弍話
先の山より東にある三雲山の中腹に佇む「三雲神社」は何百年も前からある歴史的に古い神社である。
三雲神社に祀られている主祭神は、勿論山神だった。
山神は、この山と、山のそばの地域を厄災から守り、豊作を齎すと言われている。
その神社で掃き掃除をしている少女がいた。
彼女の名前は三雲輪廻。
巫女服を身にまとい、黒くツヤのある髪は長く、小さな鈴のついたリボンで一つにまとめられている。
幼さを残した顔立ちは可愛らしく、くりっとした目元には愛嬌があった。
輪廻は、箒で落ち葉を集めながら、真上に来た太陽に手をかざしつつ空を眺める。
その黒い瞳に、どこか寂しそうな色が写った。
輪廻の父親は、もう丸二週間帰ってきていない。
仕事が忙しく、泊りがけが多い父親で、神社に帰ってきても、すぐにまた仕事で出て行ってしまう。
それが、父親以外の家族がいない輪廻に、耐え難いようなさみしさと心細さを与えていた。
次はいつ帰ってくるのだろう。明日?明後日?それすらもわからない。
輪廻は小さく溜息をついた。
その時。
鳥居の向こうの石段から聞きなれた足音がする。
輪廻はぱっと表情を明るくさせた。
パタパタと石段のそばの鳥居まで走る。階段の下を見ると、思った通り。
父親である三雲新太が、なにやら辛そうに上がってくるのが見えた。
「あ、輪廻。ただいま。遅くなってすまないね。」
新太も輪廻に気が付いたようで、額に汗を浮かべながら微笑む。
久しぶりに見た父親の顔はなんだか、少しやつれて見えた。
輪廻はなんだか心配になりながらも、久しぶりに会えた安心感のほうが大きく、お帰りと言わんばかりに慌てて傍により身振り手振りで喜びを表した。
さながら家に帰ってきた主人をしっぽを振って出迎える犬のようである。
「ああ、僕も久しぶりに輪廻の元気な顔が見られて安心してるよ。輪廻、いきなりですまないが、これを先に中へ運んでおいてくれないかい?僕はまだやることがあるからね。」
新太が手に持っていた買い物袋を輪廻に差し出す。
輪廻はこくっ、と頷いて、袋を受け取ると階段を駆け上がった。
そのまま縁側から中に入ると、台所へ行き、買い物袋の中身を片付けていく。
人参にじゃがいも、お肉に糸こんにゃく。今夜は肉じゃがだろうか。
片づけを済ませると、輪廻はお茶を入れ始めた。
新太は大変つかれている様子だったので彼女なりの気遣いだ。
お茶を持って神社の境内に戻ると、そこに父親の姿はもうなかった。
縁側だろうかと、神社の縁側をぐるりと見回ってみたが見当たらない。どこに行ったのだろうと輪廻は首をかしげた。
縁側にお茶と茶菓子の乗ったお盆を置き、新太を探しに行くことにする。
ここにいないとなると、離れにある書斎だろうか。この神社には、離れの他にも、本宮や畑、蔵まであり、探すのに少し時間はかかりそうだったが、あの疲弊のしようではどこかで倒れているかもしれないという不安が頭をよぎる。
新太を探して輪廻は広い神社の中を探し始めた。神社の居間、書斎、畑と順々に見回っていく。だが、どこにも新太の姿はなかった。
頭上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾ける。一体どこに行ったのだろうか。神社の中にある小さな畑を見ながら、また何も言わずにお勤めに行ってしまったのだろうかと、やや呆れながら思った。
畑にはトマト、キュウリ、キャベツと野菜が多く生っており、その中でもトマトは大きく真っ赤に熟成した立派な実がなっている。
確か、これを植えたのも去年のこれぐらいの時期だった気がする。
植えたのはついこの間のことのように思っていたのだが、もう収穫時期になっていたのか。
輪廻は野菜の知識は殆どなかったので、収穫時期も知らず、新太が帰ってくるまで野菜もいつも放置だった。
もっと沢山ここに居てくれれば、野菜をだめにすることもなのにと輪廻は思う。
勿論自分で覚えて育ててもいいのだが、肥料の巻き方や収穫の仕方と、新太の中にはなにやら細やかなルールがあるようで、あまり気軽に触れるものでもなかったのだ。輪廻はそんなことを考えながら小さくため息をいた。
「……っ」
突然、背筋を凍るような冷たいなにかが駆け上がった。思わずぞっとして肩を震わせる。なんだかこのあたりの空気がおかしい。いつもの空気とは違って、なんだかよどんでいる気がした。
輪廻は若干の恐怖心を抱きながら、空気の淀みが発せられている方を感じ取り、視線をそちらに向ける。
そこには蔵があった。
この蔵は、輪廻が生まれる前からずっとそこに建っており、普段は物置として使われている。
不用心な新太が畑の用具や肥料などもここにしまっているので、普段は施錠も甘く、半開きの時すらあるのだが、今はなぜか、固く閉ざされ、重々しい空気を放っている。
不思議に思った輪廻は、蔵の傍に寄る。何故だかその蔵の周りだけ空気が冷え切っていた。ドアノブに触れるなり、凍るような冷たさに思わず手を離してしまう。
異様な空気に中を見る勇気がでず、一度この場を離れようと考えたが、ふと、不安が脳裏を過る。
中で新太が行き倒れていたらどうしよう、と。
おずおずと再びドアノブに手を伸ばす。
そして輪廻は意を決して、重たい鉄の扉を押し開けた。ギイと重たい音を立ててドアが開いていく。中から冷え切った空気が溢れ出し、輪廻の頬を撫でた。悪寒に似た何かで、ぶるりと体が震える。
輪廻は恐る恐る中を覗いた。だが、中は真っ暗で何も見えない。
明かりはどこにあったっけ。おずおずと足を踏み出し、輪廻は中へはいると手探りで明かりを探し始めた。
すると、足に何かが当たる感覚。思わず輪廻はビクリと肩を震わせ、足元を見た。
そこには、開け放たれた扉から差し込む光を反射させて光っている、手のひらサイズと少し大きめのビー玉のような透き通った色の球体が転がっていた。
なんだろうこれ。家でも見たことのない球体に好奇心が湧いた輪廻は、その場にしゃがみ込み、球体を拾い上げた。次の瞬間。
眩い光が球体より放れて、その光は蔵の締め切られた窓の隙間や、扉からも漏れ出すほどに明るく、輪廻の視界も一瞬で奪われた。
驚きのあまり、目を瞬かせて、段々と視力を取り戻した輪廻は首を振る。一体何がどうなってるんだと顔を上げた。
するとその先には。
煌くような黄金色の長い髪に、端正な顔立ち、その真紅の双眼は鋭く、それでいて、凛とした表情が美しい。加えて、頭には人間とは違う、獣のそれとしか思えない三角の大きな耳が二つ、腰からは柔らかな毛が生えた、ふくよかな尻尾を持つ妖狐の少女がいた。