88.理解した上で
「……ぐっ、く」
ウロフィンが呻き声を上げながら、上体を起こす。
すでに動くこともままならないほどの怪我を負っている――だが、彼のことを気にかけている余裕はもう、ハインにはない。
むしろ、ウロフィンは褒められるべきだろう。
ハインが自由になるまで――彼女を足止めしていてくれたのだから。
「あなた、確かハインと言ったかしら?」
「私の名前を憶えているとは、意外ですね」
「他人の名前や顔を覚えないタイプとでも言いたいのかしら? 失礼しちゃうわね。でも――半分正解よ。少なくとも、有象無象の名前を覚えるようなことはしないわ。そこのおじさんの名前も覚えてない……というか、そもそも聞いてない気がしたわね。ま、どうでもいいことだわ」
「おのれ、小娘……!」
数名の騎士が、ウロフィンがやられた姿を見ても、引き下がることなく駆け出す。
ほとんど無傷でウロフィンを倒した時点で異質なのだが、少女の姿が彼らの恐怖心を鈍らせているのか。
「愚かね」
レイエルがそう言うと、彼女の周りにふわりと赤色の物体――否、液体が舞った。
それはぐにゃりと姿を変えて、細長い『槍』へと変化していく。
ヒュンッ、と風を切る音と共に、騎士達を簡単に貫いていった。
「ぐぅ……!」
「ぎ……!? な、なんだ……!?」
「雑兵なんて、この程度で十分よ」
次々と騎士へ向かって行く小さな槍。
ハインはすぐに反応して、『鉱糸』で槍を切断した。
「すぐに私より後ろへ下がってください!」
ハインがそう言うと、騎士達は相手の異常さをようやく理解したのか、素直に従って下がる。
パシャッ、と音を立てて崩れた槍を見て、血液で作られたものであることをすぐに理解した。
レイエルのことをハインは詳しく知っているわけではない――『魔究同盟』は一つの組織ではあるが、様々な目的を持った者の集団でもある。
キリクとディグロスの仲は決していいとは言えず、当然――そんな相手と行動を共にしているレイエルの情報までは多く持っていない。
だが、ディグロスの傍にいる彼女が、普通の人間ではないことは容易に想像できる。
ハインはレイエルの放った攻撃を防ぐと共に、すでに攻撃に転じていた。
『鉱糸』による斬撃――レイエルの肩の辺りに直撃するが、彼女は特に慌てる様子もなく、それどころか避ける仕草すら見せなかった。
決して、ハインの攻撃に反応できなかったわけではない――
「そんな攻撃じゃ、私は殺せないわよ?」
流血がふわりと浮かび上がり、いくつもの小さな血の槍を作り出す。
再び、ハイン以外の者を狙って放たれた。
(……っ、狙いは私以外、というわけですか……!)
ハインは今、この場にいる全員を守るつもりでいる。
それはルーテシアやフレアに限らず騎士達も含めて、だ。
『鉱糸』の範囲を広げ、飛翔する血槍を斬り刻む。
魔力によって凝固しているようだが、決して防げない攻撃ではない。
――問題は、砕いてもその場で再び血槍が作り出されるという点だ。
防いでも、血はその場から消えない。
作り出されるのを確認したらすぐにハインの『鉱糸』でそれを破壊する。
一見では小さく殺傷力も低くは見えるが――それが頭部や首、あるいは心臓へと当たれば、十分に人を殺せるだけの力を持っているだろう。
そして、先ほどレイエルへ与えた傷はすでに治っている――致命傷を与えることはできないという、彼女からの通告というわけか。
「……あなたのその回復力、話に聞く『吸血鬼』というわけですか」
「あら、あなたは知っているのね。なら、私に勝てないということも分かっているのではなくて?」
「詳しいわけではありません。ですが、この程度の攻撃ならば防ぐことは造作もないことです」
「そうねぇ。しっかり防がれているみたいね。でも――」
瞬間、レイエルがその場から消えた。
「私とまともに戦いながら、周りの人間を守れるかしら?」
「……っ!」
眼前に赤色の刃が迫り、ハインは咄嗟に後方へと下がった。
すぐさま『鉱糸』を先ほどまでいた場所に振るうが、レイエルもまた反応が早く、今度は避けられてしまう。
その上、再び血槍が精製されて――あちこちへと飛翔を始めた。
ハインが防ごうとするが、今度はレイエルがこちらに向かってくるのを視認する。
全員を守りながら、レイエルとまともに戦うことは不可能だ。
ハインは今、選択を迫られている。
守れる人間だけを守り、レイエルとの戦いに集中することだ。
そもそも、この場にいる騎士はフレアを守るためにいる――ウロフィンが圧倒され、一部の者はまともに動けずにいる。
血槍でさえ、反応できるのはごく少数なのだ。
ルーテシアとフレアの傍だけを守り切れば、多少は戦いやすくなるだろう。それでも、ハインは全てを守る選択をした。
「――バカねぇ、周囲に気を配りながら、私の攻撃を防げると思っているの?」
地面から、突然血槍が生えてくる。
それは周囲を飛翔する物より遥かに大きく、ハインの心臓目掛けて真っすぐ向かっていた。
――初めから、注意を回りに逸らしてハインを仕留めるのが目的だったのだろう。
回避はできず、防御もできない。
ハインは、この状況でも自身の命より他の者を守ることを優先した。
「防げるさ、私がいるからな」
「!」
言葉と共にハインの前に姿を見せたのは、フレアの傍にいたエリスだ。
風を纏った剣で血槍を防ぎきると、さらには風の刃を放って反撃に転じる。
真っすぐレイエルの首を狙ったそれは、簡単に避けられてしまったが。
(……今のは)
「ハイン、私は貴様を許しているわけではない。ルーテシア様の付き人とはいえ――貴様はフレア様を狙った大罪人だ」
「……存じ上げております。許されないことは理解した上で、私はここに立って、戦っているんですから」
「そうか。ならば、ハイン――今は皆を守るために、協力するとしよう」
「ありがたい提案です。私があなたに合わせます」
ルーテシアとフレアに、それぞれ長く仕えている二人の共同戦線だ。
ハインだけではジリ貧であったが、エリスが加われば――
「そうね。さっきよりはマシじゃないかしら?」
わずかに勝てる可能性がある。




