86.名前で呼んでほしいから
「――ねえ、いつまで私のことをお嬢様って呼ぶのよ?」
やや不服そうな表情で、ルーテシアがハインのことを見る。
ハイレンヴェルクの屋敷の裏庭――洗濯物を干していたハインは、その言葉に首を傾げる。
「? お嬢様はお嬢様ではないですか」
ハインは淡々とした口調で答えた。
ルーテシアがまだ十四歳の頃――この時は、まだ当主になるのはずっと先のことになるだろう、そう考えていたに違いない。
あるいは、当主になる自身の姿すら、想像していなかったか。
「そうじゃなくて、私もそろそろ、お嬢様って言われるのも、なんというか」
ルーテシアは随分と歯切れ悪く、視線を泳がせながら言った。
何となく、彼女の言いたいことは分かる。
十四歳になって、『お嬢様』と呼ばれることに少し抵抗があるようだ。
――と言っても、この国では当主の娘をそう呼ぶのは普通のことで、そこに年齢など関係はない。
ちょっとした我儘みたいなものだ。
ハインはルーテシアにはバレないように、洗濯物を干しながらくすりと笑みを浮かべる。
「私にとってお嬢様はお嬢様ですよ。これからもずっと」
「それはもちろん、ハインはずっと一緒にいてほしいわよ。だから……その、名前で呼んでほしいから」
ハインは手を止めて、ルーテシアの方を見る。
少し恥ずかしそうにしているのは、改めてお願いするようなことでもないと、自覚しているからに違いない。
ルーテシアの願いを聞き入れるのは難しい話ではない――だが、ハインにとっては簡単なことではなかった。
ハインはハイレンヴェルクの家に仕えるメイドであるが、送り込まれただけの存在に過ぎないということ。
いくら年月が経とうと、その事実は変わらない。
何かあれば、ハインは目の前の少女を裏切ることになるのだ。
――ここにやってきた当初は、ただ仕事をこなすつもりできた。
言われたことを言われた通りにすれば、何も問題はない。
別にルーテシアやその家族に危害を加えるような話はなかったし、あくまでハイレンヴェルクの家を監視し、その動向を報告するだけ。
ハインはその役目を果たしていたし、ハイレンヴェルクの家からも認められている。
一度だけ、ハインは『普通の生活』に憧れたことがあった。
ただの一度、妹であるクーリを連れて逃げ出そうとしたのだ。
『魔究同盟』は確かにハインとクーリを救ってくれた。
けれど、その組織に善意などなかった。
ハインはもう、必要以上にルーテシアと仲良くするつもりはない。
そう考えていたのに――どうしても、彼女のことを大切に思ってしまう。だからこそ、ハインはある提案をした。
「お嬢様を名前で呼ぶのは構いませんが、一つだけ条件をつけましょう」
「条件?」
「お嬢様が、ハイレンヴェルクの当主として立派に役目を務められた時……なんて、どうでしょう」
「当主って……何年先の話なのよ!?」
ルーテシアは少し怒ったような表情を見せ、ハインに詰め寄る。
「願いというのは簡単に叶うものではない、という私からの教訓のようなものです」
「名前を呼ぶだけでしょう」
「お嬢様は優秀ですが、私にとってはまだまだ『お嬢様』です。さ、まだ勉強の途中でしょう? ここにサボりに来たのは分かっていますからね」
「……もういいわっ、別に、貴女にお嬢様って呼ばれるのが嫌なわけじゃないし」
くるりとルーテシアは踵を返して、ハインの元を去る。
その後ろ姿を見送って、ハインは儚げに微笑みを浮かべた。
「あなたが当主として、私を必要としない時がくれば……その時は、安心してあなたの元を去れますから」
これは、ハインの我儘だった。
思えば、彼女が母を亡くした時からか――本当は、ルーテシアの傍にずっといてあげたかった。
気丈に振舞っていても、彼女もまた一人の少女で、けれど貴族の令嬢という立場もあってか、人を頼ろうとはしない。
彼女の支えになりたいが、そんな資格は自分にはない。
ハインもまた、終わらない葛藤の中にいる。
――だからこそ、彼女の『名前』を呼ぶ時は、永遠に来ないのだと思っていた。