『グレーシアの日常とお役目の日』②
ふたりが行き着いた場所は、カナリア通り。
庶民がご褒美にと使いたいお店が並ぶ場所である。ルカはアレクから聞いている、落ち着いて話が出来る女の子が喜びそうな場所と言われた店の名前を見つけて、「ここ?」と立ち止まった。
「可愛らしいお店です」
アレクの娘が気に入っているというお店である。ルカ一人だと絶対に入らないような店構え。溜息を付いたルカとは真逆に喜ぶグレーシアが両手を合わせて、にこにこしていた。
温かみのある木製テーブルに椅子、天井や壁の装飾にはドライハーブが使われており、グレーシアがさらに目を輝かせた。
「兄さま、とっても素敵です。母さまみたいです」
「うん」
今度は妹を否定せずに、ルカは肯く。薬草を扱うことの多い母は、確かにこんな匂いがしている。だけど、やっぱり妹が心配にもなってくるのだ。
さっきから、母さまばかり。
店員に促され、席に着く。グレーシアは帽子を外し、満足そうにちょこんと椅子に座ってから、店員に尋ねる。
「とても素敵ですわ。おすすめは何かしら?」
「果物冷茶などいかがでしょう? ラベンダーとカモミールの香りからお選びいただけます」
店員は穏やかにグレーシアに勧めると、ほっこりとした優しい微笑みを二人に送る。やはり、カナリア通りと言うところだろう。彼女はきちんと答えながら、グレーシアの表情をちゃんと見ているし、おそらく身分もちゃんと弁えたようだ。そして、おそらくルカの懐事情も。
「素敵。それにするわ。カモミールの香りでお願いします。兄さまは?」
嬉しそうなグレーシアを見て、ルカも答えた。
「同じものでお願いします」
綺麗な笑みで会釈をした店員が立ち去り、グレーシアがポケットから手紙を二通取り出した。
「一つは父さまからで、もう一つはいつものです」
「父さま?」
「はい。今度の収穫祭には絶対にルカと一緒に帰ってきなさい、と書かれてありました。わたくし、ひとりでも大丈夫ですのに……。列車に乗ってスキュラでございましょう? そこから船でマナ河を渡って、グラクオス、そして、エリツェリまで。後は馬車に乗るだけ」
不満そうな声を出し、今度は口を尖らせる。
「きっと、兄さまに会いたいのですわ。だから、ちゃんとお休みをもらって下さいませ」
「そう、だね……」
きっと、違うと思う。今まで帰って来いと、ルカは言われたことがないのだ。きっと、グレーシアがその長距離を移動している間に、何かが起きると父は心配しているのだろうと、ルカは思った。
そして、確かに「かわいいチョウチョですわ」と言って、そのまま身を乗り出して、マナ河に落ちるかもしれない、妹なのだ。
まぁ、対岸まで泳ぎ切りそうな妹でもあるのだけど……。
まだ休みを取ることを信じてくれていなさそうな妹が、ルカをじっとを見つめている。その瞳は父にそっくりで、真っ直ぐに見つめる癖は母にも似ている。そんな妹を前に苦笑すると、思った通り、グレーシアは不服を漏らす。
「どうして笑うのです?」
「ちゃんと、休みをもらうようにする。きっと心配しているんだよ、グレーシアは女の子だから。で、そっちは大伯母様に渡せば良い?」
そして『心配』という言葉に気をよくしたグレーシアがにっこり笑った。
「はい、よろしくお願いします」
ふたりの大伯母様であるアリサは、現リディアス王アルバートのお妃様である。孫とは言え、娘が父であるアイビー様へ認める手紙に書かれてある事柄に対して、リディアスへの不貞、若しくは、イワン様への不貞を行っていないことを証明するための検閲してもらうのだ。
この世の中、何が火種になるか分からない。次期国王候補のイワン様が正式に王座に就くまでは、油断できない、というのが二人の父ルディとアルバート国王の意見だからだ。
「アイナ様はお元気?」
「えぇ、とても。お優しくて皆に慕われていることがよく分かりますわ」
ふたりの脳裏に同じことが過ぎる。
アイナ様は、関係ないことに巻き込まれているだけ。
「大きな国って大変ですわね……」
そこへ、先ほどの店員がお盆に載せた冷たい飲み物を二つ携えて、やってきた。
テーブルの上には麦の茎と銀匙が刺さっている冷たいグラスがふたつ。シロップの器が一つ。
「ありがとう」
兄妹の声が揃い、店員は優しい微笑みを浮かべ、静かに立ち去る。オレンジの房がグラスの底に沈んでおり、柑橘の甘酸っぱさが紅茶に溶けて、柔らかく喉を通る。十年程前、そこで同じように冷たい飲み物を飲んだことがある。
「シア、あの学校で上手くやろうだなんて思うなよ」
それは、その土地で父がルカに言った言葉でもあった。
そこで出会ったエリツェリの王子。入学を控えていたルカにとっても、幼いグレーシアにとっても、それは他国と関わった初めての経験だった。
だけど、ここはもっと様々な国が集まる学校だ。あんなに小さな関わりだけでは、すまない。みんなが笑顔で過ごせるとは限らない。みんなが優しくあるとも限らない。
シアは、仲良しと一緒が好きだから、きっと頑張ろうとする。そんなことを考えているルカのことなど、全く知らないグレーシアが、そのルカを不満そうに眺めていた。
「兄さま、もったいないのですよ。こうして、ちゃんと……良い香りを楽しんでからいただかないと」
グレーシアがグラスに視線を落とし、一気に飲み干してしまったルカに返した。
そして、その僅かな彼女の気持ちの翳りにルカは気付けなかった。