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あいせき

作者: 佐藤瑞枝

麻祐が出て行った。ショックでぼくはここ数日ろくに食べていない。ひどく疲れていて、何もする気になれなかった。けれど、二匹のハムスターの世話だけは怠らなかった。弱い動物だ。ぼくが世話をしてやらなければすぐに死んでしまう。茶々とめめ。ふたりがむしゃむしゃ餌を食べ、まるまると太っていることにぼくは安堵する。

「そんなに好きならハムスターとすればいいんだわ」

意地悪で、とてつもなく見当違いのことを言って、麻祐は出て行った。たしかにぼくは彼らのことを気にし過ぎたかもしれない。けれど、それは麻祐を好きなこととはまったく次元の違うことで、どうして麻祐はそれらを一緒くたにしてしまうのかぼくにはどうにも理解できないのだった。

昼間ほとんど眠ってすごす彼らは、夜になると動き出す。カラカラと滑車の回る音がすれば、めめの細くて小さな足が挟まってしまわないか心配になったし、茶々がキュンキュン鳴けば、水飲み用のボトルが詰まっていないか気になった。けれど、彼らのことでぼくが麻祐をおざなりにしたことは一度もない。

それなのに、

「ほら、またどこかへ行ってる」

真夜中のベッドでぼくを見上げ、麻祐はうっすらと笑い、度々機嫌を悪くした。


ちゃんと食べてる?


めったに連絡して来ない母親からLINEがきて、どきりとする。昔から勘の鋭いところがある。

ゆうべ遅くまで起きてたでしょう。

将吾くんとけんかでもした?

試合、負けちゃったか。

どれも図星だった。母親に言わせれば、見ればわかるのだそうだ。けれど、今のぼくはひとり暮らしだ。麻祐と暮らしていたことだって、つきあっていたことすら伝えていない。それなのに、どうしてわかってしまうのだろう。千里眼でもあるのだろうか。もしそうなら、驚異だ。母親だけじゃない。麻祐だって。

女性という生き物がつくづくおそろしいと思う。


ようやく何か口にしようと思ったのは、茶々とめめの健やかさがうらやましく思えるようになったからで、何を食べて腹を満たせばよいかわからなかったぼくは、とりあえず駅前のファミレスを選んだ。ここなら何かしら食べられるものがあるだろう。思い切って扉を開ける。


昼時の店は混んでいた。

「あいせきでもいいですか?」

迎えに来た若い店員に言われ、一瞬とまどったが、せっかくの決心が揺らいでしまいそうで、「だいじょうぶです」とぼくは答えた。

案内された四人掛けの席に女性がひとり座っていた。白髪交じりの、おそらく八十はゆうに超えている。おととし亡くなったばあちゃんと同じくらいか。特徴のない丸顔に地味なブラウスを着ていた。

小さく頭を下げて、ぼくは斜め前の席に座った。メニューを広げ、あまり重たくないものがいいなと考えていると、

「決まってないなら、これ食べない?」

いきなり声をかけられた。

「え?」

おどろいてぼくが顔をあげると、

「クーポンがあるのよ」

そう言っておばあさんは鈴のついた財布から折りたたんだ小さな紙切れを出して見せた。春らんまんコース。二千九百八十円。

「これを食べに来たのに、2名様からって言うのよ」

「ねえ、こんなのってひどくない? 不親切だわ」

見ず知らずの人にこんなことを言われるなんてびっくりだ。この人には一緒に食事をする家族や友達はいないのだろうか。旦那さんに先立たれたとか、そういうことなのだろうか。

春らんまんコースは、前菜からデザートまでついた中華のフルコースだった。ファミレスにこんなメニューがあるなんて知らなかった。いかにも女性向けに作られた華やかなコースにちょっと戸惑った。けれど、ほかに食べたい物もなかったし、正直メニューなんてどうでもよかった。

「べつにいいですよ」

ぼくが言うと、

「じゃあ、きまりね」

おばあさんはきっぱりと言って、勢いよく手をあげた。

「これで呼べばいいんですよ」

テーブルの上にあった呼び出しボタンをぼくが押すと、

「あら、便利なものがあるのね」

おばあさんは感心した。やがて店員がやってくると、おばあさんは嬉しそうに注文を告げた。折り目だらけのクーポンを出し、「これ使えますよね」と念を押して。


「サチよ。川村サチ」

店員が行ってしまうとおばあさんが名乗った。ここでぼくが名乗らないのは不公平な気がして、

「岩井隆文です」と言った。

「学生さん?」

そう聞かれ、

「いえ、アルバイトです」

嘘を思いつくほど頭が回らなかった。

「それはいいわね」

サチが言った。アルバイトのどこがいいのだろうと思ったが、サチはそれ以上ぼくについて聞いてこなかった。初対面の人に個人的なことを根ほり葉ほり聞かれるのは苦手だ。注文は勝手に決められてしまったけれど、サチは思ったより非常識な人ではないのかもしれない。


