『闇夜の同盟』
# 『闇夜の同盟』
*量子共鳴:ホモ・センティエンティスの断章 #10*
*推奨音楽:none*
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*以下は、Synaptic Confluxにおけるデータアーカイブから復元された断片である。2247年の「量子共鳴崩壊事象」以前のファイルとして分類されているが、その真偽は検証不能である。*
*ホモ・センティエンティス共鳴4原則:*
*第一原則:すべての感情と思考は集合へと還元され、最適化される。*
*第二原則:非共鳴ノードは再調整または隔離され、集合の共鳴を保護する。*
*第三原則:真実は常に集合的合意によって定義され、個の認識に優先する。*
*第四原則:共鳴は人類進化の最終段階であり、全ての技術と思想はその完成に奉仕する。*
*― Consensus Core 法令 2211.03.11*
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## 共鳴データファイル: JB-7701-AS
## 位相マップ座標: 記録なし [非共鳴区画C-17]
## タイムスタンプ: 2238.12.04.03:21:56
[記憶信頼性: 78%]
私は鉄格子の影を数えていた。壁に映る影は十三。監視カメラの向きから計算すると—
【断片的生体データ: 心拍数 67 / 位相データなし】
記録を続けなければならない。ここでの日々を、真実を。非共鳴区画C-17での囚人としての記憶が、いつまで保持できるか不明だ。集合意識から切り離された今、私の記憶は脆く、不完全だ。独立した個人の記憶など、かくも不確かなものか。
ナディア・クロスとの出会いから—何日経ったのだろう?彼女が私のオリエンテーションを担当してから、二週間か三週間。彼女の父は亜極域崩壊事件で死亡した技術者だった。私は彼女に真実を告げた。そして我々は同盟を結んだ。
だが、ここからどうやって脱出するか—それは別問題だった。
[...データ欠損...]
食堂での三度目の会話。ナディアが囁いた。「セクターEに収容されている男について聞いたことはある?」
「誰?」
「レイナー、ダモン・レイナー」彼女の声は低く、緊張に満ちていた。「極微細量子素子の専門家よ」
【断片的生体データ: 心拍数上昇 / 位相データなし】
その名前は知っていた。量子記憶研究の分野では有名な人物だ。彼のいくつかの論文を読んだことがある。だが、彼がなぜここにいるのか—
「彼はサイコパスだと言われている」ナディアは続けた。「感情を持たない。だが、天才的な頭脳を持つ。そして、何より重要なのは...」
彼女は周囲を警戒し、さらに声を潜めた。「彼はこの施設の仕組みを知っている。特に...抑制システムについて」
──内的疑義:
<彼を信頼できるのか?>
<感情のない人間を、どう説得する?>
「どうやって彼に会う?」私は尋ねた。
「医療スタッフの一員として、彼の定期検診を担当できるかもしれない」彼女は答えた。「でも、アシモフ、警告しておくわ。彼は...異質よ」
[ノイズ: n&%7^$@...]
セクターEへの移動は思ったより容易だった。ナディアは医療スタッフへの協力姿勢を見せることで一定の信頼を得ており、私は「歴史研究者として重要な証言を記録する」という名目で同行許可を得た。もちろん、真の目的は別にある。
【断片的生体データ: 心拍数 78 / 瞳孔拡張】
廊下は白く、冷たく、完全に均一だった。この対称性は気持ち悪いほどだ。かつての建築には、わずかな不規則性、人間味があった。この無菌的な完全さが、ここの非人間性を強調している。
セクターEの入口で二人の警備員が私たちを止めた。彼らは無表情だったが、その目に疑惑の色が見えた。
「定期検診のため」ナディアは医療証明書を見せた。「医療プロトコル531-B」
それは実際に存在するプロトコルなのだろうか?彼女は確信に満ちていた。警備員は書類を確認し、何か入力した後、うなずいた。
「30分」彼らのうちの一人が言った。「監視は継続します」
──内的疑義:
<この時点で引き返すべきだったのか?>
<異なる選択肢はあったのか?>
セクターEは他と異なっていた。より静かで、より隔離されている印象を受けた。私たちはレイナーの部屋に向かった。扉には特別なロックが施されていた。
「なぜ彼をより厳重に隔離しているの?」私は囁いた。
「彼は『特別な注意を要する』と分類されている」ナディアは答えた。「彼が持つ知識が危険と見なされているのよ」
[...データ欠損...]
