序章1
灰色の分厚い雲が、ゆっくりと流れている。
雲は途切れる事なく頭上を覆っていて、その向こう側にあるはずの青空は見えない。
雨が降る気配はないけれど、空が晴れる気配もない。
海からの湿気を含んだ空気が、生温く頬をなでる。
ふと地平線に目を向ければ、高台の上に並んだ風力発電の風車が、回りもせずにただ佇んでいるのが見えた。
風は、吹いているはずなのに。
カラカラと音がして、黒服を着た二人組の男がストレッチャーを運んできた。
その上には、白い布をかけられた、かつて母親だった身体が横たわっている。
石原はそちらの方をちらりと見て、もう一度、雲を見上げた。
なぜだか、空を見上げていないと落ち着かなかった。
葬儀場から来た二人は、目の前に停められたワンボックスカーのバックドアを持ち上げて、ストレッチャーを乗せようとしている。
ガタガタと音がして、視界の端で母親の輪郭が揺れた。
石原は黙っていた。
日々の仕事で鍛えられた二の腕を抱えるように腕を組みながら、じっと立ち続けた。
「ご家族の方、お一人でしたら乗れますが、どなたが同乗されますか?」
黒服を来た男がバックドアを閉めながら声をかける。
「俺は車で行くから、親父、乗ってけよ」
となりに立つ父親の方を見る事もせずに、石原は言った。
見るからに憔悴し、すっかり痩せてしまった父親は、もごもごと一言二言、何かを言ったらしかったが、石原には聞こえなかった。
黒服の男に手を貸してもらいながら、白髪の父親がよろめきながらワンボックスカーに乗り込むのを横目に、やっぱり石原は空を見上げ続けた。
「それでは、出発いたします」
慇懃に頭を下げた黒服の男に、おう、とだけ応える。
ワンボックスカーはそのままエンジンをかけると、ゆっくりと走り出した。
その瞬間、背後の空気が動いた。
そして、沈黙。
ワンボックスカーが敷地の角を曲がって見えなくなったのを確認して、石原は後ろを振り返った。
そこには白衣を来た医者と看護師が立っていた。
「ま、色々お世話になったな」
声をかけると、医者は少しうつむいて下唇を噛んだ。
「そんな顔するなよ。お袋も先生には感謝してたんだ」
元気づけようと思って言ったはずの声は、少しだけ震えてしまった。
「そうおっしゃって頂けて、本当に……」
その後の言葉を続けられなくなった医者は、もう一度頭をさげた。
「まぁ、今度は俺のかみさんが妊娠した時にでも、よろしくな」
相手を捜すのが先だけどな、とまでは言わずに、石原は笑った。
「もちろんです、お待ちしています」
顔を上げた医者は、石原を真っすぐ見つめながら、そう答えた。
ああ、そうだ。
この医者は真面目な奴なんだ。
だから、こんな俺のふざけた言葉にも真面目に答える。
いつだって、真剣に。
石原は踵を返すと、別れを告げるようにぱたぱたと手を振りながら駐車場に向かって歩き出した。
やっぱり、空を見上げなければ目尻の辺りが落ち着かない。
灰色の雲を見上げて、石原は小さく息を吐いた。
母親と過ごした、最後の数年感を思い出しながら。