼なら助けてくれるかもしれない」
それは細い希望だったが、今の我々には選択肢が少なかった。
「行こう」私は言った。
我々は山を下り始めた。自由の最初の一歩。だが、レイナーが非共鳴区画に残したものの影が、私の心に重くのしかかっていた。彼は何を計画しているのか?そして、我々は彼を止めるべきだったのか?
[...データ欠損...]
最後の記憶の断片。町へ向かう道すがら、私はナディアに亜極域事件の詳細を語った。すべての真実を。証拠と推測の両方を。もし私の記憶が消されるか、私自身が捕えられるようなことがあっても、彼女は真実を知っている必要があった。
「レイナーを残したことで、彼は別の囚人になる」彼女は突然言った。
「何の囚人?」私は尋ねた。
「彼自身の囚人」彼女は答えた。「彼は非共鳴区画を支配するかもしれないが、結局は自分の空虚さから逃れられない」
【断片的生体データ: 哲学的思考 / 理解の深化】
その言葉が私の心に残った。我々はみな何かの囚人なのだろうか?集合意識の、非共鳴区画の、あるいは自分自身の囚人?
真の自由とは何なのか?それは単に物理的な拘束からの解放ではない。それは...
[完全データ欠損]
*<了>*