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4品目

 店を出た佐之介は、川のほとりまで行き、人目ひとめを忍ぶように腰を下ろした。

 いよいよ江戸一番の味を試すときである。味噌汁からは、湯気とともに、も言われぬ芳香ほうこうが漂ってきている。

「せっかく七文も出して買ったのだ。すぐに食うのはもったいない」

 と、しばらくは匂いだけを楽しんだ。

 そろそろ良い頃合と椀に手を伸ばしたが、間際で止まる。

 おさよに申し訳ない、という気持ちが強くなってきたのである。

「これは、おさよのためでもあるのだ」

 佐之介はそう声に出して、自らを奮い立たせた。

 だが、仮におさよにこれを食わせたとして、もし味の善し悪しに気付かなかったとしたら。何しろ、あの秘伝の味噌を美味と感じるほどの舌の持ち主である。

「すると俺はこれから一生、あの味噌汁を食っていかねばならなくなる」

 だったら初めから何もしない方がいい。未練みれんが残る。

「いや。月に一度の贅沢ぜいたくということにしてもよいではないか」

 それを支えにしていれば、おさよの味噌汁もきっと我慢できる。

 だが、それほど美味い味噌汁を食ってしまっては、却っておさよの作るものを食えなくなってしまうかもしれない。

「やはり食わぬが花か」

 椀の中身を川に流そうとして、佐之介は思い留まった。

「いくら何でも捨てるのは惜しい」

 高い銭を払い、嘘まで吐いて買ったのだ。

 気を落ち着けようと思って、佐之介は味噌汁の入った椀を地べたに置いた。

「それにしても、この椀の見事なものよ」

 鮮やかな朱塗りに、黒字で倉持屋の名が書かれている。こんな椀に大事に入れるくらいだから、やはり相当美味に違いない。

「女将の愛想も実によかった」

 名も知らぬ浪人風情ふぜいのわがままを、こころよく聞いてくれるような女だ。そんな女将がいる店の味噌汁なら、美味くて当然である。

「店の構えも立派なものだった」

 あれなら江戸一番という評判もうなずける。

「それに、この豆腐のきめ細かさはどうだ」

 上等の味噌汁となると、やはり具も上等なものを使っているようだ。日本橋なら腕のいい豆腐屋も多いだろう。

「すると、こいつを食うと、俺は豆腐も食えなくなってしまうのではないか」

 それでは家で食うものがなくなってしまう。

 今更ながら、佐之介はここに来たことを後悔し始めた。

「せめておさよが人並みの腕前であれば。いや、俺の稼ぎが少ないのが悪いのだ」

 ろくに女房を食わすこともできないくせに、文句ばかり言うのは卑怯ではないか。

「やはりこれは捨ててしまおう」

 佐之介は椀を手にして立ち上がった。

 しかしいざ中身をぶちまけようとしたが、どうしても勇気が湧いてこない。

「せめてひと口くらいなら」

「いや、やはりおさよを裏切ることになる」

「しかし物は試しという言葉もあるし」

 と、一事いちじ万事ばんじこの調子である。

 いつしか日も傾きだしていた。

 川べりを一頭のせた野良犬が歩いてくる。

「いっそ犬にくれてやるか」

 一抹いちまつの寂しさを感じながら、佐之介は意を決して、犬の前に椀を置いた。

「さあ食え。江戸一番の味噌汁だ」

 しかし野良犬は、ちょっと匂いを嗅いだだけで顔を背け、どこかへ行ってしまった。

「なんと、犬も食わぬというか」

 佐之介は驚きのあまり声を荒げた。

 慌てて椀を手に取って、中身を口に運ぶ。

「これは」

 江戸一番の評判の味噌汁は、冷たくて、味も素っ気もなかった。

「不味い。何という不味さだ」

 佐之介は目を、いや舌を疑った。

 犬が必ずしも味噌汁を食うとは限らないし、時間が経てば、どんな料理も冷めて不味くなるのは必然であろうに。

「これなら、おさよの味噌汁の方がよっぽど美味い」

 佐之介は一気に味噌汁をあおると、風のように倉持屋へ走った。

 そして店に入るなり、

「馳走であった。こんな不味い味噌汁は、生まれて初めて食ったわ」

 と大音声だいおんじょうのたまった。

 これには女将も客も唖然あぜんとした。

 今まで美味いと喜ばれたことはあったが、こんな晴れやかな笑顔で不味いと言われたのは初めてである。

 佐之介は女将に椀を返すと、意気いき揚々ようようと店を出ていった。

 早くおさよの味噌汁が食いたかった。


 (完)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 楽しく読ませて頂きました。 テンポが良かったです。 気取らない感じがいいと思います。
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