85.この世でただ一人
「――随分と懐かしいですね、剣を握るお姿は」
向き合ったハインが、ぽつりと呟くようにルーテシアの姿を見て口にした。
ハインの言う通り、ルーテシアが剣を握るのは久しぶりのことだ。
いつ以来か――かつては、母に憧れて剣術を極めようとしたことはあった。
けれど、ルーテシアは剣術を捨てた。
正確に言えば、治癒術を学ぶために剣術を諦めたのだ。
ルーテシアの治癒術はこの国でも並び立つ者はいないほどに高度であり、選んだ道にはきっと間違いはなかったのだろう。
だが、この場においては――ルーテシアは剣術を修めていないことを後悔している。
「動ける者はフレア様を守れ!」
どこからともなく怒号にも似た指示があり、数名の騎士が動き出した。
潜んでいた敵の勢力で言えば、それほど多くはない――が、少数精鋭と言うべきか。
次々と倒されていく騎士がいる中、何とか反応できた者達が向かってくる。だが、
「……!」
ピタリと、向かってくる騎士達の動きが止まった。
まるで時間すらも静止したかのように見えるが、よく見れば周囲には細く光る『糸』がある。
ハインが使っていたそれは武器であり、以前にディグロスを止めた時にも使用していたものだ。
身体の動きを止めるだけでなく、下手に動けば肉に食い込むようで、捕らえられた騎士達は呻き声を上げる。
フレアを守るために動いた騎士は悉く動きを止められ、やがて戦況は完全に劣勢となった。
この場において最も実力があり、ハインを止められる可能性のあるのはエリスだ。
だが、エリスは敵の一人を相手取るのに手いっぱいで、すぐにはこちらにやって来られない。
ハインが懐から一本のナイフを取り出すと、それをルーテシアの方へと放った。
ヒュンッと風を切る音が耳に届き、頬を掠めるほどの距離を銀色の刃が通ったのがかろうじて見えただけだ。
ルーテシアは反応すらできず、わずかな痛みと共に頬に温かい感覚が伝わる。
「剣を握ったところで、実力は知れています。あなたでは、私を止められませんよ」
これは警告だ――もしも真正面に放たれていたら、ルーテシアは頭部を貫かれていた可能性がある。
たったの一本のナイフだけで、ここに立つ資格がないことを分からされてしまう。
剣を握った手が震えて、呼吸が乱れた。
目の前のハインの恐怖している――ハインはどこまでも冷徹な表情を浮かべていて、それはルーテシアの知る彼女とはかけ離れていた。
普段から表情をあまり表に出さない人であったが、ルーテシアは彼女が誰よりも優しいことを知っている。
十年も一緒にいたのだから、何でも知っていると思っていた。
「ルーテシア……」
か細く名を呼ぶ声が、ルーテシアの耳にとどく。
後ろに控えているフレアだ。
ハインを目の前にして振り返ることはできないが、彼女が言いたいことは伝わってくる。
――これ以上無理をしてはいけない、ここから逃げるべきだ。
言葉にせずとも伝わって、それがルーテシアを奮い立たせることになる。
何故、ここにいるのか。
フレアを守るために決まっている――今更、ハインを前にして何を怯えているのか。
分かっていたはずなのだ、彼女が敵にいることは。
「大丈夫」
小さく息を吐きだして、ルーテシアははっきりとした言葉で答える。
フレアに対する返答でもあり、自分に対する叱咤の意味をも含まれていた。
ルーテシアは血で濡れた頬を拭う――そこにはすでに傷はなく、ハインが驚きの表情を浮かべた。
「この程度なら、傷の一つにもならないわよ」
「――まさか、治癒術をご自身に対して発動している……?」
ハインが驚くのも無理はないだろう。
自分に治癒術をかけること自体は決して難しいことではない――驚いている点は、ルーテシアが治癒術を発動しているように見えないという点。
「自動治癒――実際に使ったことはほとんどないのだけれど」
「怪我を負った際に自動で発動する治癒術……というわけですか。それは、人という枠組みを超えかねない領域ですよ」
「大袈裟な物言いね。治癒術自体、難しくても使える人は少なくはないわよ」
「その通り。ですが、あなたはご自身のやっていることが分かっていない――いいえ、今は論じるべきことではないでしょう。驚きはしましたが、あなたは私の攻撃に一切反応ができていない。それに、治癒術である以上は回復が完全に追いつくわけではないのですから」
ハインがそう言うと、数本のナイフを取り出して、ルーテシアに向かって放つ。
剣を構えるが、どれも斬り払うことができずに、身体中あちこちに切り傷を負う。
ルーテシアがいる限り背後にいるフレアには届かないが、深い傷はすぐには回復しない。
「くっ、ぐぅ」
思わず、呻き声が漏れる。
治癒術は痛みを和らげることができるが、傷を負った瞬間は別だ。
斬られれば斬られるだけ痛みがあって、ルーテシアは苦悶の表情を浮かべる
