66.何も言わないで
ハインの様相は、最後に見た時とはまるで違うものであった。
ローブに身を包んでいるが、黒を基調とした革製の衣服に身を包み、先ほどディグロスを止めた糸をなびかせながら、冷ややかな視線でルーテシアを見る。
「お久しぶりです、お嬢様」
「久しぶりなんて、言っている場合じゃないでしょう。貴女、一体今までどこに……! それに、王女の暗殺って、どういう――」
ルーテシアが問い詰めながら近づいていくが、それを止めたのはシュリネだ。
目の前に、一本の糸が小さな音を立てて動くのが見える。
「護衛としての役目はきちんと果たしているようですね。よく見ています」
「……? 何を言って……?」
「ハインは今、ルーテシアを攻撃しようとしたんだよ」
「――え?」
ルーテシアは驚きに満ちた表情を浮かべた。
当たり前のことだろう、久しぶりに姿を見せたハインが――唯一の家族と言ってもいいほどの相手が、ルーテシアに明確な敵対の意志を示したのだから。
シュリネが止めていなければ、あの鋭い刃のような糸が、ルーテシアの顔に当たっていたかもしれない。
鋭い視線を向けて、シュリネはハインに言い放つ。
「ルーテシアはずっとあなたの帰りを待ってたんだよ? それなのに、どういうつもりなのさ」
「私はもう、お嬢様のメイドではありません。今は、フレア様の暗殺を目論む者に加担している身ですから」
「……! フレアの暗殺だなんて、冗談でも言っていいことではないわ!」
「冗談で、このような場所に来るとでも? フレア様、私からのアドバイスを一つ――今一度、王位の継承については諦められた方がよろしいかと」
「な……」
そう言われ、フレアは言葉を失っていた。
エリスがフレアの前に立ち、ハインに剣先を向ける。
「自ら逆賊を名乗るか。この私の前で……!」
一触即発――すぐにでも斬り合いが始まろうかという雰囲気だったが、
「今、私はあなた方と戦うつもりはありません。このまま退きますので、フレア様はどうかご検討のほどを」
そう言って、ハインは背を向ける。
「待ちなよ。あなたまで逃がすと思うの?」
「先ほどの男も言っていたでしょう。『その腕』、早く治療した方がいいですよ」
「! その腕って……シュリネ、どうかしたの?」
「気にしなくていいよ。ハインのことを優先して」
「お嬢様、シュリネの左腕ですよ」
そう言い残すと、ハインはすぐさま駆け出した。
「! 逃がすか――」
「シュリネ、待って!」
声を上げたのはルーテシアだ。
追いかけようとしたシュリネだが、彼女が服の裾を掴んでいたために、動きを止める。
「ハインが目の前にいるのに、どうして止めるの? このままだと逃げられるよ」
「……左腕、見せてちょうだい」
「大したことないから」
「いいから」
「ハインが――」
「ハインも大事だけれど、貴女のことも心配なのっ!」
面と向かって言われ、シュリネは渋々、袖を捲った。
それを見て、ルーテシアは目を見開く。
「っ、そんな……」
爪は全て割れており、指も本来ならば曲がるはずのない方向を向いている。皮膚は裂け、腕自体がへし折れている――そう表現すべきだろうか。
常人ならば、間違いなく悲鳴を上げていて動けなくなるような、そんな状態だ。
「すぐに治療をしないと……! 応急処置は私がするわ! 誰か、救護を呼んで!」
ルーテシアの言葉に反応して、騎士の一人が駆け出した。
何名かはハインの後を追うが、すでに姿は見えない――おそらく、逃げられただろう。
「私を――庇った時か……?」
そう問いかけてきたのはエリスだ。
ディグロスの一撃が彼女を襲った時――確かに左腕で彼女の頭を下げさせ、攻撃を回避した。
それ以外の身体の部位はなるべく拳から遠ざけ、できるだけ触れないように。
結果、触れてはいないのにこの有様だ。
「あなたのせいじゃないよ。間合いを見切れなかったわたしの責任」
「だが――」
「あなたの役目を忘れるべきじゃない。今は王女様に付き添ってあげなよ」
「……っ」
シュリネが語気を強めると、エリスは押し黙ってフレアの方へと戻っていった。
気にされる方が迷惑だ、とシュリネは考えていた。
ルーテシアが治療を始めるが、その表情は険しい。
「……こういうタイプの怪我は、私の治癒ではたぶん難しいから。止血を中心に行うわ。それと、痛みもなるべく和らげるから」
「ハインを連れ戻す機会だったのに」
シュリネは少し怒ったように言った。
ルーテシアは今まで――ハインのことを忘れたことなどない。彼女が定期的に王都を訪れ、ハインの行きそうな場所を捜していたことはよく知っている。
だからこそ、シュリネではなく優先すべきはハインだったのだ。
「……お願いだから、今は何も言わないで」
「言わせてもらうよ。この程度の傷、すぐに治療しなくたって――」
「この程度なんかじゃないっ! 貴女は大怪我をしているのっ! 私は……私だって……ハインに戻ってきてほしいと思っているわよ! でも、貴女を放っておけるわけ、ないじゃない……っ」
ルーテシアのあまりに悲痛な表情を見て、シュリネは思わず視線を逸らす。
「……悪かったよ、もう言わない」
「……」
返事はなかったが、ルーテシアの治療は続けられた。
ルーテシアが一番、混乱しているし困惑しているに違いない。
ハインが敵側にいて、シュリネが大怪我をして――一度に受け止めるには、荷が重すぎるのだ。
もはや試合どころではなく、少女達にとって状況は最悪だった。