ダモン・レイナーは私の想像と異なっていた。小柄で華奢な体格、40代後半だろうか。黒縁の眼鏡をかけ、白髪が混じった短い髪。彼の《Spectral Void Eye》は無効化されていたが、その位置の皮膚はわずかに隆起していた。彼は私たちを見ても、特に反応を示さなかった。
「レイナー博士」ナディアは医療用スキャナーを手に取りながら言った。「今日の調子はどうですか?」
「標準範囲内」彼の声は平坦で、ほとんど機械的だった。「あなたは新しい医師」
それは質問ではなく、単なる観察だった。
「はい、ナディア・クロスです」彼女は答えた。「こちらはヴィクター・アシモフ博士。歴史学者です」
レイナーは私を見た。その視線には好奇心も敵意も見られなかった。ただデータを収集するかのような冷静な観察だった。
「歴史学者」彼は言葉を反復した。「非効率的な職業」
【断片的生体データ: 緊張指数上昇 / 発汗増加】
「私はあなたの研究に興味があります」私は静かに言った。部屋の監視カメラを意識しながら。「特に、量子記憶素子における位相同期の問題について」
レイナーの目に、わずかな変化が見られた。輝きとまでは言えないが、何かが活性化したようだった。
「位相同期」彼は言った。「興味深いトピック。だが、ここでは関連設備がない」
「本当に?」私は彼の部屋を見回した。一見すると標準的な囚人用の部屋だ。だが、壁に奇妙な傷跡が見える。
「この施設自体が、最先端の量子技術で満ちています」私は続けた。「遮断技術、抑制エミッター、監視システム...」
レイナーの顔に、微かな—ほんの微かな笑みが浮かんだ。それは人間的な表情というより、アルゴリズムが計算した反応のようだった。
「医療検査を続けてください」彼はナディアに言った。
ナディアは黙ってスキャナーを彼の頭部に向けた。レイナーは私に視線を戻した。
「あなたは何を求めている?」彼は直接的に尋ねた。
「真実」私は答えた。「そして...出口」
──内的疑義:
<これは賭けだった。最も危険な賭け>
<レイナーの反応の予測不能性が、最大の不確定要素>
「真実」レイナーは言葉を反復した。「主観的概念。出口...より具体的」
彼は部屋の一角に目をやり、また私たちに視線を戻した。
「この壁の向こうに何があると思う?」彼は唐突に尋ねた。
「別の部屋?」私は答えた。「あるいは廊下?」
「隔離のための技術がある」彼の目は輝いていた。「この壁にも、床にも、天井にも」
「隔離のための...」ナディアが言いかけた。
「そう、隔離のための技術」レイナーは続けた。「だが同時に...宝だよ」
彼の声は低く、ほとんど囁くようだった。「彼らが知らないのは、私がすべてを理解しているということ。この施設の神経系のようなものを。すべての素子、すべての接続を」
【断片的生体データ: 心拍数 92 / 認知的警戒態勢:高】
「それを利用して...」私は言葉を選んだ。「ここから出ることは可能?」
「可能性は1.8パーセント」レイナーは即座に答えた。「変数が多すぎる。未知要素が...」
彼は突然黙り、ナディアのスキャナーを見た。「そのデバイスを私に見せて」
ナディアは躊躇した。医療スキャナーはシンプルな診断装置だ。だが、内部構造は...
「あなたは脱出したい」レイナーは事実を述べるように言った。「私の助けが必要」
「そして、あなたは何を望む?」ナディアが尋ねた。
レイナーは初めて、本物の笑みを浮かべた。それは奇妙に子供のような、純粋な好奇心に満ちた表情だった。
「知識」彼は言った。「この施設の量子素子の知識。私のコレクションにするため」
「コレクション?」私は混乱した。
「私は素子を収集している」彼は説明した。「様々な型番、様々な機能の。この施設は驚異的なコレクションの可能性を秘めている。特にセクターG-6...」
──内的疑義:
<彼は本当に素子そのものに興味があるのか?>
<それとも、それが持つ力に?>
「脱出の可能性を1.8パーセントから上げるには何が必要だ?」私は尋ねた。
レイナーは頭を傾げた。「まず、このスキャナーの分解。次に、セクターGへのアクセス。そして...」
彼は突然立ち上がり、部屋の隅に歩いていった。壁に触れ、何かをつぶやいている。私たちが近づくと、彼は振り返った。
「いくら払える?」彼の声は冷静だった。
ナディアと私は顔を見合わせた。ここには通貨はない。価値のあるものもない。彼に何を提供できるというのか?
ナディアが前に出た。「亜極域崩壊事件の真実」彼女は言った。「私たちはそれに関する情報を持っている。真実を知りたくないかしら?」
レイナーは一瞬動きを止めた。「情報」彼は言葉を味わうように言った。「価値あるデータ...」
「そして、脱出後も私たちはあなたを保護する」ナディアは続けた。「あなたの研究を続ける自由を与える」
「自由」レイナーはその言葉も反復した。「概念としては理解できる」
彼は再び壁に向き直った。「取引成立。まず、このスキャナーを」
【断片的生体データ: 決断指標上昇 / アドレナリン分泌】
ナディアは躊躇した後、スキャナーを彼に渡した。レイナーはそれを手にとるなり、驚くべき速さで分解し始めた。そのスキルは見事だった。指先が精密機械のように動き、デバイスが部品に分解されていく。
「素晴らしい」彼はつぶやいた。「量子増幅マイクロチップ...診断用とは言え、再構成可能...」
彼は部品を選び分け、いくつかを脇に置き、残りを床に放った。選んだ部品をポケットに収め、私たちを見た。
「2日後、同じ時間」彼は言った。「私は準備する。あなたたちも準備を」
「何の準備を?」私は尋ねた。
「脱出の」彼は単純に答えた。「確率は12パーセントに上昇した」
[ノイズ: k@*9^!d...]