サチは次々とよく喋った。

「よかったわ。どうしても食べたかったんですもの」

「今日のコース、期間限定なんですって」

「期間限定って言われると絶対に食べなきゃ損だって思っちゃう」

「昔はね、いろんなものを見送ってきたの。自分のやりたいことも、何でも。今はどれひとつ逃したくない気持ちよ。年をとって欲張りになったのかしらね」

そう言って、サチは笑った。少々うるさくはあったが、ぼくがひとことも話さなくても勝手に話が進んでいくのは気が楽だった。前菜のくらげの酢の物が運ばれてきたときもサチはひとりでしゃべっていた。

「くらげって、あのくらげでしょう」

「漢字で海月って書く」

「ゆるゆるふわふわ漂って生きている感じがいいわね」

「でもね、弱るとごみがついて重くなって沈んでしまうの。哀しいわね」

そう言いながらも、サチは目の前のくらげを箸で巻き取り、次々と口に運んでいく。

「コリコリしていてとてもおいしいわ」

丈夫そうな歯で小気味よく噛む音にどこか聞き覚えがあると思ったら、茶々がえさを食べている時にそっくりなのだった。


小さなせいろが運ばれてきて、ふたを開けると、三種の点心が入っていた。翡翠餃子、海老蒸し餃子に小籠包。色とりどりで、まるで花が咲いたようだった。

「すてき」

少女のようにサチがさけんだ。

「どれから食べるか迷うわね」

「こういう時、好きなものから先に食べるか、後にとっておくか考えない?」

ぼくに聞いておいて、答えも待たずにサチはしゃべり続ける。

「わたしはね、好きなものから先に食べるって決めているの」

「昔はね、好きなものはあとにとっておく質だったの」

「損な性格なのよ」

「ああ、でも迷うわね。ぜんぶ好きなものばかりだと」

話があちこちする。サチの箸が海老蒸し餃子をつかんでいた。

「おいしいわ」

サチが次々と平らげていく。最初に食べた小籠包でうっかり舌をやけどしてしまったぼくのせいろには、まだ海老蒸し餃子が残っていた。サチがうらめしそうに見ているので、なんだか食べていけないような気がして、

「食べますか」

と聞いてみた。サチは小さく驚いて、目をぱちぱちさせた。それから急に真顔になって、

「だめよ、ちゃんと食べなきゃ」

母親みたいなことを言った。

「それに、わかちあいたいもの」

何のことだかさっぱりわからなかったけれど、ぼくが海老蒸し餃子を一口で食べるのをサチは楽しそうに見ていた。


卵のスープがやってくると、

「卵のスープはいいわね。なんだかほっとする」

とろりとしたスープを大きめのスプーンですくいながらサチは言った。

「このスープ、英語ではエッグドロップスープって言うの」

「日本語ではかきたま汁なんて言うけれど、それだとちょっと乱暴な感じがしない?」

そんな風に聞かれても答えようがなかった。ぼくが黙っていると、サチはまたひとりでしゃべりはじめる。

「どう考えてもエッグドロップの方がいいわ。とろんとしていて、おいしそうに聞こえるもの」

結局、サチはぼくに答えなど求めていなかったと気づく。

「子供の頃、うちには三匹も犬がいたのよ」

いきなり話が飛ぶ。

「それがね、三匹ともぜんぶハチっていう名前だったの」

サチが遠くを見るような目をして笑った。

「父は見分けがつかなかったらしいの」

「みんな柴犬だったけれど、一匹ずつ全然ちがったのよ。一匹はちぢれた耳が垂れていて、もう一匹は目と目のあいだがきゅっとつまっていて、鼻先がとがっていた。もう一匹は、大きな瞳がドロップみたいにとろんとしていて、大人になってもずっと子供みたいな顔をしてた」

ドロップつながりはここだったのかと理解する。

「ハチって呼ぶと、三匹ともいっせいに走って来るの。楽しかったわ」

少女だったサチが愛犬たちを呼ぶ姿が目に浮かぶ。すごく可愛がっていたのだろう。

「ぼくはハムスターを飼っています」

うっかり言ってしまった。

「まあ」

サチが目をまるくして、恥ずかしくなったぼくは目を伏せた。タイミングよくメインのエビチリが運ばれてきて救われた。めいめいの小皿によそい、ぼくはむせながらエビチリをかきこんだ。

