序章4
首都医科大学附属病院 腫瘍センター 個別化医療部門
烏丸の紹介状を持って受診したのは長ったらしい名前の、何を意味しているのか全く分からない部門だった。
消毒液の匂いも、心なしか堅苦しく感じる。
教科書通りの愛想の良さを顔に貼付けた受付の受け答えは人工的すぎて、都会の大学病院はこんなものなのかと、気圧された。
最先端の医療を提供しているのだから、さぞかし混んでいるのだろうと思ったら、あっさりと予約時間通りに診察室に通された。
白い壁の診察室には、ハーフリムの眼鏡をかけた三十代前半程度の男が待っていた。
烏丸からの紹介状を読んでいることから、この男が担当の鴇田という医者らしい。
石原が母親とともに診察室に入ったのに気付くと、鴇田は顔を上げて、身体ごと母親の方を向くようにして、お待たせしましたと言った。
別に待っていないと思ったが、そういう風に言うのが鴇田という医者の流儀なのかもしれない。
白衣の下はボタンダウンシャツに赤いネクタイをしていた。
眼鏡の向こう側の目は人懐っこそうな印象で、ただ、何となく詐欺師のような胡散臭さもあった。
「改めまして、個別化医療部門の鴇田です」
胸元の名札を軽く持ち上げながら、少しだけ口角を上げる。
胡散臭い作り物のような笑顔に、思わず身構えた。
「烏丸先生は大学時代の後輩なんですよ。
彼、元気でした?」
鴇田は世間話を挟んでから問診を始めた。
診断に至った経緯、今日まで行なわれた治療とその効果、今後の治療の方針をどうやって説明されているか。
問診の内容は過去にかかった病気の有無や、現在の内服薬、生活環境や家族背景にも及んだ。
タイミングよく相槌を挟みながら、情報を効率よく引き出していく。
言い足りない事が無いかを確認しながら、丁寧な口調で話す鴇田を、母親はすっかり信頼しているらしい。
全身の簡単な診察が終わったところで、鴇田はようやく本題を切り出した。
「さて、今回は烏丸先生のご紹介でがんゲノム医療についての相談をしたい、という事でしたよね。
がんゲノム医療って何?というところから話をした方が良いと思うのですが、そのためには何故がんができるのか、というお話を最初にさせて頂きます。
そもそも、がんも元をただせば正常な細胞です。
正常な細胞は細胞を作るための設計図、遺伝子を持っています。
遺伝子には様々な刺激で傷ができてしまう事があるのですが、この傷が沢山ついてしまうと、細胞は正常な設計図どおりの細胞を作る事ができなくなり、異常に増殖したり、周囲に広がっていくような性質を持ってしまったりする事があります。
こうやってがんができると考えられています。」
ここまでを一気に喋って、鴇田は一息をついた。
正直、遺伝子なんて事を言われてもよくわからなかったが、何となく理屈は分からなくもない。
石原も母親も、曖昧に首肯くくらいしかできなかった。
「だとすれば、がんの細胞を取り出して、そこから設計図の変化、つまり遺伝子の変化がどんなところに起こっているのか、を調べる事ができれば、がんの性質や、変化に合わせた治療の選択肢がわかる可能性があるのではないか、という理屈で始まったのががんゲノム医療です。
昨今では遺伝子の変化を見つける検査の性質が良くなってきた事に合わせて、変化に合わせた治療薬が開発されつつあることから、がんゲノム医療は注目され、期待されているのです」
なるほど、だとすれば今まで分からなかったようながんの性質が分かって、有効な治療が見つかるのか、と石原は期待に胸が膨らんだ。
遺伝子の変化に合わせた治療なら、烏丸が提案した抗癌剤の治療よりもずっと良く効くかもしれない。
「ただし」
ここで鴇田は急に声のトーンを落とした。
本当に大事な事はここから、とでも言うかのように、眼鏡の位置を直してから、続けた。
「がんゲノム医療はまだまだ研究の途上段階にあり、課題がない訳ではありません。
実際、検査を受けて頂いたとしても、全ての患者さんで治療の候補が見つかるとは限りません。
私達が使っている検査自体は、すでに海外で実績のある先進的な検査で、その検査の質は保証されています。
それでも、検査をしても遺伝子の変化が見つからない、という場合があり得ます。
例えばですが、十人の患者さんに検査をしたとすると、十人中で一人から二人くらいは、結果が出ない、遺伝子の変化が見つからない、という可能性があり得ます。
逆に言えば、十人中で八人から九人には何らかの遺伝子の変化が見つかると言えるのですが、治療の候補がある、という意味ではさらにその八割程度、六人程度とさらに少なくなってしまいます」
けれど、十人中で六人ならまだ良いのではないか、と石原は思った。
検査だってもちろんタダではないだろう。
事前に烏丸からはそれなりに値段のする検査であるとは聞いていた。
けれど、その検査で治療の選択肢が見つかるかもしれないのなら、もっというならば、母親の癌を治す可能性がちょっとでもあるのなら、可能性にかけてみるのは悪くないと考えていた。
しかし、鴇田がさらに続けた内容は、石原が思っていたよりもずっと厳しい内容だった。
「ただし、ここまではあくまでも結果に基づいた治療の候補があるかどうか、という数です。
実際、そうやって候補になる薬が見つかったとして、次に問題になるのはその薬をどうやって使うか、です。
現在の日本の保険制度では、保険で認められた薬は、保険で認められた疾患に対してのみ使うことが認められています。
当然保険診療の中で薬を使う事ができるのならば、保険診療で薬を使いますが、それができない場合もあり得ます。
その場合には、治験に参加する等の方法で薬を使う事になりますが、治験は必ずしも参加できるとは限りません。
そうすると、実際に治療ができるというところまで考えるのであれば、変異に合わせた治療を受けられるのは、十人中一人から二人程度になってしまうという現状があります。
もちろん、検査を受けなければその可能性は零という事になりますが、実際に検査を受けて頂いたとしても、最終的に治療にたどり着く方は多くはない、という事はあらかじめご理解いただいてから検査を受けて頂く事にしています」