けれど、決して逃げ出すことはしなかった。
「さあ、お嬢様。我慢比べはもうやめましょう?」
「ええ、そうね。貴女は……私を、殺す気がないんでしょう?」
「――」
ピタリと、ハインが動きを止める。
全ての攻撃はルーテシアに傷を負わせたが、致命傷には程遠い。
素人にでも、そこに殺意がないことは分かるだろう。
「……あなたは私のターゲットではないですから」
「私がいる限り、フレアには手を出させない」
「ナイフの投擲にも反応できないのに、随分と驕った発言ですね。私ならあなたを無視してでも――」
「ハインッ!」
「!」
広場に響き渡るほどの大きな声をルーテシアが発し、ハインは目を丸くして押し黙った。
ルーテシアは今までに見せたことのない、怒りと悲しみの入り混じった表情で、叫ぶように言う。
「貴女のことを……私は何も知らなかった! 十年も一緒にいたのに、私は貴女がどうして、こんなことをしているのか、まだ分かっていないっ! こんなバカな人間、愛想を尽かされたってしょうがないって、正直に言えば思っているわ! でも……それでも! 私は、貴女に戻ってきてほしいの」
途中、言葉を詰まらせながらも、ルーテシアは本音を口にした。
ハインはルーテシアを殺さない――けれど、敵に協力する理由がある。
どうしようもないことだって、分かっている。
この訴えだけで止まってくれるのなら、とっくにハインは戻ってきてくれたはずだ。
けれど、言葉にしないわけにはいかなかった。
それが、ルーテシアの願いだからだ。
「お嬢様――」
「ハイン、いつまで遊んでいるのですか?」
「! システィ……」
口を開いたハインの言葉を遮ったのは、エリスと戦っていた女性――システィだ。
ルーテシアもその顔には覚えがある――以前に、アーヴァントやクロードが橋の上で待ち構えていた際に、ハインに何か耳打ちをして、彼女の動きを制限したのだ。
エリスを前にしても、なおハインへと言葉をかける余裕があるのは、彼女もまた実力者であることを窺わせる。
「これ以上、時間をかけると言うのなら、分かっていますね?」
「……無論です。少々、戯れが過ぎました」
「ハイン――!」
ルーテシアの身体にも、ハインの操る糸が巻き付いて、その動きを制限した。
無理やり動こうとすると糸は身体を斬り刻む――いくらルーテシアが治癒術を使って傷を治せても、縛るような糸を無理やり抜け出す力はない。
その隙に、ハインはルーテシアの横を通りすぎ、フレアへと迫った。
わずかに視線が交差したが、ハインは止まらない。
「フレア様ッ! クッ、そこをどけ!」
「いいえ、あなたは王女を守れなかった騎士として、この先を生きていくのですよ」
エリスも間に合わない。
ハインがナイフを握り、刃先を真っすぐフレアへ向かって振り下ろす。
(ダメ……私じゃ、止められなかった……! 誰か、お願い……!)
ハインに――親友を殺させないで。
「――お姉ちゃんっ!」
その願いを叶えるのは、一人の少女の叫びだった。
瞬間、フレアの喉元にナイフを突き付けたまま、ハインの動きが止まる。
ルーテシアは声のする方向に視線を送った。
広場を見下ろせる位置にいたのは、見覚えのある少女だ――名前は確かクーリと言ったはず。
シュリネが病院で知り合った子で、見舞いにも顔を出した方がいいと最後に話した。
「ちっ、すぐに確保しなさい」
エリスと戦っていたシスティが近くの仲間に指示を出し、それに応じてクーリの元へと数名向かって行く。
その動きは素早く、すぐにでもクーリを捕らえる勢いであった。だが、
「……あ」
ルーテシアは気付いて、声を漏らす。
はっきりと顔が見えないが、クーリの傍にもう一人――少女がいる。
クーリの元へと向かった刺客は、彼女の傍まで近づいたところで、軽々とその少女に斬り伏せられた。
この辺りでは非常に珍しく、派手な着物姿をした少女――
「シュリネ……!」
思わず、その名前を口にする。
どれほど彼女のことを心配したか。
そして、どれほど待っていたか――どうやら、ハインも同じだったようだ。
「本当に、やってくれたようですね」
安堵したような声を漏らすと、ハインはそっとナイフを下ろす。
ルーテシアの動きを止めていた糸も、はらりと身体から離れる。
「ハイン! 我々を裏切るのですか!? この場を切り抜けられるとでも!? 今なら、まだ間に合いますよ。さあ、すぐに王女を殺しなさい!」
システィが怒りに混じった声で言い放った。
だが、すでにハインから、フレアを殺そうという意思は感じ取れない。
ゆっくりとした動きで、ハインはルーテシアの傍に立つ。
「裏切るなどと、おかしなことを口にしないでください。私が忠誠を誓ったのは、いいえ――これからも、忠誠を誓うのはこの世でただ一人」
ナイフを構えて、はっきりと宣言する。
「ルーテシア様、ただ一人です」
ハインにとっての、主の名前を口にした。