81.もう大丈夫
「ハッ、ハッ、ハッ――この、私が、ぐっ、こんな……」
呻き声を上げながら、オルキスはふらふらとよろめきながら病院内を歩く。
すでに魔物の姿ではなく――ほとんど人間の状態に戻っている。
再生力は失われ、流れ出る出血を止めることができない。
後ろからやってくるのは、オルキスの血で赤く染まったシュリネだ。
結局、オルキスからシュリネへ反撃の手は見つからず、ただひたすらに斬られ続けただけであった。
オルキスは痛覚を遮断しているが、もしもこれができていなければ――とっくに耐え難い激痛だけで命を落としているかもしれない。
力なくその場に座り込むと、シュリネは動きを止めた。
「再生しながら逃げられると、さすがに時間がかかるね」
「……フ、フフ」
「? 何かおかしなことでも――」
オルキスの不敵な笑みと共に、シュリネの視界がわずかに揺らいだ。
ふらりとバランスを崩しそうになるが、足元に力を入れて身体を支える。
だが、全身の力が抜けていくような感覚があった。
(これは……)
「気付いた、かしら? 私がただ闇雲に逃げ回っている、とでも? 魔物の特徴を持っていると理解したのなら……警戒すべきだったのではないかしら? 私の血液には――毒が混ざっているのよ。皮膚からでも徐々に浸透するものが、ね」
苦しんでいた様子のオルキスだが、だんだんと余裕を取り戻していく。
シュリネに斬り刻まれ、戦う力は残っていないようだが、かろうじて平静を保てるようには戻っているようだ。
シュリネは特に迷うことなく一歩踏み出す。
「! 解毒は私にしかできないわよ? 私を殺すとどうなるか――」
「聞いてなかったの?」
シュリネはまた、一歩踏み出した。
「わたしはあなたを斬ると言った」
「ま、待ちなさい。あなたも死ぬのよ……!?」
「あなたも、ね。わたしに勝てないと確信した言葉だ」
「……っ!」
オルキスは指摘され、すぐに余裕の表情は崩れ去る。
身体が毒に冒されている――だから、どうしたというのか。
シュリネのやるべきことは決まっている。相手の脅しに従って、目的を見失うようなことはしない。だが、
「……せ、先生?」
暗い廊下の先で、少女の声がシュリネとオルキスの元へと届いた。
オルキスが振り返ると、そこにいたのは壁を伝って歩いてきたと思われるクーリの姿。
それを見て、オルキスは嬉しそうな声で笑う。
「アハ、アハハハ! そう、そうよねぇ! あなたは平気でも……彼女はどう? 私を殺せば、彼女は助からない! 私にしか、彼女は治せないのよ!? ねえ、その事実を理解した上で、彼女の前で私を殺せる!?」
目の前のオルキスを殺すこと――それはすなわち、クーリも殺すことと同義だと言っている。
シュリネだけならば迷うことはないだろうが、本人を前にして、それができるかと問うているのだ。
オルキスの言葉で、シュリネの動きが止まる。
にやりと、オルキスは勝利を確信した笑みを浮かべた。
「ウフフフ、そうよねぇ? 自分は犠牲にできても……この子は別。だって、あなたはこの子を救いに来たんでしょう? なんだかんだ言っても、結局、私を殺すことなんて――」
「あなたはちょっと、黙っててくれる?」
「……!」
シュリネの鋭い視線を受けて、オルキスは黙り込む。
下手な言動は、簡単に命を落とすことに繋がると、理解させるだけの殺気があった。
「シュリネ……」
「クーリ、わたしはあなたの病気のこと、何も知らない。この人を斬ったら、あなたはもう助からないかもしれない。でも、わたしはハインと約束したんだ」
「――大丈夫、あたしはずっと、この時を待ってたから」
「……待っていた?」
シュリネにとっても、それは予想していない言葉であった。
クーリは懐から、一本の注射器を取り出す。
中には、赤色の液体――おそらくは、血液と思われるものが入っている。
