おまけ『砂糖をまぶしたレモンのような』
ディアトーラの収穫祭へ向かうため、リディアス側のスキュラとワインスレー側のグラクオスを結ぶ船に乗ったグレーシアは今、帽子にスカーフを巻いてその甲板で本を読んでいた。父さまが飛んで行かないように、母さまを巻き付けた感じ。
グレーシアはそう思っている。
手元にあるのは『赤い糸と運命に弄ばれて』。ターシャ・グレースの本だ。
今は古典として読まれることも多いその本の作者は、グレーシアの名前の由来にもなっているらしい。
「芯の強い素敵な女性。そうなって欲しいから」
と聞いている。元魔女で恋を知らない母さまが恋というものを知ろうとしてたくさん読んだ作家でもあるらしい。
どちらかと言えば、こちらに重きが置かれているのではないか、と思春期に差し掛かっているグレーシアは思い、父を思い浮かべる。
父さまは母さまが大好きだから、ただきっと嬉しかっただけなのだわ。母さまが大好きという意味しかないのですわ。
そう思い、自分の名前に意味はないと決めつけた。そして、ほんの少しだけ口をとがらせる。
この本の中の主人公達はいつも何かを悩んでいて、好きだの嫌いだのを繰り返しているのだ。芯が強い人などいない。
そこがグレーシアには分からない。
そもそも、好きが嫌いになる理由が、分からない。
船の上の空はいつもより早く動いている気がする。乙女の心は移ろいやすく陰りやすく、殿方の心も熱しやすく冷めやすいらしい。そう思うとどうして恋を求めるのかも分からない。さらに悲恋となると一緒にいても離れてもどうしても苦しくて、反対されて死を選ぶ。
生きられないのに、どうして恋をするのかしら。
グレーシアにはやっぱりよく分からない。
父と母も反対されていたとは聞いている。反対されていたというその話を誰かがすると、母はおかしそうに、父を見て微笑む。父は苦笑いをする。みんなも笑う。笑うのだから、きっと、一緒にいて苦しくはなかったのだろう。
詳しくは知らないが、お庭にあった枯れかけの薔薇の花を咲かせたのが母。そして、その母に求婚したのが父であるということだけ知っている。
反対理由は分かる。母が魔女だったからだ。
だけど、そもそも父母は共に生きるために、一緒に歩もうとしたはずなのだ。死ぬために恋をするのはおかしいし、それが当たり前だと思う。だから、どうしてこの作者の書く本が父と母を結びつけるのかも全く分からない。
「ここにいたの?」
顔を上げるとルカがいた。
「はい。お部屋はたくさん揺れて気持ちが悪くなります。でも、ちゃんと静かに座っておりますわ」
河を覗くなと言われてしまったグレーシアは、頬を膨らませながらルカに伝える。
「偉いえらい」
「わたくしは河には落っこちません。読書をしておりますので邪魔しないでくださいませ」
頭を撫でようとする兄の手を振り切り、ぷいと顔を横に向けると、また文字を追っていく。
「あと一時間ほどで着くから。この辺りにいてよ。探すの大変なんだから」
「全く楽しくありません。わたくしは赤ちゃんじゃありません。来年は一人で帰れます。父さまに伝えます」
ルカはそんなグレーシアに、いつものように笑って「じゃあ、この辺りで待ってられるよね」と去って行った。
なんて意地悪な兄なのでしょう。だから、お嫁さんが見つからないのですわ。自分だけ自由に歩き回られて、とてもずるいのです。
グレーシアはやっぱり頬を膨らませてみる。
今日の読書は、若い男女の通じ合わない心が描かれているもの。
殿方が運命の相手だと信じたくせに、勘違いから疑って、姫方を信じられなかった殿方が、姫方を振るのだ。離れてしまった殿方は別の方と恋路を共にし、上手くいかなくなったところで再会し、もう一度告白する、というようなところまで読んでいる。
よく分からないけれど、運命の恋人達なのだから、結末は分かっていた。
最後はきっと手をつなぎ合って、夕陽を見つめるのよ。
ターシャ・グレースは夕陽を最後に持ってくることが多いから。
恋をするヒーローとヒロインは一度もぶれないから。
だけど、今回は違っていた。
「あら?」
そんなに簡単に貴方の手を取ることなど出来ません。ですので、来年の今日。この夕陽が今日と同じくらいに輝いているこの時間に、それでもお心変わりがないのであればその手を差し伸べてください。
それまでは、友達でいましょう。
「あら……」
あら……。夕陽が沈んでしまいますわ。あら、手は取り合いませんのね。
あ、でも一年後とありますね。
「やっぱり」
『愛を確かめ合った二人は同じ夕陽の下で、永遠を誓った。』
ぱたんと本を閉じて、いつも同じですもの、と思う。やっぱり恋とは同じ道筋なのですわね。どうして母さまは悩まれたのでしょう……。
そこまで考えてはっとした。
「どうしましょう」
あの時、ミリが言った言葉が甦った。「次はどうぞおふたりで」
そんな意味があったの? 来年も同じことをするという約束には。
どうしましょう。タンジー様は、ディアトーラとは因縁関係のあるエリツェリの方ですわ。わたくしが一人で決めてはいけないお約束だったのでしょうか。
どうしましょう。タンジー様はきっと勘違いなさっているわ。
でも、タンジー様は良いお方で、好ましいお方です。お友達でいたいと思っていますわ。だけど、わたくしのせいで、また傷つけてしまっては……。
この本で言えば、わたくしはこちらの殿方になりませんこと? そうですわ。だって、わたくし、タンジー様に怪我をさせて傷つけてしまいましたもの。わたくし、この殿方のことをあまり好ましく思っておりませんわ。このまま約束を違ってしまっては、お別れになってしまいます。
せっかくお話するお友達が増えましたのに、嫌われてしまうの?
『嫌い』という感情をあの学校で覚えてしまったグレーシアは、慌てて立ち上がっていた。そんなグレーシアの傍にルカが荷物を抱えて戻ってきていた。
「どうしたの?」
大変なのですっ。
そして、その言葉を慌てて飲み込んだ。恋など無縁の兄に尋ねてもきっと答えは分からない。
「立ち上がりたくなったのですっ」
「そ、そう。もう下りるから、荷物を持ってきたんだけど、その本どうするの?」
目を丸くしたルカが、グレーシアの持つ本をどうするか聞いている。グレーシアもその本を見つめる。
「もう少し持っておきます」
答えがあるかもしれませんから。
そんなグレーシアにルカが呆れたように続けた。
「はい、赤ちゃんじゃないグレーシアの分の荷物。こっちもちゃんと持って行ってよ。来年はひとりなんでしょ?」
「えぇ、もちろんです」
そんなグレーシアが来年タンジーと共に蝶を見るのかどうかは、また別のお話で。














