100.『英雄』
以前の怪我と比較するのもおかしな話だが、今回のシュリネの怪我は相当なものであった。
自身で切断した腕は治らず、やはり左目の完治も難しい――折れた足や傷ついた内臓については、何とか治療の目途は立ったが、それでもしばらくは絶対安静と念を押されるほどだ。
主治医となったのはルーテシアの治療を担当した医師であり、『ルセレイド大病院』については、オルキスの件もあって現在は封鎖されている。
あの病院の地下には、オルキスが作ったと思われる小さな『研究所』が存在した。
治療の傍ら、彼女が行っていた研究――これに関しては公表されていないが、少なくとも彼女が在籍し、人を使った研究を行っていたという事実がある以上、最終的には病院も閉鎖される可能性が高い。
ルーテシアの担当医は優秀だったこともあり、すでに別の病院で臨時の医師として働き始めていた。
大病院が封鎖されている以上、多くの患者が流れてくることもあって、王都でも混乱は続いている。
夜――シュリネは入院しているが、自分の部屋にはいなかった。
鍵がかけられているはずの屋上で、シュリネは一人、外の景色を眺めていた。
「――捜しましたよ、こんなところで何をしているんですか」
シュリネが声の主の方に視線を送る。
そこにいたのは、ハインだ。
「久しぶりだね、元気そうで何よりだ」
「あなたは……まだ治りきっていないようですね」
「まあね。出歩こうとすると、ルーテシアに怒られる。だから、夜中にこうして、ちょっとだけ外を見てるんだ。病院の外に出ないだけいいでしょ?」
「――私のことを嘆願する際には、病室から抜け出したそうですね」
ハインの言葉に、シュリネは肩を竦める。
――つい先日のこと、確かにシュリネはまだ出歩く許可も下りていない状態で、王宮へと赴いた。
時折、ルーテシアから話は聞いていた。
フレアが狙われたという事実――関わっていた貴族が罰せられる中、どうしてハインが許されるのか。
理由を説明したとしても、その理由が本当であるかも怪しい、と理由をつけては厳罰に処すべき、という声が大きかったそうだ。
狙われた本人であるフレアが許していたとしても、王国がそれを許さない――そんな状況だ。
ルーテシアは素振りを見せないが、明らかに心労が溜まっているのが見えた。
そんな彼女の護衛であるシュリネは――今の状況を許すはずがない。
「ちょっとお願いしただけだよ、意外とみんな物分かりがいいよね」
「……ちょっとのお願いが、あなたの命を懸けたものであるとは思えませんが」
「なんだ、内容はもう知ってたんだ」
シュリネは軽く言うが、ハインを救うために取った行動は――おおよそ信じられないものだ。
王宮内で行われる議論の中、ハインの処罰の内容について触れた時のことだ。
「再三に説明している通り、ハイン――彼女には事情があって……」
「事情があれば、暗殺未遂を許すなど、この王国の根幹が揺らぐこと。王族を狙うということは、決して許されていい行為ではないのです」
ルーテシアがどう言おうと、必ず反論が出る。
それが正しいことも分かっている――解決の糸口を絞り出そうとしても、見出せないままに時間だけが過ぎていく。
結局、ハインを救い出すことはできなくなってしまうのだと、ルーテシアは焦る一方であった。
ルーテシアが言葉に迷っていると、勢いよく扉が開かれた。
「な、何者だ!?」
「見れば分かるでしょ、この国を救った『英雄』だよ」
その言葉に、驚いたのはルーテシアだ。
身体中に包帯を巻いて、刀を杖代わりに歩いてきたのか――まだ病衣に自身の着物を羽織った姿のシュリネが、一枚の紙を手にやってきたのだ。
ざわつく者達を無視して、シュリネはルーテシアの隣に立つと、その紙をテーブルの上に叩きつけるようにして、言い放つ。
「わたし、シュリネ・ハザクラの名において――ハイン・クレルダの身柄の解放を要求する」
「! ば、バカな……そんなこと、お前はこの国の人間ですらない! それを――」
「お前? あなたさ、誰に向かって言っているの?」
シュリネが睨むと、先ほどまではルーテシアに対して冷静に受け答えしていたはずの男は押し黙る。
