『事件』
夕刻になり、兄と寮の前で別れたグレーシアは、楽しみにしていた肉団子を頬張り、一日を思い返しながら、幸せを噛みしめる。朝から数えると三つめ。
そして「大丈夫よ、これは必要以上を求めた結果じゃないわ」と自分に言い聞かせる。
今日は、いつもより少し贅沢な一日だった。肉団子を人より多く食べ、甘くて美味しいお茶まで飲んだのだ。だから、本当に要らない?とまた母さま人形を買ってくれようとする兄の好意まで受ける訳にはいかなかった。
それに、もう赤ちゃんじゃないのだから、……。
そう思いながら、今度はポテトサラダを突っつき始める。
リディアスは裕福で様々が集まるところだから、ディアトーラでは食べられない食材がたくさんある。聞いたところによれば、ここの寮の食事は、一般庶民から王族まで全ての好みに合わせて作られている特級品らしい。
だから、本当に美味しいのだ。気取ってなくて、良い質で。
これがあるだけで、楽しく生きていける、そんな風に思えるほど。
そして、明日の授業を考える。
一限目は、言語。二限目は移動授業だから上級生の棟へ行くのよね。その時にアイナ様に手紙はちゃんと渡せたことを伝えて、三限目が地理で、四限目が見学授業。見学授業は来年の専攻を決める時の参考になるのだ。
将来全員がその中から授業を一つ選んで学びを深めていく。
今のところ剣術の授業を見学中である。他にも魔女の歴史と薬草の使い方も含まれる医薬学。
大昔の薬学は魔女学というものも含まれていて、どれだけ魔女が恐ろしいかとその処刑法なども習ったらしいけど、今はそうではないし、その辺りも、ぼんやりと母さまから教えてもらっている。
兄は歴史学で、そのお友達は天文学だった。
グレーシアの一番の興味は、動物学。だから、本当はこの授業を見に行くべきなのだろうけど、来年から見られないのであれば、色々見ておきたいという本音もある。
そこで、グレーシアは息を吐き出した。見学授業を変えようかと思っているのだ。
だけど、気になるのだ。唯一知っている存在の一年上のタンジーが、そこで一生懸命何かと戦っていることが。ただ、何と戦っているのかが、見えないのだ。兄や父、母などはもっと……要するに戦っている相手がちゃんと見えるから、隙がない。だから、とても綺麗。
だから、そこはそうじゃない、と言いたくて仕方がない。
しかし、グレーシアが綺麗に見えないのはタンジーだけではないので、とても変な剣術の授業ではあると思っている。
打ち込まれさえしなければ、基礎しか習っていないグレーシアでも追いつける剣技にしか見えないし、思うにタンジーが戦っているのは、おそらく空気に漂う塵である。塵はホウキかハタキで戦うべきであり、剣でなんとかなる代物ではないのだ。
ただ、型に合わせて踊っているだけで何とも戦っていない人もたくさんいるから、見込みはあると思うのだけど……。
そして、踊っているという単語が、グレーシア自身に再び溜息を付かせる。
明日はワルツのステップを習うらしい。
ひとりで練習する時はいい。だけど、ペアを組むと相手が転ぶ。間違ったステップは踏んでいないはずなのに。
幼い頃に兄さまと踊った時は、兄さまは転ばなかったのに……。どうすれば良いのか、こちらも全く分からない。
「上手くやろうとするな」
ふと、兄の言葉が思い起こされる。これは父にも言われた。
『シア、あっちの学校で上手くやろうとなんてしなくて良いよ。ディアトーラの学校とは、別のもの。根本的に全部が違うからね』
仲良くなるなではないだろうし、教えてあげるなでもないと思う。転んだ相手に手を差し伸べるな、では絶対にないとも思う。だから、母はこう言ったのだ。
『様々に目を向け、最善と思うことに躊躇わないこと。そのように振る舞いたければ、どうすれば良いと思いますか?』
答えられなかったグレーシアに、母は優しく微笑み、「大丈夫ですわよ。グレーシアは隙があるように見えて、全く隙がありません」という答えをくれた。隙を作ってはならない。ということは、一人でも進めるだけの準備を整えて進めということだ。それでも、不安を拭えない。
「同じような年端の者しかいないその場所でのグレーシアのことは、全く心配しておりませんわよ。そのままお進みなさい」
やはり難しい言葉を続けた優しいお顔の母さまを思い出し、やっぱり母さま人形を買っていただくべきだったかしら、と後悔してから、「ごちそうさまでした」と呟いた。
お皿を返却口へ持って行くとサラが「シアちゃんはいつも持ってきてくれるね、ありがとう」と喜んだ。
「はい、美味しかったです」
「ピカピカに食べてくれて、こっちも嬉しいよ」
褒められたグレーシアは満面の笑顔をサラに見せた。
夜は静かに、そして、朝も静かにやってくる。朝陽が小さな部屋の小さな窓からも射し込んで、グレーシアの髪を明るく輝かせていた。しかし、彼女は今、静かにとても慌てていたのだ。
「どうしましょう……」
朝の準備を確認していたグレーシアが大きな溜息を付いた。お弁当箱が見当たらないのだ。昨日、ちゃんと洗って、部屋に置いて、それから兄に会いに行き、……。
「どうしましょう……」
やっぱり昨日は贅沢をし過ぎたのだ。
「でも、全部不可抗力でしてよ……」
肉団子はサラが好意でくれた物だし、兄と会う時は美味しい物を飲ませてくれる約束だし……。
母さま人形はお断りしましたわよ、ちゃんと……。
そして、自分のお小遣いが入っている巾着を見つめる。次にディアトーラへ帰るまでのお小遣いが入っているのだ。両親が十分だと言ったお小遣い。
今日一日分くらいなら、大丈夫だと思うけれど。学食っていくらするものなのでしょう……。
秋生まれの兄の誕生月には、シアがご馳走しようと思っていたのに……。
新しいお弁当箱を買わなくてはならなくなったら、ちょっと厳しいかもしれない。
すでにざわざわしている食堂へやってきたグレーシアは、とても珍しい。そんなグレーシアに気付く者もいれば、全く気付かない者もいる。
あら珍しい。一人が好きなはずじゃないの? 朝から色目を使いたくなったんじゃないの?
えーっ、ここ女子寮よ。
そんな忍び笑いも聞こえる。
だけど、そんな風に言われる覚えのないグレーシアは、それよりも自身を責めていた。母さまの言っていた『隙』を作ってしまったのだ……と。
そんなグレーシアに、調理室からサラが声を掛けた。
「シアちゃん、寝坊? 今日はお弁当作らないの?」
「はい……お弁当箱を無くしてしまい……」
すると目を見開いたサラが大きな声で「ちょっと待ってて」と食堂奥に引っ込んでしまった。
グレーシアが言われたとおりその場で待っていると、サラが調理用の入れ物を手に戻ってきた。
「こんなのしかないけど、今日はこれを持っていきなさいね。ミルクパンと野菜の炒め物、グラタンもおまけに入れておいたわ」
「……」
「ほら、元気出して」
『隙』を作ったから、両親に揃えてもらったものを無くしてしまった……。
グレーシアの心は、今それに囚われている。だから、サラが掛けてくれる優しさにも、ちゃんと応えられない。
これじゃ、ダメだ、とは思うが、声は沈んでしまう。
「はい……ありがとうございます」
サラはそんなグレーシアを見送るしか出来なかった。