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序章6

「びーらふ、ですか?」

 聞き慣れない単語に、石原は思わず聞き返した。

 鴇田は、検査結果の報告書を示しながら、説明した。

「はい、このBRAFと書かれているのが、私達が『ビーラフ』と呼んでいる遺伝子です。

 この遺伝子は、細胞を増殖させる働きを持っています。

 車で例えるならば、アクセルのようなものですね。

 この遺伝子の働きがよくなりすぎてしまう変異が発生すると、車のアクセルが踏みっぱなしの状態になるように、がん細胞が過剰に増え続けることになります」

 石原にしてみれば、この車の例えが分かりやすいのか分かりにくいのかは何とも言えなかった。

「で、このV600Eって記号は?」

「これはBRAFがコードするタンパク質の600番目にあるアミノ酸がVからEに変化している事を示す記号です。

 この変異があると、BRAFの働きが活性化してしまう事が分かっていて、例えば皮膚のがんの一部ではこの変異があるかどうかで治療が変わることがあります」


 やっぱり専門的な説明は分からない。

 そもそも、タンパク質だのアミノ酸だのと言った単語が何を意味しているのかピンと来なかった。

 酪農業をしているから多少の栄養学に関する知識はあるものの、自分の知識と説明内容が繋がらないと、かえって混乱する。

 ただ、皮膚のがんの一部では、という説明を聞いてひらめくところがあった。

「てことは、この変異に対する治療薬はあるんだな?」

 急に希望を示されたような気がして、どうしても直接的な言い方になってしまう。

 となりの母親も苦しそうな表情ながらも、少しだけ微笑んだように見えた。

 ただ、鴇田の表情はあまり芳しくない。


「この変異に対する治療薬という意味ではあります、というのが答えです」

 奥歯に物が挟まったような言い方に、石原は思わず眉をひそめる。

「ただ、現在その薬は卵巣癌に対して保険が認められていません」

 それはつまり、保険診療で使用できない、ということなのだと以前の説明で聞いた。

 それでも使える方法があるのではないかと、石原は食い下がった。

「じゃあ、治験はどうなんです?

 ここは大きい病院だから、お袋が参加できるような治験は無いんですか?」

 しかし、鴇田の表情は変わらない。

「残念ながら、当院や近隣の専門病院も合わせて検索してみましたが、現在卵巣癌を対象にして行なわれているBRAF阻害剤の治験はありません。

 仮にあったとしても、現在のお母様の状況を考えると、参加するのは難しいと思われます。

 治験はどうしても研究という形で行なわれるので、様々な条件をそろえようとする傾向があって、特に全身状態が安定していないと参加しにくくなるのが現状です」


 一度膨らみかけた希望は、一気にしぼんでいく。

 なんだよ。

 こんなんなら、結局何もできないじゃないか。

 何も分からなかったのと変わらないのなら、検査なんか受けても意味がなかったじゃないか。

 一度は納得したはずだとはいえ、どうしても悔しさが苛立ちになってつのる。

 うつむいて、膝の上で握りしめた拳を見つめながら、石原は思考をまとめようと必死になった。

 諦めきれない。

 検査が無駄だったなんて思いたくはない。

 何かできる事は無いか?

 どんな手段を使ったっていい。

 本当に何もできないんだろうか?


「先生、一つ聞きたいんだけど」

 石原は務めて冷静に言葉を選んだ。

 鴇田もどうぞ、と言いながら姿勢を正して眼鏡を押さえた。

「本当にその薬を使う事はできないんですか?

 例えば、自費診療みたいな方法で海外から薬を輸入して、使う事はできないんですか?」


 このとき、鴇田の表情が動いたのを石原は見逃さなかった。

 心底苦しそうに歪んだ鴇田の表情。

 詐欺師のようだと石原が思っていた眼鏡をおもむろに外し、鴇田は重々しい声で言った。

「できるかできないか、という話で言えば不可能ではありません。

 ただし、いくつか問題があって、最大の問題が費用の問題です。

 この薬は毎日内服する薬ですが、一日あたりの薬代がおよそ二万八千円になります。

 単純計算して、一カ月あたりの薬代が九十万円近くになります。

 自費診療と保険診療を併用する事はできませんから、薬代だけでなく通院や検査の費用も全て自費になり、合計すれば一カ月あたりの負担は百万円を越えます。

 それだけの費用を使って治療をして、効果に関しては絶対にありますと断言できるもので無いのだとすると、私達としてもどんな患者さんに対しても勧められる選択肢ではないと思っています」


 いくらなんでも、無茶苦茶だと思った。

 検査だけですでに五十万円近くを使っている。

 この他に一カ月あたり百万円の費用は、出せない。

 出したくても、出せない。

 それでも、母親の命のためだからといって出すべきなのだろうか?

 あるいは、母親の命を優先してお金ならいくらでも出す、と言えない自分は息子として失格なのだろうか?


 思わず石原は母親の方を向いた。

 向いてしまった。

 そこには、顔色の悪くなった母親の顔があった。

 母親の両目は悲しく光っている。

 その両目と石原の視線が交差した。

 母親は全てを受け入れたとでも言うように寂しそうに微笑むと、小さく首を横に振った。

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