少女とは思えないほどの威圧感――かつて王国最強と知られたクロードを一対一で破り、フレアを狙った暗殺者の中で、そのクロードすら超えるであろう、化け物を討ち取った『英雄』。
王宮内では、すでにそんな風な呼び方をされ始めていた。
無論、シュリネにとってはそんな立場はどうでもいいし、はっきり言えば英雄なんて言葉は必要ない。
だが、利用できるのであれば――それに越したことはない。
「簡単だよ。ハインの身柄はわたしの方で引き取って、監視する。もしも彼女がまた裏切るようなことがあった場合、責任は取るよ」
「せ、責任とは?」
「ハインはわたしが斬る。その上で――わたしの首もあげるよ。何かあったら好きにしていいから」
「――」
その場にいたフレアやルーテシアも含めて、全員が聞いて絶句した。
自らの命を差し出して、ハインを救おうとしている。
――もちろん、通常であればそんな申し出をしたところで、通るはずもない。
重要なのは、シュリネ・ハザクラは『リンヴルム王国を二度に渡り救った英雄である』という事実だ。
「い、いや、しかし……」
「あれ、まだ何か反論があるの? そんなに、ハインが自由になることが心配? 何か裏でもあるのかな?」
「……! ぶ、無礼な! そんなことは断じて……!」
「だったらさ、別にいいよね? それとも、何もできなかったあなた達と違って――国を救った英雄であるわたしの命を懸けた願いが、聞き入れられない理由、あるの?」
シュリネの言葉に、反論できる者はいなくなっていた。
王国の権威を守るというのであれば、シュリネの願いもまた――王国を救った英雄の願いであり、権威に繋がる言葉である。
何の見返りも求めずに、ただ一つ――シュリネが願い出たのはハインを釈放するということ。
しかも名目は監視であり、何かあれば責任を取る、とまで言い切っている。
こうなっては、理由をつけて反論する方が何かやましいことでもあるのか、と疑われるのは道理だ。
隣で呆気に取られるルーテシアに対し、シュリネは小さく笑みを浮かべて、
「じゃ、決まったみたいだから、後はよろしくね」
残りの対応を任せて、その場を去って行った。
「さすがに後でルーテシアに怒られたよ。病室を抜け出したこともそうだし、勝手に嘆願書を出したことも、ね」
「……そうでしょうね。ルーテシア様は特に、あなたが犠牲になることを望まないでしょうから」
「? でも、あなたはもう決して裏切らない――だから、わたしの嘆願書なんて、あなたを自由にするために必要だっただけだよ」
「それは……いえ、そうだったとしても、あなたのしていることは普通ではありません。どうして、私なんかのために?」
「あなたのためじゃないよ。ルーテシアと、クーリのため。だから、柄にもないことしたんだから。あなたの感謝は必要ない」
自ら国の英雄を名乗るなんて――冗談ならまだしも、あんな貴族の集まった場所ですることではない。
シュリネの言葉を受けて、ハインは何か口を開こうとして、押し黙った。
感謝の言葉は必要ない――そう言われて、出鼻をくじかれた形だ。
「……そう言えば、クーリにはもう会ったの?」
「いえ、釈放されてから、あなたのところに最初に来たので」
「この病院にもいるんだからさ、普通はクーリのところからじゃない?」
「……恩人に礼を言いたいと思ったことが、変ですか?」
ちらりとハインの方を見ると、少し困った表情で――笑みを浮かべていた。
シュリネはそれを受けて、小さく溜め息を吐く。
「いいよ。礼の一つくらいなら、もらってあげる」
「……ありがとう、ございます。私は――あなたに救われました」
ハインは深々とシュリネに向かって頭を下げる。
しばらくそうして顔を上げた彼女は、
「……では、私はクーリの下へ向かいます。あなたも、なるべく早く病室に戻ってくださいね?」
「ん、分かったよ」
ハインが屋上から去って行き、一人残ったシュリネは――夜空を見上げて笑みを浮かべる。
「ま、こういう感謝なら、受け取っておくべきなのかもね」
一つの学びを得て、シュリネはそのまま屋上から飛んで、自身の病室へと戻る。
たまたまそこに居合わせたルーテシアに目撃され――また怒られることになるとは、さすがに予想していなかったが。