「ぴりっとするけれど、おいしいわ」

サチもしばらく黙ってエビチリを食べることに専念していた。


「それで名前はなんていうの」

サチが顔をあげ、グラスの水を飲みほした。一瞬なんのことだかわからなかった。

「名前よ。ハムスターの」

話が巻き戻ったのだ。思わず苦笑する。もう少しで、ぼくは自分の名前を名乗るところだった。

「茶々とめめです」 

ぼくが言うと、

「かわいくて仕方ないでしょうね」 

まるで二匹のハムスターが目の前に見えているかのようにやわらかい表情でサチが笑っていた。

「溺愛しすぎて彼女にふられてしまいました」

ついにぼくはこんなことまでサチに言ってしまっていた。

「まあ」

サチが小さく声をあげた。当然、彼女とどれくらい付き合ったのかとか、どうしてふられてしまったのかとか、そういうことを聞かれるかと思っていたのに、

「それで、茶々とめめのおふたりさんはお元気?」

話があちこち飛ぶサチの話題はまだハムスターたちにあった。そのことにぼくはすごく安心してしまった。

「茶々は欲張りでほっぺたはいつも食べ物でふくれています。めめはとにかく臆病で、滑車に乗れるようになるまでだいぶかかりました」

めめが滑車に乗れるようになるまでの過程をぼくは事細かに話した。はじめは茶々がくるくると乗っているのをうらやましそうにじっと見ていたこと。ようやく両手をかけて滑車の具合を確かめていると、すぐに茶々がやってきて何度も横取りされてしまったこと。見かねたぼくがそっとめめを滑車に乗せてやると、おっかなびっくり回し始めたこと。そんなめめが今では茶々よりも早く滑車を回せるようになっていること。ハムスターたちのことを話しはじめると止まらなかった。いつのまにかぼくばかりがしゃべっていて、サチは聞き役にまわっていた。

立場が逆転してしまっていると気づいたのは、チャーハンが運ばれてきた時だ。

「すみません。しゃべりすぎました」

ぼくはあやまった。

「チャーハン、少しでいいわ。炭水化物は控えめにしているの」

そう言って、サチはぼくの皿をチャーハンで山盛りにした。脂っこいものは胃にこたえるだろうなと思っていたのに、チャーハンは案外軽くていくらでも食べられそうだった。


デザートは二種類から選べた。サチは桜のアイスを、ぼくは桜もちを選んだ。

「お花見気分だわね」

サチがうれしそうに言った。

「お花見行くんですか」

ぼくが聞くと、

「行かないわ」

きっぱりとサチが言った。

「きれいだけれど、哀しいもの」

「やっぱり花よりだんごがいいわね」

「わかちあえるもの」

サチが花見をしない理由をぼくはよくわからなかったけれど、ぼくが桜もちを半分に割り、サチの皿のうえに置いた時に、

「遠慮なくいただくわ」

サチはそう言って、目を輝かせた。海老蒸し餃子の時には断ったくせに。桜もちにかぶりつくサチは、ひなまつりの少女みたいだった。出て行った麻祐のことを思い出し、ぼくは少しだけ哀しくなった。


トイレに行ってもどると、サチはいなくなっていた。テーブルに、二人分の食事の代金が置いてあった。急ぎの用事でもあったのだろうか。それにしても、いきなりいなくなるなんて予想もしていなかったので、ぼくはどうしたらいいかわからなくなった。

とりあえず支払いをすませなくてはとレジに向かった。ぼくを案内した若い店員が会計にやってきて頭を下げた。

「申し訳ありません。知らなかったんです。あの方とどなたもあいせきにしてはいけないって。あの方、毎日のようにここへ来て、二名様からってどういうことなのって、大声でクレームを言って。そんなこと知らなかったから、わたし、あいせきをご案内してしまって。本当にすみませんでした」

そんなことあるはずがなかった。大声でクレーム。


「わかちあいたいもの」


サチはただ誰かと食事がしたかっただけだ。


今なら間に合うかもしれない。店を飛び出して、ぼくは走ってサチを追いかけた。駅前の商店街を、裏口の公園を、思いつく限りの場所をさがしたけれど、サチはどこにもいなかった。電車に乗って行ってしまったのかもしれない。お互いどこに住んでいるのかとか、そういう話をしなかったことを少しだけ後悔した。


アパートにもどると、茶々とめめは、互いの身体をくっつけあってすやすやと眠っていた。そのことにぼくはとても癒された。わかちあっている、とさえ思った。


ちゃんと食べてる

中華のコース食べた


母親にLINEを送ってから、ほっぺたを膨らませたハムスターのスタンプを押した。すぐに既読がついたが、母親から返信はなかった。

ぼくもベッドに大の字になる。満腹の身体が、贅沢な午睡にどろりと溶けていく。


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