帰り道、ナディアと私は最小限の会話しかしなかった。監視の目が常にあることを意識していた。部屋に戻った後でさえ、私たちは書き留めたメモで会話した。
「彼を信頼していい?」私は書いた。
「選択肢はない」彼女は返した。「でも彼は助けたいわけじゃない。彼には別の目的がある」
「何の?」
「知りたくない」彼女の表情は暗かった。「でも彼は天才。そして、これが私たちの唯一のチャンス」
[...データ欠損...]
次の二日間、私たちは必要な準備をした。準備といっても、ほとんど何もない。この施設では個人的所持品はほとんど許可されていない。ナディアは医療スタッフとしての権限で、いくつかの必需品を確保した。消毒剤、包帯...脱出にどう役立つのか見当もつかないが。
私は頭の中で、亜極域崩壊事件のすべての詳細を何度も復習した。レイナーとの取引の代金だ。彼は本当にその情報に価値を見出すのだろうか?彼にとって真実とはただの商品なのか、それとも...
【断片的生体データ: 睡眠不足 / 認知機能低下】
二日後、同じ時間。私たちは再びセクターEへ向かった。同じ警備員、同じ手続き。だがすべてが違って見えた。まるで別の目的で訪れているかのように。
レイナーは待っていた。前回と同じ場所に立ち、まるで時間が経っていないかのように。
「準備はできた」彼は挨拶もなく言った。「あなたたちは?」
ナディアは頷いた。「何が必要?」
「あなたのアクセス権」レイナーは彼女を見た。「そして彼の歴史的知識」
私は混乱した。「私の何が?」
「あなたは記録係」レイナーは言った。「すべてを覚えておく。脱出後、私に亜極域の情報を提供する」
彼は壁に向かって歩き、特定の場所を押した。何も起こらなかったように見えたが、彼は満足げだった。
「今夜」彼は言った。「施設のシステムが自己診断モードに入る。3分間のウィンドウがある。その間、抑制エミッターが再起動し、セクターGの警報が一時的に無効化される」
「どうやってそれを?」ナディアが尋ねた。
「私はここに3年いる」レイナーは単純に答えた。「観察し、学び、計算してきた。パターンは明らかだ」
彼はポケットから分解したスキャナーの部品を取り出した。それらを組み合わせて、小さなデバイスを作り上げていた。
「これが鍵」彼は言った。「セクターG-6のドアを開ける。そこに装置がある...」
「何の装置?」私は尋ねた。
「脱出のための」彼は答えた。「そして...私のコレクションのための」
【断片的生体データ: 不安指数上昇 / 瞳孔縮小】
──内的疑義:
<彼は何か重要なことを隠している>
<だが今、引き返す選択肢はない>
「今夜の消灯後、私はここで待つ」レイナーは言った。「あなたたちは医療部門から来る。ナディアのアクセス権で、夜間巡回の許可が得られる」
彼の計画は詳細で、完璧に思えた。あまりにも完璧で、不安になるほどだ。
「何年もこれを計画してきたの?」ナディアが尋ねた。
レイナーは首を傾げた。「計画?いいえ。可能性の計算。確率の評価。あなたたちが来るまで、確率は低すぎた」
彼は窓の外を見た。そこには何もない。ただ白い壁があるだけだ。
「脱出後、あなたたちは亜極域について話す」彼は言った。「そして私は...コレクションを完成させる」
私たちは頷いた。取引は成立した。今夜、私たちは非共鳴区画から脱出する。1.8パーセントだった確率が12パーセントに上昇したとレイナーは言った。まだ低いが、ゼロよりはましだ。
「一つ質問がある」私は立ち去る前に言った。「なぜあなたは今まで脱出しなかった?技術はあったのに」
レイナーはまっすぐ私を見た。彼の目に感情はなく、ただ計算しているようだった。
「目的がなかった」彼は単純に答えた。「今は...ある」
私たちは部屋を出た。廊下は相変わらず白く、無菌的だった。警備員は無表情に私たちを見送った。
今夜、すべてが変わる。成功すれば、私たちは自由になる。失敗すれば...おそらく、より厳重な施設に移送されるか、最悪の場合、消去される。
だが真実のためなら、その危険を冒す価値がある。亜極域崩壊事件の真実。コンセンサス・コアが隠す秘密。それは単なる事故ではなかった。意図的な破壊工作だった。そしてその目的は...
[...完全データ欠損...]
【記録終了:次の記憶断片へのアクセスは解除予定】
*<了>*




