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第1章 1

 がんとは、細胞の中で生じた遺伝子の変異が引き金になる病気である。

 細胞増殖を制御する様々なメカニズムの一部が破綻することによって、過剰に増殖し続ける性質を獲得すること、そして過剰に増殖し続ける性質を抑制する機構すらも破綻させること、なにより全身に広がり続けることを可能にする「多様性」を獲得すること、これらの条件が整ってこそがんはがんとなり得る。

 当然、それらの性質を獲得するには複数の遺伝子に変異が生じていなければならないが、一方で単一の変化ががん化に関わる決定的な役割をになう場合があり得る。

 そのような遺伝子の変化を「ドライバー変異」と呼ぶ。


 本質的に、パネル検査で探したいのは、まさにそのようなドライバー変異である。

 例えば、肺癌で稀に認められるALK遺伝子の変異がその典型的な一例であると言える。

 ALK遺伝子に変異のある肺癌は、もともと若くて非喫煙者の患者さんで多いことが知られている。

 そのような癌は進行も早く、経過は非常に悪かった。

 状況を覆したのは、このALK遺伝子の異常に対する特異的な阻害薬、分子標的薬の開発だった。

 これまでの抗癌剤では考えられなかったような効果を発揮したALK阻害薬は、現在ではALK遺伝子変異を伴った肺癌に対する第一選択の薬剤として使用されている。


 そんな奇跡のような治療薬の開発を目の当たりにすれば、やはり遺伝子変異の検索にがん治療の活路を信じることは容易い。

 現に、ALK遺伝子変異は肺癌以外のがんでも見つかることが知られていて、だとすれば肺癌以外でもALK阻害薬が効く患者さんが存在する可能性はある。

 そのような患者さんを見つけ、その患者さんにALK阻害薬を使用することができれば、より効果的にがんを縮小できる可能性があるはずだ。

 それは決して、荒唐無稽な夢想などではない。


 そう、夢想などではないはずだ。

 朝の業務開始前にメールチェックをしていた鴇田は、小さくため息をついた。

 メールの送り主は大学の後輩でもある烏丸だった。

 内容はもちろん、紹介してもらった患者さんの経過について。

 烏丸から紹介されていたその患者さんには、先日遺伝子パネル検査の結果を説明したばかりだった。

 結果説明の日にもすでに顔色が悪くなっていたが。

「あっという間だったな……」

 思わず呻いてしまう。


 ちょうどそのとき、医局の扉が開いて恰幅の良い男性が入ってきた。

「鷲尾先生、おはようございます」

「あぁ、おはよう」

 鴇田が声をかけると、鷲尾と呼ばれた男性も微笑んで挨拶を返した。

 年齢は鴇田よりも十歳程年上の鷲尾は、首都医科大学附属病院 腫瘍センター 個別化医療部門の部長として一年前から赴任していた。

 というよりも、来るべきがんゲノム医療の時代に先駆けてがんゲノム医療に特化した部門を作ろうと画策していた首都医科大学の上層部が、すでに米国の現場で実績を残していた鷲尾を引き抜いた、というのが正しい。


 そうして新設された個別化医療部門で、部長の鷲尾の元で診療にあたりながらがんゲノム医療を学ぶために毎年数名の若手医師が配属されることになっていた。

 鴇田もこの四月から個別化医療部門に配属されていた。

 それまでは腫瘍内科医として八年間あらゆるがん種の化学療法に携わってきた。

 大学卒業後二年間の初期臨床研修もキャリアに含めれば十年間のキャリアがある。


「そういえば、この前紹介された石原さん、亡くなったみたいです」

 診療が始まるわずかな時間の間に、今朝届いたばかりのメールの内容を鷲尾と共有する。

 鷲尾は、途端に沈鬱な表情になった。

「それは、残念だったね……。

 BRAF阻害薬が使えれば良かったけれど、結果が出たのがつい先日だから、やっぱり間に合わなかったかもしれないね」

「ええ、もう少し結果が早く分かれば、というのは思いますが、結局今回の経過を考えると間に合わなかったと思います」

「そうだね……」

 少し考えるように首を傾げて、鷲尾もため息をついた。

 けれど、いつまでも下を向いているわけにはいかない。

「経過については、いつものようにFORTUNE試験データベースに入力しておいてね」

 そう指示を出して、自分の机に戻る時の鷲尾の表情はいつも通りの表情だった。

「承知しました」

 短く答えた鴇田もまた、いつものように自分のデスクに向き直った。

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