74.分からず屋
ヒュンッ、と風を切る音が耳に届く。
シュリネは身を屈めながら、素早い動きで走り回る。
人のいる場所はまずい――ハインの攻撃は、糸を使ったもの。
『鉱糸』と呼ぶべきか、材質に剣や刀にも使う鉱石が混ざっているのであろう。刃のように鋭く、武器としては非常に厄介だ。
シュリネは王都を流れる水道に目を向けると、すぐに狭い横道へと降り立って駆け出した。
「いつまで逃げるつもりですか? あなたらしくもない」
「逃げてるわけじゃないよ。戦える場所を探してる」
「なるほど、ですが――私は手を止めるつもりはありませんので」
王都の地下――より狭い場所での戦いは、シュリネの方が不利になる。
ハインの鉱糸は魔力を帯びて、シュリネへと迫る。
跳躍すると、先ほどまでいた足場は斬り刻まれた。
さらに、ハインは短刀を投擲する。
シュリネはそれを何とか捌くが、中遠距離での戦いは、圧倒的にハインの方が有利だ。
「魔刀術――《水切》」
シュリネが二本の指を立てて、腕を振るう。
ハインに魔法は届かず、鉱糸に寄って簡単にかき消されてしまった。
迫りくる鉱糸を避けながら、シュリネはさらに奥の方へと向かう。
暗く、ほとんど光の届かない場所でも、ハインは確実にシュリネを捉えていた。
(強いね、ハインは――楽しくなってきた)
そう考えたところで、悪い癖が出たと、シュリネは少し反省する。
別に、ハインと本気で殺し合うつもりはない――そんなこと、ルーテシアが望んでいないからだ。
ある程度開けた場所までやってきたところで、ようやくシュリネは足を止めた。
何度か掠めたために、あちこちから軽く出血している。
「ようやく諦めましたか。潔く散ることも美徳だと私は思いますよ」
「言ってくれるね。わたしを始末しに来た――だっけ。どうしてわたしを?」
「簡単なことです。フレア・リンヴルムを始末するのに、一番の障害になります。あなたは強い――故に、私があなたの相手をするんです」
「あなたの実力なら、アーヴァントからルーテシアを守ることもできたんじゃない?」
「……さあ、どうでしょうか。今となっては、もう過ぎたことです」
ハインが指を動かすと、再び風を切る音と共にシュリネへと鉱糸は迫った。
狙いは首元――避けなければ、確実に首が落ちるだろう。
だが、シュリネは避けなかった。
「っ!」
ハインはわずかに驚いた表情を浮かべて、鉱糸を動かす。
ギリギリ、首をかすめたが、シュリネの首が落ちることはなかった。
「落とさなかったね、落とせたのに」
「……どういうつもりですか。避けることはできたはず」
「こっちの台詞だよ。どうして、わざと外したのさ?」
シュリネの問いに、ハインは鋭い視線を向ける。
しばしの沈黙の後、
「次は当てますよ。何もせずに死ぬのは不本意でしょう。あなたは戦って死ぬ――そうであれば、お嬢様にも顔向けできるでしょう?」
「護衛が死んだら、顔向けなんてできるわけないよ。それに、わたしはあなたと話すつもりだから」
「今更、何を話すと言うんです? 私はフレア様を狙う暗殺者の一味で――罪人です。その事実は何も変わらない」
「クーリ・クレルダ」
「――」
シュリネがその名を口にすると、ハインの表情が明らかに変わった。
怒りにも似た表情だが、すぐには襲い掛かってこない。
小さく溜め息を吐くと、
「聞いたんですね、その名前を」
「うん、教えてくれたよ。正確には、クーリの姉の名前を聞いたんだけどね」
クーリはバランスを崩した時に、小さな声で口にした。
『ハイン・クレルダ――あたしの姉の名前』、と。
どうして小声だったのかというと、おそらくは聞かれたくなかったからだ。
依然、ハインは臨戦状態のままだ。
けれど、すぐには仕掛けようとはしてこない。
「……ハインが戻ってこられない理由は、あの子のため?」
「それを答えて何になりますか?」
「ルーテシアは、まだあなたのことを信じてるよ」
「……どこまでも、愚かですね」
少し悲しそうな表情を浮かべて、ハインは言う。
――だが、すぐに殺気に満ちた視線で、シュリネを睨む。
「説得など無駄ですよ。私は――もう、あの子の元へは戻らない」
言葉と同時に、ハインは動き出す。
両腕を振るうと、そこから鉱糸が伸びてシュリネへと迫る。
サンッ、と壁や床を引き裂く音が耳に届き、シュリネは思わず舌打ちをした。
「ちっ、分からず屋め……!」
シュリネの言葉では――ハインには届かない。
いや、諦めるわけにはいかなかった。
ずっと、ルーテシアのことを見てきた。
彼女がいなくなってから、いつだってルーテシアは――ハインのことを忘れたことはないはずだ。
その思いを踏みにじるようなことは、あってはならない。
シュリネは刀を抜いて、ハインに応戦する。
すぐに、抜いた刀に鉱糸が巻き付いた。
刃を滑らせて、完全に巻き付かれる前に外す。しっかりと捉えられたら、シュリネの武器を奪うことも難しくはないだろう。
接近戦に持ち込めればあるいは――だが、あえて不利な場へと足を運んだのは、シュリネだ。
回り込むこともできなければ、真正面から斬り合うほかない。
徐々に後方へと下がりながら、シュリネはひたすらにハインの攻撃を切り払う。
「あなたの実力はその程度ですか? かのクロード・ディリアスを破り、ルーテシア・ハイレンヴェルクを救った――あなたの力は。それとも、片腕ではやはり限界が?」
「わたしはただの剣士だからね。でも、引き受けた仕事は最後まで全うするよ」
「それは不可能です。あなたはここで死ぬのですから」
再び、ハインの鉱糸がシュリネの周囲を囲うようにして舞った。
視線だけ動かして、シュリネは鉱糸の隙間を確認する――どれほど優れた使い手であったとしても、特に糸状の武器は扱いが非常に難しい。
わずかな綻びは必ず、存在する。特に、精神的に不安定な状態であるのならば。
シュリネはあらゆる角度から襲う鉱糸をギリギリのところで避け、ハインへと迫った。
ハインは驚きに目を見開く――ほんのわずかな、たった一瞬の隙をついて、間合いを詰めたのだ。わずかに指を動かして、鉱糸をシュリネへと向かわせる。
だが、間に合うはずもない。
シュリネがそのまま刀を振るえば――ハインの首は宙を舞う。
そこで、静かにハインは目を瞑った。
「やっぱり、あなたはここで死ぬつもりだね」
刀を手放したシュリネは、そのままハインを思い切り拳で殴り飛ばした。