それを見て驚いたのは、オルキスであった。
「な……どうしてそれを……!?」
「どうして? 初めから、これはあたしのためにあるモノだよね?」
「……っ、分かっているの? あなたがそれに適合できるように、私が調整しているのよ? もしも適合できなければ、死ぬ――まだ、あなたはその段階にはない」
「うん、分かってる。あたしはずっと、覚悟ができてなかった、あたしがいなくなったら、お姉ちゃんもきっと……。けど、シュリネがここに来てくれたから」
クーリの言葉の真意は分からない。
けれど、彼女はシュリネの方を見て、小さく微笑みを浮かべた。
正確に言えば、包帯を巻いた彼女は――シュリネのことは見えていないだろう。
それでも、クーリはハインのために何かをしようとしている。
ならば、見届けるのがシュリネの役目だ。
クーリは、手に持った注射器を首元に差し込むと、中身をそのまま自身へと注入していく。
しばしの静寂の後、クーリが呻き声を上げて、その場に膝を突いた。
「あ、がっ、ぐ、ぅ……!」
胸を抑えて、苦しみだす。
よほどの苦しみなのだろう――クーリは蹲ったまま、やがて動かなくなった。
「アハハ……だから言ったじゃない。簡単じゃないのよ? 適合率が五十パーセント以上あったとはいえ、病弱な身体だもの。残念だわ、あなたが死んだら、シュリネさんも私を迷わず殺すものね。私の苦労も――え?」
オルキスは驚きながら、クーリの方を見る。
シュリネも、あるいはクーリが自害の道を選んだのかと思ったが――違った。
クーリが立ち上がっている。
杖がなければ満足に歩けそうになかった彼女が、ゆっくりとした動きだが、しっかりと二本の足で立っている。
はらりと、目に巻いていた包帯が外れた。
暗いところでも分かる――赤く光る瞳が、そこにはあった。
それを見て、オルキスは歓喜した。
「アハ、アハハハ! 成功したのね!? 素晴らしいわっ! これは私の成果よ! あの方に認めていただけるわ! クーリ、あなたは今――」
「シュリネ」
喜ぶオルキスを全く気にも留めず、クーリはただ一言、シュリネに向かって言い放つ。
「もう大丈夫。やって」
その言葉だけで十分だった。
「ハ……?」
何が起こったのか、オルキスには理解できていないらしい。
意気揚々と語ろうとしていた彼女だが、もはや言葉を発することはできないだろう。
その首は宙を何度か回転しながら舞って、ゴロゴロと無残に転がっていく。
残された身体はだらりと脱力して、そのまま動かなくなった。
「ふぅ」
オルキスの始末は完了した――小さく溜め息をつきながら、シュリネはクーリの傍へと向かおうとして、その場に膝を突く。
「シュリネ!」
クーリの方から、シュリネへと駆け寄ってきた。
「何だか知らないけど、動けるようになったんだね……。一先ず、あなたはこれで自由になった。あとは、ハインの方だ。すぐにでも行きたいところ、だけど」
オルキスの毒が身体に回っている。
解毒できるのは彼女だけと言っていたが、治療法くらいは病院のどこかに残っているかもしれない。
「動かないで」
クーリはそう言うと、小さな舌でシュリネの身体に付着した血液を舐める。
さすがのシュリネも、その行動には驚きを隠せない。
「ちょ、何やってんのさ。この血は毒なんだよ? 直接舐めるなんて――」
「大丈夫、血ならなおさら。それに、たぶんあたしなら解毒できる……と、思う」
自信があるような、ないような、曖昧な言葉を口にしたクーリ。
瞳の色の変化や、今まで病人だったはずの彼女が急に動けるようになったことなど、あまりに謎が多い。
いや――オルキスは彼女も含めて『実験体』と呼んでいた。
「さっきの注射器もそうだけど……あなたは何をしたの? ……というより、何になった、というべきなのかな」
「うん、ちゃんと説明する。でも、時間がないから、今は手短にだけど。あたしは――吸血鬼になったの」